真珠の夢の宿③
──しん、と静まりかえった白の世界。
音というものが、初めから存在しなかったかのような沈黙が辺りを支配していた。
地面に足を置いている感覚はあるのに、そこに触れているはずの足裏すら、どこか現実感を欠いている。
波紋のように揺らめく淡い光が足元から広がり、無限に続く水平線のような大地を、静かに照らしていた。
空はなく、風も吹かない。
息をしても、肺の動きだけが虚ろに感じられる。
ただ──懐かしい、あまりに懐かしい香りだけが、胸の奥を締めつけるように漂っていた。
「……ここは……?」
ティファーは立ち尽くしていた。
声を出した瞬間、自分の鼓膜が震えたことでようやく、自分が生きているという実感が戻ってくる。
目の前に、ふいに柔らかな影が現れる。
それは──影、ではなかった。
「……ママ……?」
透き通るような存在が、静かにティファーを見つめていた。
栗色の長い髪が肩にかかり、どこか懐かしい笑みを浮かべるその女性は、間違いなく、ティファーの母だった。
その瞳は、自分と同じ色をしている。
優しさと切なさが入り混じるその視線に、ティファーはただ言葉を失った。
「……パパ……」
母の隣に現れたのは、背筋を正したまま微笑む男性の姿。
威厳と柔和さを併せ持つそのまなざしは、幼い頃の記憶の中と何ひとつ変わっていない。
色褪せたプラチナブロンドの髪が静かに風もない空間に揺れ、彼の口元がやさしく動いた。
ティファーの名を、確かに呼んでいる。
そして──
「お姉ちゃん!」
かすかな声が響いたかと思うと、細い腕がティファーの腰にしがみついた。
ふいに覚えるぬくもり。小さな手、小さな体。
ティファーがぎゅっと目を閉じ、開いたとき、そこにいたのは、思い出の中でしか会えないはずの存在。
妹の、ミレーナだった。
「帰ってきたんだね!ずっと待ってたんだよ!」
明るく無垢な声が、静寂の世界を破るように響く。
ミレーナの腕は、まっすぐにティファーを求めて伸び、迷いなくその体にしがみついた。
その瞬間、ティファーの心は決壊した。
「あ……あぁ……そんな、何で……!」
言葉にならない感情が胸を満たし、ティファーは震えながら、細い妹の体に腕をまわす。
ひしと抱きしめたその体からは、ほんのりとした温かさが伝わってくる。
幻のはずなのに──確かに、そこにいる。
やわらかな体温。
生きていた時と変わらない、懐かしいぬくもり。
その現実が、ティファーの心を静かに、だが確実に打ち砕いた。
「ごめん、ごめんね……守れなかった……!私がもっと強ければ、みんなを――!」
涙で言葉が詰まりながら、それでもティファーは必死に叫んだ。
噴き出す悔恨の念。
心の奥に封じ込めていた罪悪感が、今ここで、あふれ出す。
その背に、そっと触れる手があった。
優しく、包み込むように。
母の手だった。あの時と同じ、慈しみに満ちた温もり。
「もういいのよ、ティファー。あなたは、ちゃんと前を向いて、歩いている。」
母の声は柔らかく、慰めではなく、確かな肯定だった。
父もまた、微笑みながらティファーを見守っている。
そのまなざしには、責める色など一片もなかった。
「お父さんもお母さんも、ミレーナも、あなたのことを誇りに思ってるわ。」
その言葉は、長い間、自らに許されなかった感情をそっと解きほぐす。
続いて、ミレーナが顔を上げた。
涙を一滴も浮かべず、まるで誰よりも大人のように微笑んだ。
「わたしたちはね、ちゃんとあの時を受け入れてるんだよ。だから、お姉ちゃんが一番、許してあげて。自分のことをさ…」
