深海の地⑥
「行くのだっ!誇り高きディープマーマンたちよっ!」
アブゥ・サが怒声と共に手を掲げると、その号令に応じて配下の兵たちが一斉に動き出した。
四方八方から、鋭く磨かれた珊瑚の槍が閃き、水の抵抗をものともせず一直線に迫る。
崩れた柱の陰から、沈んだ礼拝堂の壁面から、あるいは天井近くの闇から――殺意を帯びた水の矢となって襲いかかる。
「『オーバークレスト』っ!」
ティファーの足元に風が渦巻く。放たれた魔力が彼女の身体を駆け巡り、重力さえ忘れたかのような速さを得る。
風魔法と身体強化――二つを重ね合わせた魔技が、まさに戦場の風神となって敵陣に躍り出た。
「『ウィンド・カッター』っ!」
鋭く放たれた一閃が、水を裂き、迫る槍の間隙を縫って敵の喉を貫く。
だが、数は多い。殺到する敵を前にしても、ティファーの眼差しは変わらない。笑みすら浮かべている。
「くふっ……この程度、わっちの炎で焼き払ってやるぞいっ!紅蓮の呪火よ、纏わり燃やせ――『バーン・フレア』!」
アーヴァが両拳を掲げた瞬間、彼女の手元に蒼き焔が巻き上がる。
湿潤な海底の空気が火の勢いを抑え込もうとするが、それでもなお、アーヴァの魔力は衰えなかった。
疾駆する姿はまるで蒼炎の流星。拳が直撃した敵のディープマーマン兵は悲鳴を上げ、壁に叩きつけられ意識を失った。
「暇つぶしになるかしら…?銀嶺を裂け、雷の舞脚よ――『ライオット・ヴォルト』」
混沌のローブをドレスに変形させたエリザベート。
指先から、雷の奔流が走る。石畳を這うように流れた雷撃が、数体のディープマーマンの脚を絡め取る。
身動きの取れなくなった敵兵が次々に倒れ込む中、彼女の紅い瞳は冷たい輝きを失わない。
「グル…食事ノ時間ダッ!」
ルドラヴェールが低く唸り、獣のように海底を滑る。
一瞬の隙を突いて敵の背後に回り込むと、鋭く尖った牙が躊躇なく首筋に食い込んだ。
流れる血が海中に広がり、相手の身体が徐々に動かなくなっていく。彼女にとってそれはただの作業であり、哀れみも迷いもなかった。
「ネレイダ。わたくしが援護しますっ…」
「はっ!」
アクアリアスの祈りが込められた旋律が水中に響き渡り、光の波紋がネレイダの身体を包み込む。
聖なる魔力が彼の肉体を強化し、神々しい気配がその剣槍に宿る。
ネレイダは無言のまま頷き、敵の波に向かって一直線に突き進んだ。
槍を携えたその姿は、まるで神域の番人のように威厳に満ち、突き出されるたびに敵兵が水中で吹き飛ぶ。
「(トリニティー・ディザスターは使えないし…取り合えず、戦ってるフリしておくか…)」
渦の王座の奥、邪神クトゥルが静かに呟いた。
エリザベートたちが次々と敵を討ち払う中、彼はあくまで余裕の構えを崩さず、ゆったりと指を掲げる。
「『エイドロン・シフト』」
瞬間、空間が軋むような異音を放ち、クトゥルの身体を中心に半透明の歪みが広がった。
一拍置いて、まるで鏡の中から溢れ出したかのように、彼の姿が次々と出現する。
左右、上方、足元――無数の「クトゥル」が渦の王座の中に散らばり、そのどれもが不気味な笑みを浮かべている。
実体はなく、触触れることのできない幻。――それが《エイドロン・シフト》の力だった。
しかし、どれが本物か判別できないその異様な光景は、視覚と感覚を狂わせるには十分すぎた。
クトゥルはさらにゆっくりと右手を掲げる。
「『オール・オブ・ラグナロク』」
神話を想起させるその名が告げられると同時に、深海に不協和音が響き始めた。
耳障りで不穏な音――鐘のようであり、嘆きのようであり、狂気の旋律が水を伝って広がる。
