真珠の夢の宿②
食後のひととき──
宿の奥、苔むした回廊を抜けると、そこには岩と蒸気が織りなす静謐な空間が広がっていた。
天井は低く、まるで天然の洞窟のようにごつごつとした岩肌が重なり合い、そこに青白く光る珊瑚が幾つも生えていた。
珊瑚はゆるやかな鼓動を持つかのように淡く明滅し、湯気を通して幻想的な光のカーテンを作り出している。
まるで海中に沈んだ神殿にでも迷い込んだかのような、そんな錯覚を覚える光景だった。
その中心──
自然に湧き出した温水が岩の窪みに溜まり、湯船のように形を成している。
そこは湯殿と呼ぶにはあまりに野趣に富んでいたが、それでも静かに波打つ水面と、辺りに満ちる穏やかな温もりは、まぎれもなく癒やしの場であった。
ティファーとアーヴァが、そっと足を湯に差し入れる。
岩肌のぬくもりが指先からじんわりと伝わり、全身がゆっくりと温泉に包まれていく。
ぽちゃん──
控えめな水音が洞窟に広がり、波紋が青い光をゆらめかせた。
肌に触れる湯は柔らかく、心地よい熱が内側から静かにほどけていく。
次第に頬に赤みが差し、肩の力が抜けていく。
「はぁ……生き返るのじゃ……」
アーヴァが満ち足りた吐息をこぼしながら、頭の角の下、柔らかなうなじの辺りをくすぐるように撫でる。
濡れた髪が肩に張りつき、尻尾が湯の中でゆるやかに揺れていた。
ティファーはその様子に微笑みながら、背中を丸くして石の縁に身を預ける。
湯の蒸気が頬を包み、目元を和らげていた。
「いろいろありましたからね。……なんだか、こうやってちゃんとお湯に浸かると、旅してるって感じします…」
その言葉には、過ぎ去った日々の重みと、ようやく得られた安堵が滲んでいた。
小さな溜息と共に閉じた瞼に、珊瑚の光がぼんやりと映る。
「うむ…クトゥル様と出会い、旅をする…光栄ぞい…」
アーヴァは目を細め、湯に身を沈めながらぽつりと呟く。
ぽかぽかと温泉の湯気が漂う中、岩壁に反響するのは、さざ波のような静かな水音と、ふたりの微かな吐息だけだった。
しかし──その静けさのなかで、ふと、アーヴァの耳がぴくりと揺れる。
「…ん?…そう言えば、エリザベートはどこにいるのじゃ…?」
彼女は眉をひそめ、きょろきょろと湯殿の周囲を見回した。蒸気の向こうには誰の気配も感じられない。
ティファーも思い出したように、手で目元の汗を拭いながら首を傾げた。
「…あれ、お風呂場の前まで一緒に居たはずですが…」
記憶を辿れば、確かに脱衣所までは三人で足を運んでいたはずだった。だが、湯の中に身を沈めたときには、もう彼女の姿はなかった。
「あのエリザベートが風呂を前にして、黙っているとは思えんのじゃが…」
アーヴァは首をひねりながら、湯の中で立ち上がり、視線を洞窟の奥へと向けた。
エリザベートといえば、旅の中でも湯に浸かるひとときを何より楽しみにしていたはずだ。
その彼女が、この場所で姿を見せないなど──考えにくい。
「…何やら、嫌な予感がしますね…」
ティファーがぽつりと呟くと、湯気の中の空気が微かに重くなる。
「奇遇じゃな…わっちも、そんな気がするぞい…」
アーヴァの目が細くなり、その表情から冗談の色が消えていた。
どこかで風が鳴いたような、岩壁のすきまから流れる冷たい気配が、湯のぬくもりを一瞬だけ削ぐ。
──エリザベートはどこに消えたのか。
その疑念が、ふたりの胸に波紋のように広がっていった。
一方その頃──
薄く立ち込める湯気の中、別の通路を軽やかな足取りで進む人影があった。
微かな熱気が石畳を濡らし、壁に灯された青白い光が、その長い影を滑らせる。
エリザベートだった。
瞳は期待にきらめき、頬にはほのかに紅が差している。足取りは迷いなく、むしろ弾んでいた。
「……ふふ、気配からして、男湯にはクトゥル様だけっ…」
小さく囁くと、彼女はまるで宝の扉に手をかけるかのように、躊躇なく男湯の入り口へと手を伸ばす。