ティファーが何かを言おうとした時、ミレーナは静かに顔を近づけ、姉の額にそっと唇を落とした。
柔らかいキス。それだけで、心の奥底が震える。
その瞬間、ティファーの瞳から、堰を切ったように涙があふれた。
言葉にはならない想いが、痛みと共に解けていく。
後悔。悲しみ。怒り。
ずっと自分を縛っていた全てが、涙に溶けて、消えていった。
「……うん……うん……ありがとう……」
静かに目を閉じたティファーが再び瞼を開けた時、家族の姿はもうなかった。
けれど、消えたのではない。
彼らは淡い光へと還り、その光はティファーの胸の奥に、確かに残っていた。
その涙をそっと拭った時、彼女の胸の奥に、小さな光が灯っていた。
それは淡く輝く、真珠のような輝き。
名もなきその光は、彼女の心から生まれたものだった。
己の過去と、向き合い、乗り越えた証。
──心のかけら。
その輝きは、ティファーが初めて自分自身を赦したことを示す、静かな祈りだった。
―――
蒼い霧が、静かに揺れていた。
音という音が消え失せた空間。
光すらも滲んで、まるで水底に沈んだかのような幻想。
時間そのものが凍りついたような場所で、アーヴァ=ンシュタウンフェンはただ一人、夢と現の境を彷徨っていた。
空は、灰と青を溶かしたような曖昧な色で満たされていた。
その天蓋に、ふたつの光球がゆるやかに浮かんでいる。
淡く、遠く、だが確かに彼女を見つめているように。
記憶の欠片のように、光は彼女の前をふわりと横切り、導くように揺れていた。
アーヴァは何も考えず、ただその後を追った。
それが正しいことのように感じたのだ。
蒼の霧を踏みしめるように歩いていくと、やがて足元に広がる風景が、彼女の心を静かに締めつけた。
そこは、確かに覚えている場所だった。
――滅びる前の、ンシュタウンフェンの屋敷。
その中庭。まだ誰も血を流していなかった頃の、かつての光景。
広大な庭園には草木はほとんど存在せず、その代わりに青く燃える炎花や、魔力で成長する蒼結晶の樹が植えられ、人工物でありながらも幻想的な自然のように整えられている。
「……懐かしいのう……わっちが幼き頃、ここで……」
ぽつりと呟いたその瞬間――
風が吹いた。
現実ではもう感じることの叶わぬ風。
柔らかく、あたたかく、まるで彼女を撫でるかのように。
白い蓮の花弁がひとひら、ふわりと舞い上がる。
そのとき、聞こえたのだ。
「アーヴァ」
誰よりも忘れ得ぬ、深く低いその声に、アーヴァの瞳が大きく見開かれる。
反射的に振り向いた先、そこに立っていたのは――父だった。
高い背、鋭くも誇り高い角。
威厳に満ちたその姿は、幼い頃に見上げたままのもの。
だが、今、アーヴァを見つめるその目は、ただ優しく、穏やかだった。
「よく来たね、我が姫よ」
懐かしい呼び名。
あの時、最後まで呼ばれることのなかった言葉が、胸を打つ。
その後ろに立っていたのは、母だった。
柔らかな灰銀の髪が、霧の風にたゆたっている。
気品と慈愛をまといながら、静かに娘を見つめていた。
その存在は、アーヴァにとって理想であり、守りたいと願った全てだった。
「……父上……母上……!?…わっちは……ずっと……!」
震える声が、霧に溶けて消えていく。
堪えきれないものが胸の奥からこみ上げ、アーヴァは膝をついた。
小さな肩が震え、硬く握った拳が石畳を叩く。
涙が頬を伝い、青い炎の上にしずくを落としたそのとき――
柔らかな衣擦れの音とともに、母が歩み寄ってきた。
静かに、優しく、風に舞う花びらのように。
彼女は跪くアーヴァの前にそっと屈み、手を伸ばして娘の頬に触れた。
温もりがあった。