幻影たちはフィールドを蠢き、実体と変わらぬ動きで、ディープマーマンたちの周囲をくるくると旋回し始めた。
水泡が立ちのぼり、ゆらめく光が不規則に交錯する中で、クトゥルの本体は悠然と微笑みを浮かべている。
何もしていない――だが、その不気味さが圧倒的な存在感を放っていた。
「(よしよし…良い具合に混乱してくれているなっ…)」
彼は戦いの只中で、誰にも気づかれぬままほくそ笑む。
幻影に惑わされたディープマーマンたちは、攻撃の手を見失い、後退を始めていた。
その隙を縫うように、仲間たちが猛然と攻勢に出る。
炎、雷、槍、牙――様々な技と武器が繰り出され、次々と敵を圧倒していく。
「今ですわ、皆さまっ!こちらが押していますっ!このままわたくしが支援を――」
勝機を見たアクアリアスが、澄んだ歌声を高らかに響かせる。
その旋律は神殿の奥へと染み渡り、味方たちの身体に光を与え、魔力の流れを促していく――はずだった。
だが、次の瞬間。
ぐにゃりと、空間が歪んだ。
「調子に乗るなっ!!」
怒声が轟いた瞬間、アブゥ・サの口元が憎悪に歪む。
彼が腕を大きく広げると、周囲の水路が異様な唸りを上げ始めた。
水の流れが逆巻き、壁面を這うように渦を描き、中心に深海の黒が染み出していく。
禍々しい魔力が満ち、空間がきしむ。
まるで水そのものが悲鳴を上げているようだった。
「深淵召喚っ…現れよっ!アヴァロン・クラケンっ!」
アブゥ・サの叫びとともに、中央の水面が裂ける。
亀裂のように開いた虚無から這い出してきたのは、純白の肉体を持つ、常識を逸した巨獣だった。
ぬめるように輝く表皮は、海の光を吸い込み、天井に届くほどの長大な胴体をくねらせる。
その身体から伸びるのは、十を超える巨大な触腕。一本一本が鋼鉄の柱のように太く、動くたびに空間そのものを押し潰すかのような圧を放つ。
うねるたび、礼拝堂の構造物が震え、石畳がきしんだ。
一本の触腕が、稲妻のように奔り、真っ直ぐにエリザベートたちを襲う。
「ナンテ……馬鹿ゲタ大キサ……!」
ルドラヴェールが唸り声をあげ、地を掴むように低く構えた。
その横で、ティファーが槍を構えたままちらりと視線を送り、魔獣の全貌を見定める。
「この魔獣っ…セレナータの船を襲った魔獣ですわっ」
アクアリアスが息を呑む。
彼女の隣で、ネレイダが顔をこわばらせる。
「アブゥ・サが召喚した魔獣なのかっ」
青白い光に照らされたネレイダの表情には、戦士としての覚悟と警戒が滲んでいた。
彼らがそうして見上げている間にも、《アヴァロン・クラケン》は触腕を振りかざし、礼拝堂を襲おうとしていた。
ただその気配だけで、全身に重くのしかかるような圧力がのしかかる。
「…!」
一同は、咄嗟に武器を構え直し、息を飲む。
その中にあって――幻影しか使えぬクトゥルは、静かに幻影の後ろに身を潜める。
「(……これ…まずくないか…?)」
巨体、威圧、魔力の質。そのすべてが異常だった。
幻影だけではどうにもならないと、彼は誰よりも早く悟っていた。
天井を突くほどの巨躯。瘴霧のような気配を漂わせる異形の召喚獣。
その存在はまさに、旧き神々の時代に封じられた"深海の恐怖"そのものだった。
「これは……古の魔獣。封じられし触腕の魔獣…アブゥ・サ。なぜ、貴方ごときがこの魔獣を…」
エリザベートが目を細めて呟く。
その美しい顔に、わずかにだが緊張の色が滲んでいた。
だが、問いに返されたのは、冷たい嘲笑だった。
「クカカっ!驚いたかっ!ユ=ツ・スエ・ビルの主から借りた魔獣だっ!これで貴様ら海の藻屑となるが良いっ!!」
アブゥ・サの声は、礼拝堂の天井に反響し、深海の魔力に混じって響き渡る。
