氷に包まれたユ=ツ・スエ・ビル①
「ん…?何だ…これは…」
先頭を歩いていたクトゥルが思わず足を止めた。
一行は、ゆるやかに上り坂となったセレナータ・ルートを登りきり、静寂に包まれた海底の道を抜け出たばかりだった。
だが──その先に広がっていた光景は、誰もが息を呑むほどの異質さを放っていた。
まるで神の手が天から降ろされたように、そこには巨大な氷の壁がそびえ立っていた。
純白に輝くその壁は、空に向かってまっすぐに伸び、頂が見えないほど高く、ユ=ツ・スエ・ビル全体を抱くように囲っている。
圧倒的な静けさと冷気が周囲を支配し、光さえも凍らせるかのような雰囲気を放っていた。
セレナータ・ルートの出口を出た瞬間、一行の視界はその白に完全に覆われた。
それは自然の造形ではない。あまりに精密で、あまりに強大な魔力の意志を感じさせる──異質なる結界。
「これは……」
エリザベートが一歩前へ出て、ゆっくりと氷の壁へ手を伸ばした。
長い睫毛が伏せられ、その瞳には真剣な光が宿る。
指先が氷に触れた瞬間、淡く青白い波紋が、まるで水面に落ちた一滴の雫のように静かに広がっていった。
波紋は一度だけ揺れ、すぐに消える。その様子を見て、彼女は眉をひそめる。
「魔力よ……かなり高度な結界。しかも、ただの氷ではない。魔力の流れを止めるように作られているわ」
「流れを……?」
背後からティファーが小さく首を傾げながら問いかけた。
その声には、純粋な疑問とわずかな不安が滲んでいた。
「そう。魔力の流れ──つまり、移動や転移すら遮断する、干渉系の魔法。おそらく、内部にテレポートで侵入するのは不可能よ…」
エリザベートは苛立ちを隠しきれず、拳を握ると氷の壁に叩きつけた。
だが、重厚な氷は無音のままその冷気で反発し、彼女の拳に何の手応えも与えない。
淡い霜が一瞬だけ、彼女の指先を覆って消えた。
「おのれ、誰がこんな結界を…!こうなれば、わっちの炎で溶かしてやるぞいっ!」
アーヴァが憤りを露わにして、拳を炎で包み込む。
青白い炎が高く燃え上がり、彼女の小さな体を包むように揺れた。
そして──そのまま氷壁に叩きつける。
ジュゥッ……という音が響き、一瞬だけ氷が溶けるが、それも束の間。
解けた部分はまるで時間を巻き戻すかのようにすぐさま再生し、元通りの結界へと戻っていった。
「ぐぬっ…」
悔しげに唇を噛むアーヴァ。
尻尾の先が小刻みに震え、拳を握りしめたまま氷の壁を睨みつける。
その後ろで、クトゥルはただ静かに氷の壁を見つめていた。
彼の金の瞳が揺れる光を捉え、何かを探るように細められていく。
そして、ゆっくりと右手を伸ばす──
だが、その指先は、氷に届く寸前で止まった。
まるで、それ以上は近づくなと、何かが告げているかのように。
理屈ではなく、本能が──拒絶するように。
彼の表情は変わらず冷静に見えたが、その沈黙の奥にある緊張は、誰にも見えないところで静かに膨らんでいた。
「塞がれておる…どういたしましょうぞい…クトゥル様?」
アーヴァが拳を握りしめたまま振り返ると、その言葉を合図にしたかのように、一行の視線が自然とクトゥルに集まった。
誰もがその決断を仰ぐように、静かに、しかし確かな期待と緊張を孕んだ眼差しを向ける。
クトゥルは腕を組み、無言のまま氷の壁を見据えた。
その威厳ある佇まいは、まるで状況のすべてを見通しているかのように見えるが──
「(ふふふ…これは、俺たちの旅はここで終わりってことだなっ!よし、セレナータ・ルートから引き返そうっ!)」
その内心は真逆である。
焦りとも言えぬ不安の中、内心で逃げ道を探していたクトゥルは、なんとか引き返すための大義名分を捻り出そうと、ゆっくりと踵を返しかけ──
その瞬間だった。
ゴゴゴゴ……という低いうねりと共に、静寂に包まれた海底の岩陰から、水流が二手に割れる。
水の膜が揺れ、その隙間から、複数の影が現れた。