記憶の中にしかいなかったはずのその人が、たしかにそこにいた。
「あなたは、強く生きているのね。わたしたちがいなくても、自分の意志で前へと…」
その言葉に、アーヴァの唇が震える。
「……ちっとも、強くなど……ただ、逃げてばかりだった……誇り高き家に生まれながら、何も守れなかった……」
言葉は途切れがちに、嗚咽とともに漏れた。
悔しさと悲しみと、自らへの苛立ちが交錯する。
そんなアーヴァに、父の声が静かに降り注いだ。
深く、低く、だがどこまでも暖かく。
「誇りとは、何かを守り抜くことだけではない。心を折らず、踏み出す勇気もまた――立派な誇りだ」
風が、そっと庭を撫でていく。
蓮の花がひとつ、静かに揺れた。
「そなたが……この血を受け継ぎ、最後まで生き抜くと決めたその意志――それこそが、我がンシュタウンフェンの証よ」
その言葉が、胸の奥に深く染み入る。
アーヴァの瞳に、再び涙があふれた。
「わっち……わっちは……ずっと、父上と母上のもとに帰りたかったのじゃ。けれど、それが叶わぬと知って……」
彼女は顔を伏せた。唇を噛みしめ、全てを呑み込もうとする。
だが、母はそんな娘をそっと抱きしめ、額にやわらかく口づけた。
「ならば今、立ち止まらずに進みなさい。」
声は凛としていながらも、底知れぬ愛情に満ちていた。
「誇り高くあれ、愛しき我が姫よ。再びンシュタウンフェン家をウロボロスに轟かせるのだ。」
父が、彼女の手を取る。
その掌に、そっと光を宿らせる。
白銀の霧の中、真珠のような淡い輝きが、彼女の手のひらで脈打つように明滅した。
「これは、お前の内にある芯だ。迷ったときは、この光が必ず、お前を照らす。」
その言葉と共に、両親の姿はゆっくりと光に包まれていった。
蓮の花弁が宙を舞い、ふたりの輪郭を霞ませていく。
やがてそれは光の粒となり、空へ、空へと溶けるように昇っていった。
アーヴァは立ち上がらなかった。
ただ静かにその姿を見送った。
胸に残る温もりと、掌に宿る輝きとともに。
涙が頬を伝うのを、アーヴァは拭おうとしなかった。
その雫は、もはや悲しみの産物ではなかったからだ。
それは、かつて確かにそこにあった温もり――自分を愛し、信じてくれた家族の記憶が生んだ、静かで穏やかな愛の証だった。
重く閉ざされていた心の扉が、今、ゆっくりと軋む音を立てて開かれていく。
後悔も、喪失も、痛みも、すべてを包み込んだ光が、胸の内を照らしていた。
――次の瞬間。
アーヴァの胸元に、淡い輝きがそっと灯った。
それは真珠のような小さな光の結晶。
まるで彼女の決意と絆が形を成したかのように、静かに脈打ちながら、身体の中心に根ざしていく。
「……ンシュタウンフェンの誇りに、恥じぬよう……わっちは、歩み続けるのじゃ……」
その誓いは、もう誰かに認められたくて口にした言葉ではなかった。
己が信じる道を、自らの足で歩む覚悟――それはアーヴァが長い喪失の旅の果てにようやく見つけた、自分自身への約束だった。
彼女は、そっと目を開けた。
霞みの中から戻るように、視界が徐々に現実を取り戻していく。
涙の名残をわずかに残す頬。
だがその双眸には、確かな光が宿っていた。
―――
──気がつくと、そこは静まり返った雪の庭だった。
音のない空間。凍てつく風が頬を撫でるたび、白い吐息が空に溶けていく。
足元には誰の足跡もない、手つかずの雪が敷き詰められていた。世界のすべてが凍結し、息を潜めているかのような静謐が支配する中、一人の少女が小さくうずくまっていた。
黄金と称される光を帯びた髪は、雪の反射を受けて輝いていたが、それはまるで冷えた装飾品のように無機質で。
