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真珠の夢の宿①

「クトゥル様、そして主を崇拝する方々。…ご武運を。」


深海の澄んだ静けさに、アクアリアスの祈りにも似た声が溶けていった。

ネレイダの腕に抱えられた彼女の瞳は、凛とした覚悟をたたえている。

ネレイダもまた、無言のまま深く頭を垂れる。その仕草には、忠誠と敬意がこもっていた。


「うむ……行くぞ(あぁ、ついに…ユ=ツ・スエ・ビルに入っていくのか…嫌だっ!!)」


クトゥルは堂々と頷く。外見からは動じぬ威厳が漂っていたが、心の内には複雑な想いが渦巻いていた。


旅の先に待ち受ける運命――それを察するがゆえの、偽りの邪神としての本能的な忌避感。


だがそれでも、彼は進まなければならない。


進まなければ、彼を神として信仰する者たちから見放され、最悪死に至る可能性すらある。


静寂が支配する深海の青に包まれながら、彼らはゆっくりと歩を進めた。


その道の名は、セレナータ・ルート。

古の時代、邪の神の恩寵によって造られたと語られる、海そのものを貫く巨大なトンネルだ。


入口を抜けると、まるで異世界に足を踏み入れたかのような光景が広がっていた。

壁も、天井も――すべてが滑らかな水晶のような材質で覆われているような、どこか青白く仄かに光を放っている。


その光は特定の光源を持たず、まるで海面の煌めきを閉じ込めたかのような幻想的な揺らめきを宿していた。

青のきらめきが彼らの足元を優しく照らし、歩む者を祝福するかのように広がっていく。


「おぉ…これは…中々…」


足を止め、クトゥルは辺りを見渡しながら小さく感嘆の声を漏らした。

彼の口調には、思わず素が滲み出ていた。


「とても幻想的な空間ですね。」


ティファーが、目を丸くして呟く。瞳は宝石のように輝き、どこか安堵を覚えているようでもあった。


「美しいぞい…セレナータ・ルート…初めてじゃったが、ここまでとは……」


アーヴァの声には、敬意と感動が入り混じっていた。

彼女の青色の尾が、ほのかな光に照らされてゆらりと揺れる。


エリザベートとルドラヴェールは寡黙なまま、しかしその瞳には深い思索と警戒が宿っていた。

彼らは一歩も引かず、ただクトゥルの背に黙々と従う。


足を進めるたび、壁の奥にゆらりと影が動いた。

見ると、体表に虹色の輝きを湛えた魚たちがトンネルの外側を優雅に泳いでいた。

どこかこの世界のものとは思えぬ、美しくも不思議な生き物たち。


トンネル内には水音すらない。

聞こえるのは、一行の靴音だけ――それが、静かに青い回廊に反響する。


音がないのに、空間全体には確かな海の気配が充満していた。

水に沈んだ神殿、潮の流れ、深海の静謐。それらの全てが、このルートの空気に封じ込められているかのようだった。


無音の空間に、歩を刻むごとに広がる余韻。

この神秘に満ちた空間は、現世と幽界の狭間のようでもあった。



―――



どれほど歩いただろうか――


やがて、緩やかな上り坂に差しかかる。

透明な水晶の坂を登る足音が、ささやかな鼓動のように続いていく。


そして、その先に――やさしい橙の光が、ぼんやりと浮かび上がった。


その光は、旅人を包み込むような温もりを帯びていた。


橙の光に導かれるようにして、彼らは坂の頂を越えた。

そして、静謐なる青の回廊を抜けた先に、それはぽつんと佇んでいた。


「何じゃ、出口と思ったが違ったか…」


アーヴァがほんの少し肩を落とし、竜の尾を揺らす。彼女の声にはわずかな落胆と、どこか安堵の響きが混じっていた。


その建物は、まるで海底の洞穴の途中にそっと差し込まれたかのように、岩壁の空洞に寄り添っていた。


石造りの外壁は長い歳月を経て角が丸まり、表面には深緑の苔が柔らかく覆いかぶさっている。

それなのに、不思議と荒廃の印象はなく、むしろどこか懐かしく、胸の奥を温めるような穏やかさがあった。


この場だけが、深海の時の流れから切り離されているようだった。

永遠に夜の静寂に包まれながらも、迷い込んだ旅人を優しく迎え入れる――そんな、幻のような風情がそこにはあった。


扉の上に掲げられた看板が、静かに揺れている。

古びた木板に刻まれていたのは、魔族文字で書かれた『アクルムの宿屋』の名だった。


宿屋から漏れる柔らかな灯りが、青に染まるセレナータ・ルートの空間に、ほんのりと橙色の温もりを添えていた。

その光はまるで、夢の終わりを告げる夕映えのように、幻想と現実の境界を曖昧にしてゆく。


蒼の静寂に支配された世界にあって、宿屋だけが異界に咲いた一輪の灯火のように、温かな存在感を放っていた。


