深海の地⑦
沈黙の中、波打つ呼吸と濡れた床を踏みしめる足音だけが、重々しく響いていた。
まるでこの場に残されたすべてが、戦いの余韻を味わっているかのようだった。
「…ふっ…終わったな…(はぁっ…死なずに済んだぞ…)」
クトゥルは腕を組み、口元に余裕の笑みを浮かべていた。
その姿には威厳すら漂うが、その内心は冷や汗と安堵にまみれていた。
泡とともにその巨体を消したアヴァロン・クラケン。
海底の玉座の中央には、戦いの終焉を象徴するように、アクアリアスが静かに立っていた。
彼女はネレイダの腕に抱かれたまま、無言でアブゥ・サを見下ろしている。
その頬には、かすかに血がにじむ細い傷――
激闘の証がひとすじ、彼女の白い肌を汚していた。
だがその双眸は、決して揺らぐことなく、ただまっすぐに敵を見据えていた。
アブゥ・サは膝をつき、憤怒と屈辱を浮かべながら、顔を上げた。
歯を食いしばり、荒く息を吐きながら、呻くように叫ぶ。
「……はぁ、はぁ……く、くそっ…貴様らごときに…魔獣アヴァロン・クラケンがやられるなどっ…!?」
その声には、敗北への否定と、抗えぬ現実への怨嗟が込められていた。
「アブゥ・サ……」
アクアリアスは、そっとネレイダに下ろしてもらい、静かに一歩を踏み出す。
潮の流れのようにゆるやかに、しかし確固たる意志を宿して。
「父を殺した罪…わたくしは忘れないわ…けど…」
その声には怒りの棘はなく、冷たい憎しみの影もなかった。
あるのは、戦いを終えた者だけが持つ、静かな諦念と、憐れみのような温度だった。
「慈悲を与えようと思いました…。ネレイダに慈悲を与え、救ってくださったクトゥル様のように…。」
その言葉を聞いた瞬間、アブゥ・サの顔が激しく歪む。
「……ははっ……慈悲、だと……?」
笑いとも、嘲りともつかない声がこぼれた、その直後だった。
「はははッ!バカめっ!?…父と同じように死ぬが良いぃっ!!」
アブゥ・サの懐から突き出された銀の短剣が、まっすぐアクアリアスの胸を狙っていた。
「っ!?」
アクアリアスは目を瞑り、咄嗟に手で自身を守る。
――ずぶり。
湿った鈍い音が、場を裂いた。
「っ!?」
肉を断つ音とともに、突如として血飛沫が舞い上がる。
誰もがアクアリアスが刺されたと思った。
「が……ッ!?」
だが、しかし。血はアブゥ・サの物だった。
彼の腕が、肘から先ごと床に落ちていた。
短剣もろとも切断されたその腕から、血がほとばしる。
「ああぁっ!!」
アブゥ・サの腕を切断したのはネレイダだった。
彼の動きは、一瞬たりとも遅れることなく、正確だった。
「貴様……まだそんなことを……!」
ネレイダの目に宿るのは、怒りとともに深い哀れみだった。
「ぐぅぅぅっ…」
アブゥ・サは、断末魔のような叫びを上げ、血に染まった床に転がり落ちた。
切断された肩口を押さえ、苦痛に顔を歪めながらのたうち回る。
その身体は、ディープマーマンの長と呼ばれた者の威厳をすっかり失い、ただの打ち捨てられた肉塊のように見えた。
その様子を、静かに見下ろしていたネレイダが声を発した。
「…お嬢様…こんなクズに慈悲を与えるべきではない…。」
その声音には、怒りと憐れみの両方が滲んでいた。
彼の言葉にならぬ感情が滲み出ていた。
「そうじゃな。」
アーヴァが、静かに頷く。
その金属的な声に、どこか冷ややかな諦めが混ざっていた。
「私も同感だ」
ティファーもまた、真剣な表情でネレイダに同意する。
その目には、ただ一つの選択肢しか残されていないと悟っている者の確信が宿っていた。
「ま、待てっ…待ってくれっ!? ワ、ワシが悪かったっ!?」
アブゥ・サが血まみれの顔をこちらへ向け、必死に声を絞り出した。
その姿は、もはや長の風格など微塵も残っていなかった。
「すまなかったっ…生贄に差し出す……この配下どもだ……!貴様らに渡す……好きにしろ……だからワシだけは助けてくれっ…!?」
その言葉が放たれた瞬間、空気が凍りついた。
後方に控えていたディープマーマンたちの表情が、徐々に恐怖と絶望に染まっていく。