扉の向こうにいるであろうお方の姿を思い描いているのだろう。頬の緩みを隠そうともしない。
しかし──
その刹那、湯気の帳から突如として現れたのは、堂々たる体躯の魔獣だった。
鋭い瞳を宿したルドラヴェールが、無言のまま扉の前にぬっと立ちはだかる。
その存在感に、エリザベートの足がぴたりと止まる。
そして彼女は、あからさまな不満の色をその瞳に灯して、じっと睨みつけた。
「…」
「─―エリザベート殿。ココハ、男湯。貴殿ハ入レン…」
低く、確かな口調だった。魔獣でありながらも、そこには鉄壁の忠義があった。
エリザベートの唇がゆっくりと開き、冷えた声が落ちる。
「どきなさい…」
「却下ダ」
わずかに眉が動き、エリザベートはルドラヴェールの真正面に立ち、冷ややかな視線を突き刺す。
その威圧は人ならば一歩退くほどだが──ルドラヴェールは一歩も動かない。
「我ガ主ノ命ダ。『我が魂を静寂の湯に沈めたい…。誰にも邪魔はさせぬ』とのことだ…」
静かだが、揺るぎのない宣告。
その言葉に、エリザベートの頬が引きつる。
「そ、そんな…」
呆然と呟いた彼女に、ルドラヴェールが一言だけ重ねる。
「モウ良イダロウ…」
沈黙の後、乾いた舌打ちが通路に響いた。
「……ちっ」
エリザベートは踵を返し、潔く立ち去る。
だがその背は、どこか気の抜けたように小さく見えた。
そして間もなく、湯けむりの立ち込める廊下の端で、彼女はそっと腰を下ろした。
冷たい石の壁に背を預け、長い脚を折り曲げて膝を抱える。
もやもやと漂う湯気の向こうに、誰もいない静けさ。
肩を丸めたその背中は──あれほどの自信と誇りを纏っていた彼女には不釣り合いなほど、寂しげだった。
―――
エリザベートとルドラヴェールが男湯の前で静かなる攻防を繰り広げていたその頃──
男湯の湯面には、波紋ひとつない静けさが広がっていた。
蒸気に包まれた天然の湯船は、岩肌から湧き出す温泉がゆるやかに満ちる場所。天井のくぼみには、青白く光るサンゴの飾りが吊るされ、ぼんやりとした光が湯気を照らし、空間を仄かに輝かせていた。
その中央──
湯に浸かっていたのは、クトゥル一人。
岩に背を預け、肩まで湯に沈めた彼は、目を細めながら、まるで水底に漂うように身を委ねていた。空気は熱を含み、五感から余計な刺激が洗い流されていく。
「あぁ~…気持ち良い…」
ふと漏れた独り言が、湯けむりの中にふわりと溶けていく。
その声音には、張りつめた日々では聴けないほどの素直さが宿っていた。
「広々とした湯を独り占めできるのは…あり難い…マナー違反って分かってるけど…ちょっとくらい良いよ、な…」
小さな罪悪感を滲ませつつも、頬は自然に緩んでいた。
ちらりと辺りを見回し、誰もいないことを確かめると──すぅ、と湯の中を滑るように泳ぎ始める。
肩の力を抜き、身体を動かすたびに、ぽちゃり、ぽちゃりと柔らかな水音が響いた。
視線はゆっくりと上へ向かい、湯けむりの向こう、光を散らすサンゴの天井を見上げる。
「平和だ…」
その声に、かすかな満足と、どこか痛みを含んだ響きがあった。
平穏──それは、クトゥルにとって、あまりにも儚い夢。
自らの存在が波乱を呼び、嵐のように人を巻き込むと知っているからこそ、今この静けさがどれほど貴重なものか、彼は理解していた。
それでも。
たった一夜の静けさでも構わない。
この束の間の安らぎが、少しでも心を癒やすのなら──それだけで、十分だった。
―――
食後の温もりと湯けむりに包まれた余韻が、まだ肌に残る夜更け──
一行はそれぞれ、割り当てられた宿の部屋へと案内されていった。
宿の奥まった通路を進み、淡く揺れる光を透かす薄膜のようなカーテンをくぐると、そこに広がっていたのは、まるで幻想のような空間だった。
その部屋は、まるで真珠のように透明な球体で構成されていた。
壁は一切の継ぎ目もなく滑らかで、外界の景色がそのまま内部に映し出されている。