勝ち誇ったその声を背に、《アヴァロン・クラケン》の触腕が再びうねりを見せた――
「アヴァロン・クラケンよっ…奴らをその触腕で押し潰せっ!」
アブゥ・サの叫びに応じるかのように、巨体がゆっくりと動き出す。
その質量だけで空気が震え、深海の瘴気が波紋のように拡がっていく。
天井へと届く純白の巨獣――《アヴァロン・クラケン》が、一本の触腕を振り上げ、地を割らんばかりの力で振り下ろした。
その一撃は、ただの打撃ではない。
重力、魔力、瘴気、全てが圧縮された一閃が、仲間たちを押し潰さんと迫る。
「させません!」
そのとき、凛とした声が戦場に響いた。
アクアリアスが前へと踏み出し、水を纏った手を高く掲げる。
「切り裂け、清流の刃――『アクア・エッジ』!」
彼女の周囲に渦を巻いた水流が、鋭利な刃となって天へと放たれる。
その瞬間、別の方向から風を切り裂く声が続いた。
「アクアリアス…加勢するぞっ!『ウィンド・カッター』!」
ティファーが風の刃を生成し、タイミングを合わせて撃ち込む。
二人の魔法が交差し、振り下ろされた触腕をかすめながら切り裂いた。
白濁した血のような液体が飛び散り、巨腕は僅かに軌道を逸らす。
だが――それは、あくまで僅かだった。
「くっ……!」
今度はネレイダが、迷うことなく横から駆け出す。
手にしたサンゴの槍が一直線にクラケンの皮膚を貫かんと突き立てられた。
鈍い音。
サンゴの刃は、滑るようなぬめりのある皮膚に突き刺さるが、深くは入らない。
「ちっ…思った以上に…硬いっ…!!」
歯を食いしばるネレイダ。クラケンの身体は、ただ巨大なだけでなく、異常なまでの防御力を備えていた。
その戦いの一角で、女性の影が揺れる。
「ルドラヴェール。下がりなさい…水の瘴気が濃すぎる、今は足手まといになるわ」
エリザベートが冷静な声で命じる。
湿気を帯びた空気の中、黒の髪が揺れ、眼光は冷たく鋭い。
「グッ…」
ルドラヴェールは鼻を鳴らし、悔しげに睨みつけながらも、素直に後方へと下がった。
「わっちに任せるぞいっ!」
「援護します!アーヴァさんっ!」
背後からアクアリアスの声が響く。
同時に、彼女の歌声が空気を震わせ、魔力の旋律が戦場を包む。
響き渡る音に呼応するように、アーヴァの身体が紅蓮の光に包まれた。
「うむ!わっちに任せい!螺旋せよ、炎の竜巻――『インフェルノ・スパイラル』!」
その小さな身体から放たれたのは、炎の奔流。
拳を突き出すとともに、蒼炎の竜巻がクラケンの触腕に直撃し、焼き焦がす。
焦げた肉が弾け、瘴気と血の臭いが入り混じって空気を満たした。
しかし。
焼かれたはずの肉が、再び蠢き始める。
禍々しい瘴気が凝縮し、溶けたはずの肉が泡のように再生していく。
「……何て再生力じゃっ……」
アーヴァが呻くように呟いた。
額には汗が滲み、蒼炎をまとった拳がわずかに震えている。
青色の尾が不規則に波を打ち、周囲の湿った空気がさらに重苦しくなる。
炎を焼きつけたはずの触腕が、まるで時間を巻き戻すかのように蠢き、瞬く間に再生を果たしていた。
ティファーも、魔法の構えを取りながら目を見開く。
「何度触腕を切断しても、復活するっ…」
絶望の色を帯びたその声が、戦場の空気に揺らぎを生む。
だが、彼女の言葉に応じるように、次なる危機が迫る。
「ティファ―さんっ!後ろっ――!?」
アクアリアスの叫びが響いた。
反射的にティファーが振り返った瞬間、巨大な触腕がすでに目前に迫っていた。
「――ぐっ…避けれないっ」
眼前に広がるのは、暗く濁った深海の絶望。
咄嗟に防御の構えを取るが、それはあまりに遅く、迫る巨腕に対して無力に見えた。
だが――