濃く深い緋色の瞳は、寒さに潤みながらも、決して涙を流すことはなかった。
――それは紛れもなく、幼き日のエリザベート。
堂々たる名門・アビスローゼ家。
だがその名の下で、彼女が与えられたのは、誇りでも、愛でもなかった。
父も母も、そして屋敷に仕える侍女たちさえ、彼女に向ける眼差しは冷たくよそよそしい。
その瞳に映るのは、魔族ではなく器としての存在――アビスローゼ家の血を継ぐ、ただそれだけの少女だった。
愛されることを知らず、抱きしめられることもなく、彼女は、ただ強さを求められ続けた。
その雪の庭こそが、幼き日のエリザベートが唯一許された居場所だった。
「……ああ、これか。これが、私の心が見せる景色かしら…?」
現在の彼女は、その夢の中に立っていた。
成長し、美しくも凛とした姿のエリザベートが、過去の記憶に足を踏み入れていた。
彼女はその景色を、まるで遠い他人事のように眺めていた。
冷え切った世界の中心で凍える幼い自分に、近づくことはなかった。
ただ距離を取り、静かにその様を見つめていた。
「……けれど」
ふと、彼女は目を伏せる。
そこに浮かぶのは、懐かしい過去ではなく、今の自分が手にしている確かなもの。
「いまの私には──信じる邪神様――クトゥル様がいる。どんな血よりも、名よりも。ずっと、温かい場所がある。」
その言葉が口をついた瞬間だった。
降り積もっていた雪景色が、音もなく崩れはじめる。
白銀の世界は静かにひび割れ、黒い波が地を這うように押し寄せてくる。
まるで古びたフィルムが焼け落ちていくように、庭園はゆっくりと、その姿を消していった。
うずくまっていた幼いエリザベートもまた、儚く消えていく。
凍てついた過去が、ようやく夢の底で終焉を迎えるように。
──そして、エリザベートは目を覚ました。
ゆるやかに瞼を開けば、そこは現実。
眠っていたはずの透明な球体の中、彼女の身体は宙に浮いたまま、重力から解き放たれている。
冷たいはずの空間に、夢の残り香のようなぬくもりだけが、微かに残っていた。
「……まったく。余計なお世話な夢ね…」
それは誰かに向けた皮肉でも、怒りでもない。
ただぽつりとこぼされた、エリザベートらしい独白だった。
だがその唇の端は、かすかに上がっていた。
皮肉にまぎれた、柔らかな笑み――。
かつての彼女には、決して浮かべられなかったはずの微笑。
昔に戻る必要はない。戻る理由も、もう何もない。
「私の道は、邪神クトゥル様と共にあるのだから。」
そう。今こそが、エリザベート・アビスローゼの真なる居場所。
―――
──朝が来た。
深く静かだったセレナータ・ルートの海に、かすかな揺らぎが走る。
それはまるで、夜の長い眠りを終えた海の生き物たちが、ゆっくりと呼吸を始めたかのようだった。
海底の空洞を通る透明なトンネルには、微かな波動が共鳴し、朝の気配が静かに広がっていく。
半球状の透明な宿の客室には、青白い光がふわりと射し込んでいた。
それは水面を透過して届く朝の光――冷たくも柔らかいその光は、まるで夢から目覚める者たちをそっと包み込むかのように、無重力の空間をゆるやかに満たしていた。
最初に瞼を開いたのは、エリザベートだった。
重力の束縛から解かれ、球体の中心に浮かぶその姿は、まるで一輪の黒い薔薇のように凛とした存在感を放っていた。
彼女の長い黒髪は、水中のようにゆるやかに波打ちながら宙に舞い、深紅の瞳にはどこか悟ったような静けさが宿っていた。
「……夢など、見たくもなかったのに。まったく、厄介な宿ね。」
低く、けれど確かな声音が空間を震わせる。