眼下には、青く静かな海底。水の揺らぎが天井から差し込み、ふわりふわりと部屋全体を照らし出す。魚たちが影のように泳ぎすぎ、泡がゆるやかな軌道を描いて昇っていく様は、まるで夢の中に取り込まれたかのようだった。
「ほぉ…何じゃこの部屋は…」
先に球体へと足を踏み入れたアーヴァが、感嘆を漏らしながら首を傾げた。
その仕草にあわせて、肩にかかった灰青の髪がふわりと舞い上がる。
よく見ると、髪の一部が微かに宙に浮かんでいた。
「気のせいか体が軽いような気がしますね…」
ティファーもまた、不思議そうな表情を浮かべながら球体の中央に設えられた透明な寝台へと腰を下ろす。
身体が沈む感覚が、まるで水の中にでもいるようだった。
「…その球体の中では、重力が半分以下になるのさ」
同行していた老魔族・フョードルが、背中を丸めたまま穏やかに笑う。
その声には、どこかこの場所と同じ、柔らかな揺らぎがあった。
「昔は、旅人の疲れを取るのに良いと、魔法使いが発明してくれてね。今じゃ、この宿の名物さ」
彼の言葉通り、部屋の中央に足を踏み入れた瞬間、身体がふわりと浮かぶような感覚に包まれる。
地面に縛られていたはずの重みがすうっと消え、空中に解き放たれたような心地よさが広がった。まるで母胎の中へ還るような、何もかもが赦される静けさと温もり。
ティファーとアーヴァは、寝袋に身を沈めるとすぐに微睡みに落ちた。
アーヴァの尻尾が緩やかに揺れ、ティファーの胸元には小さな寝息が乗る。
エリザベートは、酒の残り香と共に眠りの中へ滑り込んでいた。
彼女の髪は微重力の空間に浮かび、寝息とともに静かに揺れている。
ルドラヴェールは獣のように丸まり、動くことなく、警戒を緩めた獣の寝姿を晒していた。
──そして、その中で、ただ一人。
クトゥルだけが、眠っていなかった。
球体の中で胡坐をかき、そのままふわりと空中へと舞い上がる。
宙に投げ出された身体は、まるで水中のように、球体の内側を静かに回転しながら漂っていた。
彼の瞳には、外の海底の景色が映っている。青と影が混ざり合う深海の情景が、心の内側まで染み込んでくる。
頭の中は、まるで深く澄んだ水のように静かだった。思考はどこか遠く、眠りとは別の世界に漂っている。
眠る必要はなかった。
身体の機構としても、心の機微としても。
──だが、それでも、この空間は心地よかった。
重力が半分になるこの場所は、まるで「何も持たない」ことを赦してくれる。
力も、使命も、恐れも、全てをひととき手放して──ただそこに、在るだけでいい。
深海に似たこの球体の世界で、クトゥルは音もなく漂っていた。
それは、ほんの束の間の自由。
誰にも見せぬ、彼だけの静かな安息の時間だった。
重力が半減した室内では、どんな些細な動きも、水中に差し込む光のように滑らかで、柔らかな余韻を残した。
空間全体が、目に見えない緩やかな流れに包まれているかのようで──それは、夢と現の狭間に揺れるような感覚だった。
床と天井の境界は曖昧で、立っているのか、浮かんでいるのかすら曖昧になる。
足を動かせば、空気そのものに身を預けるように、身体は軽く宙を泳ぐ。
それが、妙に心地よい。
そんな浮遊の中で、クトゥルはひとり、天井とも床ともつかぬ球体の内側に、静かに身体を漂わせていた。
その姿は、まるで誰かを待っているかのようでもあり──あるいは、既に誰かと共にあると信じている者のようでもあった。
彼の瞳には、淡く光る外海の揺らめきが映っていた。
だがその奥にあるものは、遥かに深い場所にある、言葉にもならぬ感情だった。
──「眠らない者」が見る夢とは、果たして何か。
それは希望だろうか、後悔だろうか。それとも、名前のない渇望なのだろうか。
誰も知らないその答えを、クトゥルは静かに問い続けていた。
夜の静寂が部屋に満ちていく。
魔法の光がかすかに揺れ、球体の壁をやさしく照らす。
その光景は、まるで深海に浮かぶ真珠──
ただそこに在るだけで、美しく、静謐だった。