ふわり、と身体が浮き上がる。
思いもよらぬ力が背中から働き、まるで風にさらわれるように後方へと引き戻される。
その刹那、触腕は彼女のいた空間を薙ぎ、激しく風を巻き上げた。
「ル、ルドラヴェール様っ…」
声を振り返らせたのは、鋭い爪と強靭な脚、そして逞しくも美しい尻尾でティファーの身体を支えていたルドラヴェールだった。
彼はティファーを抱えるようにして宙を駆け、そのまま軽やかに着地する。
「グル…大丈夫カ。」
ティファーは胸を押さえながら息を整え、小さく会釈する。
「はいっ…助かりましたっ」
礼を言うや否や、ティファーはすぐに姿勢を正し、再び戦線へと戻っていく。
彼女の瞳には、怯えよりも強い決意が宿っていた。
その一方で、場を支配する異形の威容は揺るがぬまま。
触腕は絶えず蠢き、傷を負っても瞬時に再生し、再び獲物を狩るために動き出す。
仲間たちがその不死性に気圧され、打開策を探す中――
ただ一人、エリザベートだけは動じなかった。
深紅の瞳で魔獣をまっすぐに見据え、その双眸にはわずかな笑みが浮かぶ。
それは冷笑でも嘲笑でもない。
まるですでに勝利の道筋を見出しているかのような、確信に満ちた静かな微笑。
沈着冷静――否。
この時すでに、彼女の中では終局が見えていた。
そして、その紅い瞳は、すぐ隣に立つ存在へと向けられた。
エリザベートが見上げるのは、この場において最も異質にして威容を放つ者――
偉大なる邪神、クトゥル。
「(やばいってっ!? するくねっ!? …と、とりあえず作り笑いしとくか…)ククク…なるほど…な」
彼は腕を組み、どこか達観したような笑みを浮かべていた。
だが、その仮面の下――心中は嵐のような動揺で満ちていた。
「(クソでかイカに超再生!?いや、やばいってマジで…ッ!)
内心で悲鳴を上げながらも、邪神である彼は、気丈にふるまわねばならない。
威厳と恐怖をもって信徒たちを導く、それが邪神という存在の宿命だった。
「…流石はクトゥル様っ!…私と同じ考えを持っているのですねっ」
エリザベートが、まるで少女のように目を輝かせて言った。
その純粋な称賛に、クトゥルは思わず心を跳ねさせる。
「(っ!?…びっくりした…ん? 同じ…考え…?)」
突如現れた信頼という名の圧力に戸惑うクトゥル。
何が同じだったのか――全く思い当たる節はない。
「…?意味が分からんぞいっ…?」
アーヴァの疑問に答えるように、エリザベートは静かに、確信に満ちた口調で続けた。
「腹部の核――そこが再生の要よ。あそこを貫けば、さすがのクラケンも再生は叶わないわ。」
明晰な分析。的確な指摘。
仲間たちがまだ混乱する中で、彼女は冷静に敵の弱点を看破していた。
「…クククッ……その通りだっ」
クトゥルは、必死に表情を保ちつつも、余裕ある笑みでそう返した。
一切の迷いも見せぬその声――だが、心の中では。
「(知らない…俺は知らなかったぞ…)」
苦々しくも己の無知をかみ締める。
だが、それを顔に出すなど邪神としてあってはならぬ。
(うろたえるな俺…それっぽく振る舞えばバレない…)
そう自らに言い聞かせながら、クトゥルは静かに片手を掲げた。
まるで全てを導いていたかのように――
「――ならば、我が手で隙を作ってやろう。お前たちが腹部を貫くのだ…(俺攻撃手段ないから…よろしくっ!)」
堂々たる声で宣言したクトゥルは、しかし心中で密かに助けを乞うていた。
その見事な虚勢を、誰も見抜くことはできない。
「御意にございます。」
エリザベートが恭しく頭を垂れる。
その仕草は一切の疑念を感じさせず、完全な信頼と服従を意味していた。