それは、槍を手にした水棲の戦士たち──ディープマーマン。
筋肉質な体躯に濃紺の鱗を纏い、長くしなやかな尾を引く彼らは、深海に生きる誇り高き民。
中でも先頭に立つ個体は、研ぎ澄まされた瞳と精悍な顔立ちを持ち、他の者たちとは一線を画す威厳を纏っていた。
「──クトゥル様のご一行ですね」
彼は槍を下ろすと、静かに頭を垂れた。
その所作にはいささかの敵意もなく、礼儀と忠誠の色がはっきりと宿っている。
「私はアクアリアス様の直属。新たなる長の命により、皆様をユ=ツ・スエ・ビルの領内にお通しするよう申し使っております…」
まるで予定されていたかのように告げられた言葉に、一行は互いに顔を見合わせる。
その中で、エリザベートが一歩前へ出た。
「私たちを通す手段がある、ということかしら…?」
疑念を込めた声に、ディープマーマンは深く頷いた。
そして、手に持った杖を高く掲げる。
「私たちディープマーマンは、かつてこの地に根付いていた民。結界の力が上を封じているなら、下から行けばよいのです。」
その言葉と同時に、彼の足元から水がせり上がり、淡い光を帯びて回転し始めた。
渦のように、いや、紋章のように──水の輪が幾重にも広がり、やがてクトゥルたちの足元を包み込む。
空間が歪む感覚とともに、身体がふわりと浮き上がった。
重力が逆転するような不思議な感覚。
足元の海底が遠ざかり、意識がどこか宙に浮かぶような錯覚の中で、一行の体は水の螺旋に包まれながら、ゆっくりと沈んでいった。
―――
海の底へと沈降していく一行。その身を包む水の螺旋は、やがて静かな揺らぎとなり、周囲の景色を夢幻のように滲ませていた。
透明な世界に揺れるのは、大小様々な海洋生命。翡翠の光を放つ鱗を纏う魚たちが、群れとなってすり抜け、軟体の生き物が優雅に流線を描いていく。クラゲのような発光体が浮かび、イルミナのような微細な粒子が水中を照らすさまは、まるで幻想の中を泳いでいるかのようだった。
ティファーの長いポニーテールは、水の抵抗に乗ってふわりと漂い、ルドラヴェールのたてがみとアーヴァの青色の尻尾が、軽やかに弧を描いて揺れている。
エリザベートはローブの内に指を差し入れながら、魔力の流れを丁寧に整えていた。けれど、その表情に緊張や警戒の色はない。むしろ、薄く笑みを浮かべ、その口元には冷たくも余裕に満ちた冷笑が宿っていた。
「なるほど。氷で封じられた上ではなく、下から侵入するのね…」
彼女の言葉に、アーヴァが楽しげに頷いた。
「さすがは海の民、抜け道をよう知っておるのじゃ」
その後方、ルドラヴェールは無言のまま泳いでいた。視線は振り返るように後方へと向けられており、その双眸は不穏な気配を一瞬たりとも逃さぬよう張り詰めている。彼の動きはまるで魚そのもので、静かで、速く、正確だった。
やがて、先頭を進むディープマーマンが速度を緩め、左手を掲げた。
「……見えてきました。──あそこです…わずかなほころびがあります」
指差す先には、岩盤に隠された狭い隙間。自然の地形と見紛うようなその空間は、人が二人並んで通るにはあまりに窮屈で、けれど確かに存在していた。
海流に抗うようにして、その裂け目へと身を滑らせていく一行。先導するディープマーマンの案内のもと、彼らは静かに岩盤の奥深くへと潜っていった。
その先は緩やかな上り坂になっており、道の先にはかすかな光が瞬いていた。
──そして、次の瞬間。
彼らの頭上にぽっかりと開いた水面を抜け、呼吸と共に空気を吸い込んだとき、視界が切り替わった。
「……ここが、ユ=ツ・スエ・ビルの領内……?」
ティファーの呟きは、初めて立ち入った異境への驚きに満ちていた。
「……やっと、入れたのう…」
アーヴァが安堵を滲ませるように口を開くと、その息が白く染まり、空中へふわりと溶けた。
その瞬間、皆が同じものを感じ取った。
明らかに異常な冷気──
皮膚を刺すような寒さが、肌の上から骨の髄へと染み込んでくる。
