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深海の地⑤

「では、進むとするか…」


誰にともなく、低く呟かれたその言葉に、背後に連なる仲間たちは、無言のまま自然と頷いた。

言葉は少ない。だが、互いの胸に宿る覚悟は揺るぎないものだった。

ためらうことなく、一行は、淡く揺らめく光の奥へと、静かに歩みを進めていく。


「(あぁ…どうするか…もうトリニティ・ディザスター使えないじゃん……)」


堂々たる歩みを見せるクトゥルだったが、その胸中では別の葛藤が渦巻いていた。

最大の切り札を既に使い果たしてしまった今、次に訪れるであろう激戦を、どう乗り越えるか――。

その一点に、彼の意識は鋭く研ぎ澄まされていた。


水中を満たす静寂。

その中で、ただ彼らの存在だけが波紋のように、水底へ静かに広がっていく。


やがて、一行は水流に乗るようにして、緩やかに上昇を始める。

やや上方に見えた扉へと辿り着き、クトゥルが手を伸ばして、重々しい扉を押し開こうとする。


「(お、おもっ…俺じゃ無理だ)」


扉はビクともしない。けど、開けれないとバレたら威厳が損なう。

そのため、クトゥルはピタリとネレイダを見ると命令する。


「ネレイダよ…この扉を開けるのだ…」


「はっ…」


ネレイダは、疑うことなく頭を下げると扉に手をかける。


ぎいぃん……。


深海の扉が、低いうめきと共に軋み、鈍い音を立てて開く。

まるで異界の深淵が、彼らを誘うように、口を開いたかのようだった。


扉の向こうに顔を出すと、広々とした通路が広がっていた。

両側には、二人が並んで歩けるほどの幅を持つ水路が、暗い水をたたえながら続いている。


「クトゥル様、この先が、渦の王座ですわ。」


アクアリアスはネレイダにお姫様抱っこされ、水路へと移動して貰うと先導を始める。


一歩。

また一歩。


クトゥルが威風堂々と歩みを進める。


そのすぐ背後には、無言のまま気配を張り詰めるエリザベートが続き、さらにその後ろから、ティファーが軽やかな身のこなしでついていく。


アーヴァとルドラヴェールは慎重に周囲を警戒しながら進み、最後尾ではアクアリアスとネレイダが緊張を纏いながら、静かに歩を進めていた。


その姿はまるで、運命に導かれ、深き神域へと赴く巡礼者たちのようだった。


やがて、扉の向こうに広がる新たな世界へと、彼らはためらうことなく、静かにその身を沈めていった。



―――



そこは、まるでこの世の理から切り離された、別世界だった。


広大なドーム状の空間が、視界のすべてを包み込む。

その中心に設えられたのは、石で築かれた荘厳な広場。

それはまるで、古の神儀を迎えるために用意された祭壇のようであり、時間さえもそこに膝を折ったかのような静寂を湛えていた。


広場を囲むようにして、清らかな水路が円を描いて流れている。

その水は迷いなく、広場の中心へと向かい、深い導線をなして注がれていた。


覗き込めば、そこにあったのは――底知れぬ闇。


一見すれば澄んだ水面。しかしその奥には、陽の光も届かぬ無の深淵が広がっていた。


それはまるで、生きとし生ける者の理を拒むように、触れた者すべてを奈落へと呑み込まんとする魔の口。


見る者に、ただの液体ではないなにかを直感させる、理を逸した静けさだった。


頭上を見上げれば、天井から垂れた無数の筋が、絶え間なく水を滴らせていた。

ぽたり――。ぽたり――。

水音が律動のように響き、空間を満たす静けさをさらに際立たせる。


それは静けさを癒すものではなく、むしろ永遠という名の圧力を、じわじわと押し広げる呪音のようであった。


その空気は、ただ立っているだけで肺を重くさせ、呼吸すらためらわせるほどに、濃密で重苦しい。

音も、光も、時間でさえも、この空間においては等しく沈黙し、ただ存在することすら許されぬような、厳粛な圧を持っていた。


そして、その静謐を破る、何かの気配があった。


水路の奥、濃い影の中から、ぬるりと何かが姿を見せる。


「…くっ…まさか…侵入してくるとはっ…!?」


湿った岩を撫でるような、低く濁った声が、空間に鈍く響く。

声の主は、広場の向こう、水路の淵にその姿を現した。


それは大柄なディープマーマンの男だった。