彼女の言葉に続き、仲間たちも各々の持ち場へと駆け出す。
戦場に再び緊張が走った。
クトゥルは、静かに瞼を伏せた。
その異形の身体が微動だにせぬまま、空間の中心に沈み込むように立つ。
呼吸すら感じさせぬ静寂の中、彼は深く、静かに精神を集中させていた。
その身を満たすのは、深淵の理――。
底知れぬ混沌の鼓動が、鼓膜ではなく魂を震わせる。
《オール・オブ・ラグナロク》
その名を心の内で唱えた瞬間、世界が揺らいだ。
それはクトゥルのスキルであり、存在するというだけで周囲の空間を歪ませる、邪神の圧迫そのもの。
視界が滲み、空間が捩れ、まるで深海に沈んだ神殿が軋むような振動が空気を包む。
――となれば、いいのだが。
実際には《オール・オブ・ラグナロク》は、クトゥルが想像した音を現実に響かせるだけの非攻撃系スキルである。
にもかかわらず、その音がもたらす錯覚と異常な空間演出は、常識から逸脱していた。
重く鈍い咆哮のような――あるいは天から落ちてきた世界の断末魔のような、音ともつかぬ音が、空間を軋ませながら流れていく。
その異常を、アヴァロン・クラケンは確かに察知した。
深海の獣。巨大な軀をくねらせ、神殿の水路を震わせながら、クラケンは低く鳴動する。
その声は怒りか、警戒か、それとも呼応か。
どこからともなく響く幻の音――現実のどこにも存在しないはずの音に導かれるように、クラケンはその巨体をゆっくりと回転させる。
水が揺れ、天井の雫が軌道を変えるほどの質量が動く。
そして、クラケンの巨大な頭部が、確かにクトゥルのほうへと向けられたその刹那。
「『サンダーボルト』!」
「灼け落ちよ、魔炎の彗星――『ヘルスパーク』!」
エリザベートとアーヴァが、息を合わせるように魔法を放った。
天から鋭く走る雷撃が降り注ぎ、地より突き上がるように蒼炎が巻き上がる。
放たれた魔力は、クラケンの腹部一点に収束され、白熱の閃光を生んだ。
蒼白の閃光に包まれた巨躯がのたうち、断末魔の咆哮が海底を揺るがす。
その鳴き声は、玉座そのものを震わせ、周囲の潮流すら変えてしまうほどだった。
クラケンの腹部が激しく波打ち、中心に赤黒い光が滲み出す。
そこは、今まさに崩壊しかけた粘膜の奥――
不気味な拍動を繰り返す、心臓にも似た核が姿を現した。
「今ですわ、ネレイダ!」
「はっ!」
アクアリアスの鋭い指示に応え、ネレイダが波間を駆ける。
まるで海と一体化したかのような軽やかさで、一直線に標的へと迫る。
その背に、アクアリアスの支援魔法が注がれた。
蒼き魔力がネレイダの肢体を包み、その動きは水流そのものとなる。
クラケンの核心部へと肉薄した瞬間、ネレイダは一閃――
槍先が迷いなく振るわれ、闇を裂くように核へと突き刺さる。
破砕音。
それは物理的な音以上に、魔の支配が崩壊する音に等しかった。
赤黒く鼓動していた核が砕け散り、クラケンの巨体が突如として沈黙する。
触腕は次第に力を失い、泡となって解けるように姿を消していった。
――静寂。
重く、深く、海底に沈むような沈黙が場を包む。
その場に立ち尽くしていたアブゥ・サが、一歩、後ずさる。
瞳を見開き、表情を凍りつかせていた。
信じられぬものを目の前にし、口元が震える。
「な……ば、馬鹿な……っ」
その声を切るように、静かにローブが揺れた。
静寂を破ったのは、エリザベートだった。
彼女は一歩、前へと進み出る。
「終わりよ、アブゥ・サ。混沌の邪神様の名の元に沈んだわ。」
その言葉には、揺るぎない信念と、勝利を確信する気高い意志が込められていた。
彼女にとって、この勝利は信仰の証。
そして邪神クトゥルへの絶対的な帰依の現れであった。