その呟きには苛立ちよりも、やや苦笑にも似た諦めの色が滲んでいた。
彼女はゆっくりと身体を起こすと、まるで水中を泳ぐかのような優雅な動きで球体の外へと浮遊していく。
目覚めたばかりの空間に、その黒のシルエットが美しく映えていた。
その頃、隣室でも静かな動きがあった。
ティファーがカプセル型の扉を押し開き、寝癖混じりの白金の髪を揺らしながら顔を覗かせた。
その瞳には、まだ夢の余韻が色濃く残っているようだった。
「……わっちも見たのじゃ。なんとも、妙な夢じゃった……昔の家族の顔など、久しぶりに見たぞい。」
彼女らしく飄々とした口調だったが、その声音にはどこか翳りがあった。
無邪気さの奥にある、忘れられぬ過去の片鱗――胸の奥に沈んでいた記憶が、夜の夢に掘り起こされたのだろう。
その直後、さらにもう一つの扉がそっと開き、アーヴァの姿が現れる。
彼女の表情もまた、どこか遠いものを見ているようだった。
「私も……夢を見ました。懐かしいようで、少し苦しかった。でも……少し、前を向けた気がします。」
静かな声に込められた想いは、確かに彼女の中で何かが変わった証だった。
昨日までとは違う眼差し。内側にある何かを受け入れた者だけが持つ、柔らかな芯の強さ。
その瞳に浮かぶ紅潮は、目覚めの光によるものではない。
心の奥に灯った、あたたかな余韻の残り香だった。
だが、全員が同じ朝を迎えたわけではなかった。
セレナータ・ルートの宿に差し込む青白い光の中、クトゥルとルドラヴェールの姿だけが、別の空気を纏っていた。
彼らは、他の者たちが眠りの夢に囚われていたあいだ、外の回廊をゆっくりと歩いていたのだ。
静まり返った深海の道を、無言で、ただ歩いていた。
クトゥルはそもそも眠ることができない。
夜の静寂の中で訪れる退屈を紛らわすため、ふらりと外へ出ていたのだった。
その後を、彼の忠実なる護衛、ルドラヴェールが当たり前のように無言で付き従っていた。
やがて二人が宿へ戻ると、ちょうど目覚めたばかりのエリザベートが彼らを見つけ、小さく首を傾げた。
「…クトゥル様たちは、夢を見なかったですか…?」
柔らかな調子で放たれたその声は、まだ朝靄のように淡く揺れる空間の中に、そっと響いた。
誰のものかと言えば、エリザベートだった。髪を整えたばかりのその横顔には、ほんのわずかに眠気の余韻が残っている。
隣にいたクトゥルは、その言葉に対して肩を小さく竦めるように反応した。
その異形の身体の動きは人間のものとは異なれど、そこに感じられるのは、まぎれもない「曖昧な苦笑」に近い気配だった。
「見てないぞ(そもそも俺、眠れないし…)」
低くこもる声が返ってくる。
それは否定の言葉でありながら、どこか遠い世界を思わせる響きを含んでいた。
そのやり取りを聞いていたルドラヴェールも、ふと身を起こすと、鋭い眼光を一度だけゆっくりと閉じ――
「グル」
短く、唸るような音を漏らした。
その一音には、語るべきことはないというような明確な意思が込められていた。
彼もまた、夢などという感覚とは無縁なのだろう。
エリザベートはその様子を見て、ふと目を伏せる。
その紅の瞳に映るのは、どこか遠くを見つめるような影だった。
「羨ましいです…」
ぽつりと漏れた言葉は、吐息に紛れて床へと落ちた。
眠りの中にすら現れる記憶や幻影に、彼女がいかに囚われているのか。その一言だけで、誰の耳にも伝わった。
ちょうどそのとき、扉の向こうから気配が近づき、柔らかな声が部屋に届いた。
「おはようございます。旅の方々。良い夢は見れましたかな…?」
そのとき、階下の厨房から、主人のフョードルが姿を現した。