かつて忠誠を誓った主からの、あまりに非情な裏切りの言葉――
「……ア、アブゥ・サ…さま……?」
「我らを……生贄に……?」
「う、嘘だろ……」
呆然と声を漏らす者、怒りに拳を握りしめる者、目を伏せてその場を見ようとしない者。
それぞれの顔には、信仰の崩壊と、現実の重さが刻まれていた。
やがて、ある者は静かに膝をついた。
そして目に涙すら浮かべながら、悲しみとも怒りともつかぬ瞳でアブゥ・サを見つめる。
その視線には、言葉を必要としない断絶があった。
その時――
アクアリアスが、静かに振り返った。
その動作は、舞のように優雅で、どこか儚い。
彼女の視線は、まっすぐにクトゥルへと向けられていた。
戦いを終え、いまなお湧き上がる感情を鎮めるように、ゆっくりと呼吸を整える彼女の顔には、確かに迷いがあった。
だがその中に――芯の通った決意も、また確かにあった。
どうするべきか。
それを決める者が、この場にはただ一人いることを、彼女は理解していた。
湿った空気に包まれながら、アクアリアスはほんのわずかに唇を震わせた。
「……クトゥル様…わたくしは……」
その声は囁きのようでありながら、深い決意が込められていた。
彼女の言葉を受けて、異質の如き気配をまとった存在――クトゥルが、ゆっくりと首を傾けた。そして、ほんの一瞬だけ、口を開いた。
「…お前と同じ考えだ。それ以上の言葉など、不要…(これは…救いようがないクズだなっ…)」
それは、あまりに短く、そして静かな言葉だった。しかし、アクアリアスにとっては、その一言こそが何よりの救いであり、確信となった。
彼女は瞳を伏せ、まぶたを閉じる。そして、深く息をひとつ吐いた。
まるで重石を取り払ったかのように、その肩の力が抜けてゆく。
そして、隣に控えていたサンゴの槍を携えたネレイダへと視線を送った。
「ネレイダ。……彼を…処して…」
「……承知…」
ネレイダは、静かにうなずくと、無駄のない動きで槍を構え直した。彼の瞳には一片の迷いもなかった。
対するアブゥ・サは、死を悟ったかのように狼狽の色を濃くした。地を這うように膝をつき、両手を差し伸べる。
「ま、待ってくれっ!…た、頼――」
だがその声は、断罪の叫びにかき消された。
「アブゥ・サ。…貴様は長の名に値しない。――潔く…死ぬが良いっ!」
空気が一閃、張り詰めた。
瞬間、ネレイダの手に握られた槍が疾風のごとく前へと突き出された。その動きはあまりにも速く、あまりにも正確で、誰もが目を見張る間もなかった。
次の瞬間、アブゥ・サの首が音もなく宙を舞った。
血飛沫が弧を描き、大地に降り注いだ。
沈黙が、辺りを支配する。
その場にいた全員が、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
だが、アクアリアスだけは動かず、冷静にその亡骸を見下ろしていた。彼女の瞳に宿るものは、憐れみではなく、静かな決意――それだけだった。
そして、唇をわずかに動かし、ただ一言だけ呟いた。
「…お父様…仇は取りましたわ…」
アクアリアスは静かに目を伏せ、そっと呟いた。
その声音は、まるで海底に沈む祈りのように静謐で、柔らかな哀しみに包まれていた。
彼女の視線が、ゆっくりと残されたディープマーマンたちへと向けられる。
その瞬間、彼らは身を強張らせた。背筋が凍りつき、無意識に一歩退く者もいた。
「アブゥ・サはもう…いないですわ…」
静かに放たれたその一言は、まるで宣告のようだった。
王の死とともに、すべての秩序が崩れ去った――その現実を告げる音だった。
自分たちの運命が、いまこの瞬間、彼女の言葉一つに委ねられている。
その事実が、彼らの心から力を奪っていく。
ディープマーマンたちは、顔を見合わせ、やがて一人、また一人と手にしていた武器を取り落とした。
鈍い音を立てて落ちた槍や剣が、緊張の糸を断ち切るように響きわたる。
そして、彼らは膝をついた。
かつての誇りも、恐れも捨て去り、ただ静かに頭を垂れた。
「アクアリアス様……どうか、私たちにお慈悲を……」