「クトゥル様…如何いたしましょう…?」


沈黙を破ったのはエリザベートだった。

慎重に声をかけるその姿には、主の判断を尊重する忠臣としての姿勢がにじんでいる。


「そうだな…」


クトゥルは立ち止まり、腕を組んで考え込む。

外見はいつも通りの威厳に満ちていたが、その内側では冷静な計算が巡っていた。


「(まだ疲れてないけど、ここに宿があるってことは、まだ先は長いってこと…ここで一旦休憩するのが良いか)…一旦休憩するとするか…」


彼の言葉は重々しくも自然で、そこには威圧でも命令でもなく、仲間の状態を慮った判断があった。


誰ひとりとして異を唱える者はいなかった。

それぞれの顔に安堵の色が浮かび、クトゥルに続いて、静かに宿の扉へと歩を進める。


宿の扉をそっと押し開けると、そこには言葉にしがたい懐かしさが漂っていた。


外の幻想的な蒼の世界とは対照的に、宿の中は重く静かな温もりに包まれていた。

天井は低く、石を積み上げて作られた廊下は古びてひんやりとし、床は湿気を吸った木材がわずかに軋みを立てる。


誰かの記憶の中にしか存在しないような、時の流れに取り残された空間だった。


淡く揺れるランプの灯りが壁にかかり、空間全体を琥珀色に染め上げている。

その明かりはまるで潮の波間に浮かぶ灯台のように、心を落ち着かせる穏やかな揺らめきを宿していた。


空気には微かな塩気が混じり、それに重なるように薬草の青い香りと、かすかに燻製魚の匂いが鼻腔をくすぐる。

それは、海底という異界のただ中にありながらも、どこか人間らしさを忘れぬ場所だった。

喧騒も争いもない、ただ静かな、温かな時の止まった場所――そんな印象を抱かせる空間だった。


そして、廊下の奥――闇のように静まり返った影の向こうから、ぬるりと滑るように姿を現したのは、

この宿の主にして、ディープマーマンの老魔族だった。


その体には年齢の重みが刻まれていた。

鱗の色は褪せた白金。

波のようにうねる長い髪と髭には、ところどころ潮の結晶がこびりつき、彼の歩んできた歳月の深さを物語っていた。

瞳は深海のような深い青。だが、その眼差しは驚くほど柔らかく、

まるで長い時の彼方に忘れ去られていた「対話」という文化を、いま再び思い出しているかのようだった。


「初めまして、ワシの名はフョードル。」


ゆったりとしたその声には、敵意というものが一切含まれていなかった。

むしろ、どこか懐かしげに、誰かを出迎える喜びを噛み締めているような笑みが浮かんでいた。

それは客人という言葉の本当の意味を知る者だけが持つ、穏やかなもてなしの表情だった。


「これはこれは……実に、久しぶりの客人たちですな。」


波のように低く、しかし心に沁み込むような響きを持った声が、廊下にゆるやかに満ちていく。

その語り口は、まるで潮騒そのものが語りかけてくるようだった。


「しばらく、この宿も閉ざされておりましてな。こんな日が再び訪れようとは……おっと、年よりは長話でいきませんな…どうぞ、お入りくださいませ。今宵は潮も穏やかです」


フョードルはゆるやかに身体を傾け、通路の脇へと身を引く。

その動きには歳月に染みついた品と、変わらぬ礼節の気配があった。


宿の内部は、外観の素朴さからは想像できないほど、静かな品位と安らぎをたたえていた。

食堂には透明なガラス製の机と椅子が整然と並び、その天板には潮風を受けてわずかに霞むような曇りが浮かんでいる。

天井から吊るされたランプが柔らかな光を落とし、空間全体を琥珀色のベールで包み込んでいた。


食堂の奥には、いくつかの寝室があり、それぞれが質素ながらも清潔に整えられている。

さらに、海底の天然温泉を巧みに改装した風呂が用意されており、岩肌から湧き出す微かな蒸気が、どこか幻想的な趣を添えていた。


壁には所々に古びた額縁がかけられていた。

描かれているのは、どれもが海の情景、夢に似た風景、あるいは遥かな旅の一幕。

色褪せた絵画たちは、まるで記憶の底に沈んだ誰かの想いを辿るようで、見ている者に言い知れぬ感覚を呼び起こす。

現実と夢の境界を曖昧にし、今ここが本当に「この世」であるのかどうかさえ疑わしくなるほどだった。


柔らかな橙色の光が、食堂全体を包み込んでいた。

天井から吊るされたランプは、海底の気泡のようにかすかに揺れ、古びた木の梁と石の壁に、ぬくもりのある陰影を投げかける。


中央の大きな木のテーブルには、波打つ海藻で編まれた皿が並び、そこに盛られているのは彩り豊かな魚介料理。


白く蒸された貝、黒紫の海藻に包まれた蒸し魚、鮮やかな青い身を持つ小さな甲殻類──いずれも見慣れぬ素材ながら、立ち上る湯気と香辛料の匂いが、食欲をそそる温かさと共に空気を満たしていた。