銀に輝く長いひげを揺らしながら、手にした湯気立つマグを掲げ、穏やかな声を響かせる。
アーヴァとティファーは同時に頷き、まるで胸に灯る温もりを確認するように言葉を返した。
「うむ」
「あぁっ」
けれどエリザベートだけは、ほんの少し不満げな表情を浮かべながら、口を開いた。
「私は良い夢じゃなかったわ。何でクトゥル様たちは夢を見なかったのかしら…?」
その問いに、フョードルはしばし黙し、ゆるやかにクトゥルたちへと視線を移す。
そして、微笑のようなものを浮かべ、静かに口を開いた。
「夢というのは心が眠っている者にしか訪れません。獣、あるいは精神を眠らせぬ者には、真珠の夢は届かぬものです。……それでも、彼らなりに静かな時間を過ごせたなら、それで良いでしょう」
その言葉に、クトゥルは静かに頷いた。
彼なりに、この宿で過ごした静謐の時間に満足していたのだ。
だが、ルドラヴェールは何も言わなかった。
ただ一度、無言のままフョードルを一瞥すると、その視線に何かを宿したまま、ゆっくりと踵を返し、階段を下りていった。
その背に声をかける者はなかった。
フョードルは宿の玄関に立ち、扉の前で旅立つ一行を見送っていた。
その背後では、静かに湯気を立てるポットの香りが漂い、まだ夢の余韻が残るような空気が漂っている。
「良き旅路を、旅人たちよ。このまま緩やかに上っていけば、ユ=ツ・スエ・ビルですじゃ」
銀髭を風に揺らしながら告げるその声には、どこか慈しみと別れの寂しさが滲んでいた。
その言葉に、クトゥルは黙して短く頷いた。
返す言葉はなくとも、その仕草には確かな感謝があった。
一行が宿の軒先を離れ、静かに歩みを進める。
足音は海底の石道に吸い込まれ、やがて遠く、柔らかな光が目に映った。
それは、青と白が溶け合うように揺らめく光。
セレナータ・ルートの出口──そして彼らが目指す「ユ=ツ・スエ・ビル」への入口を示す光だった。
静寂と幻想に満ちた深海の旅路は、今まさに終わりを告げようとしていた。
「さぁ、クトゥル様。邪神の帰還です。」
前に出たエリザベートが凛とした声で宣言する。
その目には迷いも戸惑いもない。ただ、邪神としての矜持があるのみだった。
「……ククク…さぁ、ユ=ツ・スエ・ビルの邪神とやらに挨拶でもするか…(おぉぉっ!?そうだったっ…この先にエリザベート以外の邪神がいるんだったっ!?怖いんだけどっ…逃げたいんだけどっ!?)」
クトゥルは平静を装いながらも、内心は冷や汗を流していた。
その声には重厚な響きがあったが、心中はまるで綱渡りのような不安に満ちている。
それでも一歩ずつ、彼は歩みを止めなかった。
「久し振りの故郷…くふっ…再び、父との約束。ンシュタウンフェン家の名を轟かせやるぞいっ!」
興奮したアーヴァは、竜の尻尾をぶんぶんと振り回しながら、嬉しそうに足取りを早めた。
瞳は輝き、懐かしさと誇りが胸に満ちているのが見て取れる。
「ママ、パパ、ミレーユ…私。今幸せです…」
ティファーはその後ろで静かに微笑み、深く息をつく。
その穏やかな笑みは、不安と希望のどちらも受け入れた者だけが持つ安らぎに満ちていた。
ルドラヴェールは何も言わず、誰よりも静かに、その背を追っていた。
彼の歩みは重く、静かで、そして決して止まることはない。
──今、静かなる海の道が、終わりの光を迎えようとしている。
夢と記憶が交差した深海の時間は終わりを告げ、
その先に現れるのは、──ユ=ツ・スエ・ビル。
邪神と共に歩む者たちの、新たなる幕が、静かに、しかし確かに上がろうとしていた。