「…アブゥ・サがいない今、我々はアクアリアス様に牙を向けることはございません…」
「虫のいい話かもしれませんが…どうか…」
次々と、彼らはその場に跪き、命乞いではなく、忠誠の言葉を口にした。
その声には恐怖ではなく、懺悔と祈りが込められていた。
――アクアリアスとその父が守ろうとした民。
長い間、アブゥ・サの威圧と恐怖に縛られていた彼らの心が、いまようやく解き放たれたのだった。
アクアリアスは一歩前に出て、ちらりとクトゥルを見上げる。
その視線には、どこか問いかけるような色が宿っていた。
だがすぐに決意を固め、彼女は胸にそっと手を当てた。
「…分かりました…貴方たちを許し、導きましょう…わたくし、ポセイドンの娘アクアリアスは今日より、ディープマーマンの新たなる長となりましょう…」
その宣言がなされた瞬間、場の空気が一変した。
誰もが、息を飲んだ。
「おぉ…」
呻くような声とともに、ディープマーマンたちは再び頭を深く垂れた。
それは臣従の意ではなく――救済への感謝と、心からの誓いであった。
かくして、かつて恐怖の支配が渦巻いていた海底の玉座に、
今、ひとしずくの光が差し込んだ。
渦の王座は、新たな長を静かに迎え入れた。
アクアリアスは一人、ゆっくりと身を翻し、静かにクトゥルの方へと歩み寄った。
その動きはまるで深海を漂う月の波紋のように滑らかで、どこか神聖な気配を帯びていた。
濡れたピンク色の髪が水中にふわりと広がり、澄んだ赤の双眸が、ただ一柱の存在――尊き支配者をまっすぐに捉える。
「……クトゥル様…この度は、一魔族であるわたくしにお手をお貸しいただきまことにありがとうございます…」
その声には誇りと感謝、そして深い敬意が込められていた。
アクアリアスはゆっくりと頭を深く垂れる。
それは臣従ではなく、魂からの礼だった。
その動きに呼応するように、ネレイダがそっと槍を地に置き、片膝をついて頭を垂れた。
豪胆で知られる槍使いもまた、己の心に従ってひれ伏す。
次いで、アブゥ・サに仕えていたディープマーマンたちが、静かにその場に屈した。
さらに、玉座の奥に身を潜めていた者たちが、泡を立てながら水中より現れ、彼らも同じように跪く。
それは――深き海に生きる者たちの、絶対的な忠誠の証。
その全てが、ただ一柱の存在へと捧げられていた。
邪神クトゥル。
混沌の深淵より歩み来たりし、支配をもたらす者。
その名は、いまや畏怖と信仰の象徴となり、海底に鳴り響いていた。
それらの視線と想いを受けながら、クトゥルは冷然たる威厳を崩すことはなかった。
腕を背に組み、唇に薄く微笑みを浮かべ、神々しき静寂をまとう。
だが――その内心はまるで真逆だった。
「(死なずに済んだ……ッ!)」
額に汗こそ浮かべていないが、心の中では何度も深いため息を吐いていた。
あの再生能力。あの突進。あの触腕。
どれか一つでもまともに食らっていれば、クトゥルの肉体は原形を保てなかったに違いない。
「(ふぅ…我も前衛で活躍したいけど…攻撃力が皆無だからなぁ…)」
と、その緊張を破るように、エリザベートが一歩踏み出して声を放つ。
「……やはり、アクアリアスが長になれたのも、クトゥル様の導きがあればこそっ!」
それに続くように、アーヴァが力強く頷いた。
「うむ、異論はないぞい。」
ティファーも、手を高く挙げて同意の意を示し、ルドラヴェールも無言ながら頷いてみせる。
彼のエメラルドグリーンの瞳が、クトゥルの背を尊敬の光で照らしていた。
それを見たクトゥルは、ほんの一瞬だけ戸惑いを浮かべかけたが、すぐに表情を整えた。
「……ちが――…うむっ! 我に感謝し、永遠に畏れ崇めよっ!」
それは半ば照れ隠しのような叫びだったが、彼の声は周囲の水すら震わせるような威厳を伴っていた。
その言葉に重ねるように、アクアリアスがふわりと微笑み、静かに口を開く。
「クトゥル様の存在があったからこそですわっ」
その言葉は、まるで潮の満ち引きのように、静かに、そして確実に広がっていく。
ディープマーマンたちの間に、信仰の息吹が芽生え、ざわめきが生まれる。