それは旅の道中、荒れた野営や粗末な街の食堂で口にするような「腹を満たすための食事」とはまるで異なる、確かなもてなしの気配だった。


アーヴァは箸のような細い骨製の器具を手に取り、目の前の皿から慎重に料理をつまむ。

目を細め、じっとそれを見つめてから──意を決したように、そっと口に運んだ。


ぴくり、と耳が揺れる。


「……なんじゃこれは……意外と美味いのじゃ!」


驚きのこもった声と共に、口元には素直な笑みが浮かぶ。

その様子に、隣で見ていたティファーがくすりと微笑んだ。


「魔族料理って見た目が怖いけど、実は栄養も味もちゃんと考えられているんですね…。特にこの潮火焼き、身体が温まります…」


皿の上では、赤銅色の魚が香草と共に焼かれ、湯気とともにじんわりと芳香を放っている。

ティファーはそれを丁寧に崩しながら、小さな声で感想を漏らした。


「こっちも…おぉ…こっちも美味いぞいっ!」


勢いづいたアーヴァは、すでに次の料理へと手を伸ばし、紫色の貝殻に盛られた煮物を楽しげに味わっていた。

その頬にはうっすらと紅が差し、食べることへの喜びが隠しきれない様子だった。


ティファーもいつしか口を弾ませ、故郷の料理や食材について語り出す。

互いの話に相づちを打ちつつ、自然と二人の間には、どこか姉妹のような穏やかな空気が生まれていた。


一方、少し離れたテーブルの端では、エリザベートがひとり静かに腰を下ろしていた。

手には、深い琥珀色を湛えたグラスがある。

それはワインのような香りを持つ魔族の酒──重くもなく、しかしどこか記憶を揺らすような深い味わいを持つ、老宿の秘蔵酒だった。


エリザベートはあまり言葉を発さず、ただ揺れるランプの炎をじっと見つめ、時折、紅い唇にグラスの縁を添えるだけだった。

その横顔には、過去と現在の狭間に漂うような静けさが宿っている。


その隣には、魔獣ルドラヴェールの姿があった。

彼には専用の皿など必要ない──というより、むしろ邪魔だった。

宿の者が気を利かせて丸ごと用意した調理前の魚を、その巨体は実に満足げに咥え、骨ごとバリバリと貪っていた。

砕ける骨の音、時折床に叩きつけられる尻尾の音が響くが、誰一人としてそれを気に留める者はいなかった。


旅を共にしていれば、慣れとはこうも自然なものになるのか──そんな空気がそこにあった。


そしてもう一方の端。

クトゥルは、無言のままグラスの水を手にしていた。


料理にはほとんど手をつけていない。

ただ、淡く冷たい水を一口、また一口と啜っては、ゆるやかに喉を潤している。


「(うーん。喉が潤う…)」


その味には、どこか深海の静けさと、果てなき深淵の孤独が宿っているかのようだった。




―――




食事が終わり、温かい茶の香りが広がる中、主人フョードルがふと語り出す。

その声音は、あくまで静かに、しかし確かに空気を揺らした。


「ところで……ご存じでしたかな。この宿では、時折『真珠の夢』を見ることがあるのです…」


場に漂う安らぎを壊さぬよう、彼は穏やかに続ける。


「このセレナータ・ルートを旅する者が、疲れた心を持っているとき……この宿で眠ると、ごくまれに見ると申します。本来の姿が映し出される、心の海の夢を……。それは己の願い、あるいは恐れ、あるいは……許されぬ本音の姿。その人にしか見えぬ、真珠のように美しく、脆い夢……」


その言葉が空間に染み渡るようにして消えていくと、一同は自然と口を閉ざした。

ティファーは気配を消すように肩をすくめ、アーヴァは頬杖をついて「ふーむ」と首をかしげる。

エリザベートは沈黙を保ったまま、ただランプの灯を見つめていた。


「ふっ(寝ない俺は関係ない話だな…)」


クトゥルは静かに笑いながら、手元の茶を一口すすった。

その余裕ある仕草に、老魔族フョードルもまた、どこか含みのある笑みを浮かべる。


「夢、か。わっちは悪夢をよく見るでのう。真珠どころか、墨のような夢ばかりじゃ…」


アーヴァが冗談めかして呟くと、フョードルはその言葉を否定せず、むしろ讃えるように言葉を重ねた。


「それもまた、深き心ゆえです。さて──今宵、誰の眠りに真珠が訪れるか。それは、海の気まぐれですな…」


その言葉を境に、会話は自然と終息し、宿の空間に静寂が戻っていく。

天井を流れる湯気の向こうに、夜がゆるやかに深まっていた。


ガラスの窓の向こうには、静かに揺れる海の光がぼんやりと映り込み、

まるで今この場所が、夢の始まりそのものなのではないかと錯覚させるほどだった。


──誰が、どんな夢を見るのか。

それはまだ、物語の先にそっと託されている。







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