「……っくし!」
ティファーが身をすくませ、小さなくしゃみをした。唇はわずかに青ざめ、その肩が震えている。
「グルッ…ヤハリ濡レルノハ、好カン」
ルドラヴェールは濡れた体を震わせて、水気を取ると、静かに周囲を一瞥し、眉を僅かに寄せた。
他の者たちも次々に吐息をこぼし、それが目に見える霧となって空中に浮かぶ。だが、その白い息は空へと溶けることなく、まるでその場に留まり、濃く、濃く漂っていた。
彼らの足元に敷かれた石畳には、雪が降り、立ち並ぶ柱の根元では、氷の花が静かに咲いていた。
「…外だけじゃなくて…中まで…」
エリザベートが眉をひそめ、静かに壁へと手を伸ばす。手袋越しの指先で、硬く凍りついた壁面を軽く叩いた。石造りのはずのそれは、鈍く重い反響を返しながら、氷殻に包まれた感触を明確に伝えてくる。
「ここも、氷魔法で覆われている。…けど、外の魔法とはまた違うようね。」
声には、ただの警戒心だけではない。緻密な魔力の使い手である彼女ならではの違和感が、肌に、魔力に、確かに引っかかっていた。
「皆さん…見てください……」
ティファーが緊張を帯びた声で呼びかけ、空を仰ぐ。
そこに広がっていたのは、灰色の雲に覆われた重たい空。光は差しているはずなのに、寒色を帯びた光は淡く、凍てつくほどに青白かった。まるで太陽すらこの地を見捨てたかのような、無慈悲な曇天だった。
風がないはずの空間に、しかし冷気だけは確かに存在していた。どこからともなく這い寄るように忍び寄り、じわじわと体温を奪ってゆく。
「何ということじゃ……ここがユ=ツ・スエ・ビルじゃと…?」
アーヴァの呟きに、返答する者はいなかった。凍りついた景色が、すでに多くを語っていたからだ。
「(うぅ…寒いな…けれど、見た目邪神が寒さに負ける何て威厳が損なう…)」
クトゥルは背筋を伸ばし、なるべく堂々とした口調でエリザベートに尋ねる。
「エリザベートよ、ユ=ツ・スエ・ビルではこれが、当たり前なのか…?」
「いえ、確かに気温は寒いですが、この時期に雪が降るということはありえません…」
即座に返される冷静な言葉。エリザベートの眼差しは、すでにこの異常事態の核心を探り始めていた。
「(うーん。これも、魔法か…?)」
クトゥルは天を仰ぎ、そっと手をかざす。指先を撫でる冷風が、針のような痛みとなって肌を刺し、顔をしかめた。
「ここ全体が、まるで氷の棺のようだな…(今の台詞カッコよかったかもっ…)」
静寂の中、その言葉に誰もが目を伏せ、ただ静かに頷いた。
──ここはユ=ツ・スエ・ビルの領内。
かつて海上に浮かび、文化と魔術が交錯した繁栄の地は、今やその一部が氷の牢獄と化し、凍てついたまま沈んでいた。
崩れかけた建物の隙間から見えるのは、凍りついた鳥。つぼみを開くことなく氷に包まれた花。帆も張らず、氷塊に沈む船。そして開かぬまま閉ざされた門。
──命の痕跡。
それらは、まるで「時」そのものを封じたかのように、白く冷たい棺の中に眠っていた。
「人はいないんでしょうか…?」
ティファーの声が、どこか祈るように響いた。しかし返ってきたのは、現実的で冷たい返答だった。
「人は、いないはずよ。この地にいるのは…皆、魔族…隠れているかおそらく死んでるわね…」
エリザベートは腕を組み、淡々とした口調で断じる。感情を挟む余地はない。冷気と共に在るこの地では、情も凍るのだ。
クトゥルは白い息を吐きながら、指揮を取るように口を開く。
「まず何が起きたか確認する必要がある…移動するぞ(寒いさむいっ…家に入って暖を取らないと…)」
冗談めいた思考とは裏腹に、発せられた言葉には確かな威厳が宿っていた。吐く息すらも、今は一つの宣言のように宙に残る。
その声に、エリザベートをはじめとする仲間たちは一斉に頷き、静かに頭を下げた。
彼らは、凍てついた都の奥へと、確かな足取りで歩み出していった。