「(……もう、それでいいや…。信仰が増えれば、スキルが強化される…はずだし…)」
クトゥルはわずかに目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
その姿はまさしく、すべてを受け止める神。混沌の邪神の威容そのものであった。
――そして、渦の王座での激戦から一夜が明けた。
太陽の光が届かぬ深海にあっても、どこか柔らかな安らぎが満ちていた。
神殿の広間には、光苔のほのかな輝きが灯り、空間に幽玄な光の帯が揺らめく。
ディープマーマンたちは、癒えぬ傷を仲間と共に分かち合いながら、静かに眠りについていた。
珊瑚で編まれた王の玉座。
その上にアクアリアスは腰を下ろし、慎ましくも誇り高き眼差しで神殿全体を見渡していた。
隣にはネレイダが控え、片時もその忠義を忘れることなく、彼女を守り続けていた。
―――
青く揺らめく静寂の中、旅立ちの刻が迫っていた。
先頭に立つのは、威厳をたたえた邪神クトゥル。その背後には、エリザベートが静かに佇み、アーヴァが凛然とその隣に立つ。ティファーはわずかに肩をすぼめながらも、前を見据え、そしてルドラヴェールは一歩引いた位置から一行を見守っていた。彼の瞳は、これから進む路の先にある運命を見通そうとするかのように、深く澄んでいる。
「…さて、そろそろ、セレナータ・ルートに向かうとするか…(本当は行きたくないけど…)」
クトゥルの低く重い声が、波の囁きのように静寂を破る。
その声に応じるように、アクアリアスが現れた。ネレイダの腕に優しく抱えられ、彼らのもとへと近づく。
その姿はもはや、海底に翻弄される少女ではない。深海に君臨する王の器を湛えた、静謐なる威光をまとっていた。
彼女の手には、光を帯びた珊瑚細工の杖――その頂には、輝くピンクパールが埋め込まれていた。
「いつでも、セレナータ・ルートを開くことができますわ」
その杖こそが、ポセイドンからアブゥ・サから彼女に引き継がれた長の証。そして、古より海路を繋ぐセレナータ・ルートを開くための鍵でもあった。
アクアリアスは、ふと表情を曇らせ、わずかに視線を落とした。
「本来なら、クトゥル様たちと共に、ユ=ツ・スエ・ビルへと向かいたかったのですが…」
その声音には名残惜しさが滲む。だが、彼女はすぐに顔を上げ、目を細める。
「長として、この場所を見捨てるわけにはいかない。父が護ろうとしたものを守らなければ…」
深海の民が築いてきた暮らし、信仰、誇り――それらすべてを未来へと繋ぐために。
クトゥルはゆっくりと頷いた。その動作一つに、絶対的な威厳と静かな肯定が込められている。
「誰かがここに残らなければ、またアブゥ・サのような者が出てくる。お前が、導いてやれ」
「ありがとうございます、クトゥル様。」
アクアリアスは柔らかくほほ笑むと、ネレイダと共に膝をついた。
彼女の笑みには、もはや少女の影はなかった。選ばれし長としての誓いと、自身の意志を確かに宿していた。
「ですが、わたくしたち海のディープマーマンはいつでも貴方様の味方ですわ。危機があればいつでも、伺います。」
その宣言に、ネレイダも頭を下げ、誓いを添える。
「俺もお嬢様と共に、馳せ参じましょう…」
彼はアクアリアスを支え直す。
もう彼女にとって、ネレイダはただの護衛ではなかった。共に歩む右腕であり、王を補佐する者であり、時に兄のように見守る存在でもあった。
「セレナータ・ルートまで、皆さまをお送りします。それが、長の務めですから。」
アクアリアスのその言葉を最後に、クトゥル一行は静かに歩き出した。
遥かなる地、ユ=ツ・スエ・ビル。邪神を巡る旅の次なる舞台が、彼らを待っている。
神殿を包む水の流れが、霧のような穢れを拭い去るように澄んでいく。光苔の柔らかな輝きが、水のヴェールに反射し、幻想的な光を帯びて広がっていった。
それは、戦いに倒れた者たちへの鎮魂であり、旅立つ者たちへの祝福でもあった。
ゆっくりと、それぞれの道が分かれていく。
だが、それは別れではない。
交わる定めのその日まで、魂の絆は深海の如く、静かに、確かに繋がれていた。