深海の地④
礼拝堂の中央、かろうじて崩壊を免れた石畳の上に、ひときわ目を引く存在が佇んでいる。
鋭く尖った珊瑚の槍を手にした、たくましい体躯のディープマーマン。
海藻のように長く流れる髪が、水中でゆるやかに揺れ、左目の下から顎へと走る一本の傷が、彼の厳しさを物語っていた。
その瞳は、深い群青。
敵意も、激情も見せず、ただ底知れぬ静けさだけをたたえて、じっとこちらを見つめている。
「…まさか、こんな所に居たなんて…」
アクアリアスが震えるような声で呟いた。
水中に漂う長い髪がかすかに揺れ、その小さな身体に走る緊張が、周囲の空気をもぴんと張り詰めさせる。
「(ん…? アクアリアスの知り合いか…?)」
クトゥルは興味深げに、目の前に立つディープマーマンとアクアリアスを交互に見比べた。
黒曜石のような黒い瞳には、静かな好奇心が灯っている。
「……ネレイダ」
アクアリアスが呼んだ名前は、まるで長い年月を超えてようやく口にされたかのように、重みを帯びて海中に響いた。
その声は、どこか震え、そして切なげだった。
一方、クトゥルは楽観していた。
知り合いならば、交渉も容易だろう――そんな甘い期待を抱いていたのだ。
だが、現実は違った。
ネレイダと呼ばれたディープマーマンは、手にした珊瑚の槍をわずかに傾け、鋭い眼光でクトゥルたち一行を睨みつけた。
敵意は露骨に漂い、容易ならざる空気が海底を満たしていく。
「お嬢様……いえ、今や、群れから逸れたマーレ・シレーナか。…何をしに、ここへ?」
低く、唸るような声だった。
海底の岩壁に反響し、じわじわと周囲に広がっていく。
「わたくしは、アブゥ・サの元に向かうためです。こちらの邪神クトゥル様方の協力を得て…あなたこそ、何でここにいるのですか…?」
アクアリアスは必死に声を保とうとしていた。
だが、その瞳には確かな覚悟が宿り、譲る気配は微塵もない。
ネレイダは槍を静かに持ち直すと、短く息を吐き、冷たく告げた。
「…俺は、新しき長であるアブゥ・サ殿の命でここを通過する者を排除する任を任されている…」
その言葉は、アクアリアスの胸を鋭く刺した。
「っ!?アブゥ・サは、わたくしのお父様を殺したヤツよっ…そんなヤツの命令に従うなんてっ」
堪えていた感情が、ついに溢れた。
アクアリアスは悲痛な声を上げ、震える拳を胸元に握りしめた。
父を奪った存在に仕えるという現実が、目の前のネレイダと重なり、彼女の心を容赦なく切り裂いていた。
ネレイダは、しばし沈黙した。
槍を地面へと静かに突き立てる。
音もなく海底の砂がわずかに舞い、その動きが彼の重い決意を象徴しているかのようだった。
やがて、ネレイダは動かぬまま、低く、海に溶けるような声で言った。
「ポセイドン様がアブゥ・サに敗れた。…故に彼が新しい長。その長の命令に従うのはディープマーマンの掟だ…」
「…そんな…」
アクアリアスの顔に、深い陰りが落ちた。
揺れる瞳に、失望と困惑が交錯する。
「(これは…交渉決裂か…?)」
クトゥルは、静かに推し量るように状況を見つめていた。
その背後では、仲間たちがそれぞれに緊張を高めている。
ルドラヴェールは獣のように鋭敏な気配で身構え、エリザベートは魔力のわずかな波を感じ取ろうと静かに集中している。
ティファーは腰の愛剣の柄を固く握り、アーヴァはじれったそうに尻尾を揺らしていた。
誰もが、次の瞬間に訪れるかもしれない戦いに備えていた。
だが、曇った表情を浮かべていたアクアリアスは、すぐに顔を上げた。
胸に宿る決意が、ひときわ強く輝きを放つ。
彼女は一歩、ネレイダの前へと進み出た。
細い指先が震えているのに、声ははっきりとしていた。
「わたくしは…父の意思を継ぎたい…だから。ネレイダ、お願い……わたくしに力を貸してっ」
静寂が訪れた。
深海の中で、潮の流れすら止まったかのような、重い沈黙。
ネレイダはじっとアクアリアスを見つめる。
その鋭かった瞳が、わずかに細められた。
そこには、かつて幼きアクアリアスをその槍で守り抜いた、遠い日の記憶が、波紋のように浮かび上がっていた。
かつて交わした、幼い誓い。
守りたいと思った、あの小さな手。
ネレイダの指先が、わずかに槍を握る力を緩めた。
しかし――緩みかけたネレイダの手が、再び力強く槍を握り直した。
海底に漂っていた静寂が、彼の冷酷な一言によって破られる。