その全身を覆う鱗は青緑に染まり、湿った深海の光を思わせる仄かな輝きを放っている。

眼窩の奥深くに沈む三つの黄金色の瞳には、底知れぬ威圧と、得体の知れない狂気が宿っていた。


「……アブゥ・サっ」


アクアリアスが、静かに、しかし確かな声で名を告げた。


こうして対面するのは――あの日以来だった。

アクアリアスの中で、時間が止まったままだった場所。

父が殺された、あの瞬間を境に封じてきた記憶の扉が、いま静かに軋みながら開かれようとしていた。


言葉では到底言い表せない感情が、深く、深く胸の底に沈殿している。

悲しみとも、怒りとも、憎しみとも違う。

それは名のない感情。ただ、底知れぬ深みをたたえた静寂だった。


「…ふんっ…お前か…」


アブゥ・サが、吐き捨てるように言った。

その声は、古の水底のように冷たく、どこか嘲りを含んでいた。


「…ポセイドンの娘――群れから逸れたアクアリアスよ…ワシはお前の父を誇り持って葬り長となった。」


広場に響くその言葉は、まるで水を打つ音のように乾いていた。

だが、アクアリアスの心には、ぬるりとした痛みを伴って染み渡っていく。


「それが、今さら何のつもりで現れた…?」


アブゥ・サの瞳が、ねっとりと彼女を射抜く。

その目に映るのは、かつての幼子ではない。だがそれでも、なおも彼は支配者として彼女を見下ろしていた。


「誇りをもって葬った…ですって…?…抜け抜けと…わたくしは見ていました。父を背後から襲った貴方の姿が――」


アクアリアスの声は、揺るぎなかった。

怒りに燃えるでも、涙をこらえるでもなく、ただ真っすぐに。

彼女はすでに憎しみの段階を越えていた。

そこにあったのは、沈着な確信と、哀れみに近いまなざし。


「っ!?」


一瞬動揺を見せたアブゥ・サだったが、すぐに調子を戻すと口を開いた。


「ふんっ…出鱈目をっ。お前しか見ていなかったのだ。証拠などないっ!」


アブゥ・サが吐き捨て、手に持つピンクの真珠が埋め込まれた螺旋状の法杖を石畳に打ちつける。

ドォォンっと重々しい音が空間に響き、次の瞬間――彼の背後の水路から、音もなく影が浮上してくる。


水面を割ることすらない静けさで現れたのは、アブゥ・サに仕えるディープマーマンたち。

その目には鋭利な殺意が宿り、全身から滲み出る気配は、すでに戦いの構えに入っていることを明確に物語っていた。


水路を囲むように広がるその圧力が、じわじわと空気を歪ませていく。

一触即発。もはや、逃れられぬ対決は避けられなかった。


アクアリアスの涼やかな声が、静かに空間を震わせながら余韻を残す。

張り詰めた水底の沈黙を破るように、クトゥルは無言のまま、一歩、前へと踏み出した。


その動きはわずかでありながら、広間に満ちる深海の圧力すら退けるほどの存在感を放つ。

威圧。それは堂々と、そして一切の揺らぎなく、広間を支配するように、じわりと広がっていった。


「ククク……話を聞いていれば、小物だな……アブゥ・サとやら…(こいつ…実は弱いんじゃないか…?)」


低く、静かに放たれた嘲りの言葉。

だが、その一言は鋭い刃のように空間を貫き、重く、広間の空気そのものを震わせた。

まるで、取り返しのつかない宣告のように。


アブゥ・サの顔に、みるみる怒気が滲んでいく。

藍色の鱗を這うように青黒い血管が浮かび上がり、黄金色の三つの瞳に濁った怒りの光が宿る。

鋭利な牙をあらわに剥き出し、胸の奥から、獣のような唸りを漏らした。


「……何だと……?」


低く、地を這うような声。


それは単なる怒声ではない。

巨躯から溢れ出した濁流のような殺意が、水路を伝ってじわじわと広間の水を濁らせていく。

見えない圧力が生まれ、空間全体が軋みながら、怒りの色に染まっていくかのようだった。


「(あ…弱くなさそう…)」


堂々たる態度とは裏腹に、クトゥルは心の奥で先ほどの言動をひそかに後悔していた。

しかし、その後悔すら表情には一切出さない。

威厳をまとったまま、彼はアブゥ・サを静かに見据え続けた。


後悔の念を噛みしめるクトゥルの傍らで、アーヴァが力強くうんうんと頷いた。

小柄な体をいっぱいに使い、勢いよく腰に手を当てると、満面の自信を浮かべながら高らかに言い放つ。


「クトゥル様の言う通りじゃ!正面から葬るならまだしも、背後から襲うなど、誇り高きディープマーマンが泣くぞいっ!」


ピシャリと断言されたその言葉は、まるで鋭く研がれた刃。

アブゥ・サの矜持を真正面から深々と抉り取った。


瞬間、広間を満たしていた空気がさらに重たく、冷たくなる。

潮の香りが一層鋭さを増し、まるで血の匂いすら混じったかのように、鉄錆びた気配が漂い始めた。


それでもクトゥルは、毅然とした無表情を崩さず、空間のただ中に立ち続けていた。

だが――その胸中では、冷や汗を流しながら、うっすらと絶叫していた。


「(――アーヴァ…さらに火に油を注いでくれるな…っ!)」


後戻りなど、もはやできはしない。

戦は、不可避だった。


水面が、ピクリと震えた。

それは最初、ほんのかすかな揺らぎだったが、やがて足元から伝わり、大地を這う獣のうねりのように拡大していく。


アーヴァの言葉に続くようにして、エリザベートが一歩、静かに前へと進み出た。

その動きは優雅でいて、獲物に迫る刃のような鋭さを秘めている。

長く艶やかな黒髪が微かに揺れ、彼女の纏う気配は、周囲の空気ごと張り詰めさせた。


紅玉のような瞳を細め、その奥に冷笑を滲ませながら、形の良い唇を緩やかに開く。


「無様ね。背後からしか刺せない剣に、誇りなど語る資格はないわ。

ポセイドンも可哀そうね…腰抜けディープマーマンに長を奪われるんだから…」


その声は凍てついた刃のように鋭く、どこまでも容赦がなかった。

ただ言葉を紡いだだけにもかかわらず、その一言一言がアブゥ・サの心臓を突き刺していく。


エリザベートが纏う冷たい気配が、広間の温度をさらに下げ、ただでさえ煮え立っていたアブゥ・サの怒りに、追い討ちをかける。


ギリ――。


アブゥ・サの牙が、堪えきれずに軋みを上げた。

喉の奥で濁った呼吸が荒れ、怒りの波動が肌に刺さるように伝わってくる。


だが、容赦は終わらない。

その場に立つ誰もが、緊張と殺意に満ちた空気を、肌で、骨で、ひしひしと感じ取っていた。


ティファーが、ゆっくりと剣の柄へと手を伸ばし、無言で前へと歩み出た。

引き絞った弦のような緊張感を背に、彼女は冷たく、静かに告げる。


「背中からしか狙えない――それは、弱いって自分で認めてるものだな…ふっ…」


鼻で笑ったティファーの声音が、鋭い刃となって広間に響き渡る。

その一瞬の仕草すら、アブゥ・サに対する侮蔑をありありと示していた。


そして最後に、ルドラヴェールが音もなく前へ進み出た。

普段は寡黙な彼女が、この場でははっきりと、低く、鋭い声を放つ。


「背後ヲ狙ウトハ、卑劣極マル……モハヤ戦士デハナイ。

ソコラノ魚ト変ワラヌナ…」


短くも容赦ないその一言が、深々とアブゥ・サの矜持に突き刺さる。

怒りを限界まで煮詰めたかのように、アブゥ・サの全身から殺気が噴き上がった。


そして――ついに。


唸りを帯びた、低い咆哮が爆ぜる。


「貴様らあああああああッ!!!」


怒声と同時に、広間の水が激しく波打った。

まるで巨大な生き物が蠢くように、床を覆う水面が跳ね上がり、天井に向かって轟く水柱を立てる。

砕けた珊瑚の破片が、細かな雨のように降り注ぎ、音もなく地を打った。


深海の神域――沈みし礼拝堂は、怒れる王の咆哮に応じ、今や完全に戦場へと姿を変えた。


そんな狂乱の中で、アクアリアスが静かに、周りの水路へ飛び込む。

気品と覚悟を纏ったその姿は、周囲の混沌をものともせず、ただ一点を見据えていた。


「……ここで、決着を付けさせてもらいます。」


凛とした声に、揺るぎない決意が込められている。

そして、そっと胸に手を当て、厳かに続けた。


「…お嬢様の剣となりましょう」


隣に立つネレイダもまた、サンゴの槍を構え、鋭い視線をアブゥ・サへと向ける。


対するアブゥ・サも、怒りと力を全身に漲らせ、目を血走らせながら彼らを睨み据えた。

その瞳の奥に、凶暴な光が鋭く閃く。


「貴様ら……生きて帰さんぞっ!」


再び怒号が轟き、潮騒の怒りが渦を巻く。

荘厳だったはずの地下神殿は、いまや血と死の饗宴を迎えるための闘技場と化していた。


そして、戦いの幕は――静かに、だが確かに、上がったのだった。

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