「……その願い、受け入れるわけにはいかん」
低く、冷ややかな声。
その響きは、海底の礼拝堂の崩れた石壁に反響し、まるで亡霊たちの嘆きのように周囲へと広がっていった。
次いで、激しい水流がうねりをあげる。
ネレイダの手に握られた珊瑚の槍が、一閃の波と共に鋭く構えられた。
海底の砂が舞い上がり、視界に濁った渦を作り出す。
アクアリアスの目に、深い悲しみが揺れた。
かつて彼女を守ったネレイダが、いまや敵として立ちはだかる現実。
「ネレイダ……っ!」
必死の呼びかけにも、ネレイダは眉一つ動かさず、無慈悲に言い放つ。
「お嬢様が何を想おうと、俺は今の長の命に従う。裏切りは許されぬっ!」
その叫びと同時に、海水が震えた。
ネレイダの巨躯が、サンゴの槍をクトゥルたちに向ける。
「来ますっ!」
ティファーが叫び、瞬時に前へ飛び出した。
彼女は愛剣を抜き放ち、両手でしっかりと構える。
その双眸が、冷静に敵の動きを捉えていた。
「(よしっ…皆頑張ってくれよっ)」
クトゥルは、エリザベートたちに戦闘を託そうと胸中で期待する。
だが、その後方で、エリザベートが静かに首を振った。
「私の雷撃は……この海域では、あまりにも危険です。広がりすぎて、クトゥル様を巻き込む恐れが……」
その冷静な言葉に、クトゥルの顔色がわずかに曇る。
さらに、アーヴァが悔しげに歯を噛みしめた。
「ちっ……水の中では火が効きづらいのじゃ……わっちの魔法は頼りにならぬぞ」
「グル…海ノ中デハ俺ハ足手マトイ二ナリマス…」
追い打ちのような現実に、クトゥルは内心、絶望する。
「(嘘だろっ!?予想外なんだがっ!?)」
頼りにしていたエリザベートとアーヴァ、ルドラヴェールが戦闘不能――。
海底の冷たい闇の中で、刻一刻と、緊迫の気配が高まっていった。
―――
「(うぅ…後ろの視線が…)」
ぞわりと肌を撫でるような感覚に、クトゥルは小さく身震いした。
振り返らずともわかる。戦えないエリザベートアーヴァ、ルドラヴェールの期待に満ちた熱い視線――それが、否応なしに背中を押してくる。
逃げ出したい。心の奥底で、必死にそう叫びながらも。
クトゥルは顔だけは、威厳をまとった邪神のごとく超然とした態度を崩さず、堂々と前へ歩みを進めた。
「…ネレイダと言ったな…我こそっ。邪神クトゥルっ!貴様を倒し通らせて貰おう…」
声高らかに宣言する。
しかし、内心では(頼むから怖気づかないでくれ)と必死に願っていた。
その宣言に応じるように、仲間たちもまた、それぞれの決意を示した。
「クトゥル様…わたくしも攻撃魔法は得意ではありませんが…戦いますっ」
アクアリアスが、しなやかな尾ひれで海水を蹴り上げる。
その手には、澄んだ水の魔力が凝縮され、青白く輝き始めていた。
「私は何時でも行けますっ」
ティファーは剣を構えたまま、鋭い視線をネレイダへと向ける。
筋肉に無駄な力みはない。精密な機械のように、戦いに最適化された構えだった。
そして、皆の前に立ったクトゥルは、両腕を大きく広げ、高らかに宣言する。
「…ククク…我の全能なる力を見よ!『オール・オブ・ラグナロク』っ!」
海中にもかかわらず、クトゥルの声は響き渡り、威圧感を孕んだ音が水を震わせた。
その荘厳な響きに、周囲の水泡が細かく震え、礼拝堂の崩れた柱が不気味な音を立てる。
──だが、そんな堂々たる態度とは裏腹に。
クトゥルは、こっそりと後方に下がりながら(この立ち位置が一番安全)と確信し、見事なハッタリをかましていた。
海中に満ちた緊迫した沈黙を、鋭く切り裂くものがあった。
ネレイダの珊瑚の槍が、光の矢のように一直線に放たれたのだ。
「お嬢様…覚悟っ!」
鋭い声と共に、ネレイダの双眸が鋭く光る。
その巨体は海流すら味方につけ、高速の水弾となって突進してきた。
刹那、ティファーの足元から渦巻くような風が起こる。
彼女の身体が、水の抵抗を断ち切るように軽やかに加速した。
「『オーバークレスト』っ……」
口元から漏れる呪文と同時に、身体強化の魔法がティファーを包み込む。
その姿は、まるで水中の風。
圧倒的な速さで間合いを詰め、放たれた槍を刃で受け止め、弾き返す。
激しい衝撃が水を爆ぜさせるが、ティファーの構えは揺るがない。
水中という不利をものともせず、彼女は見事に前衛の盾となっていた。
一方で、背後から澄み渡る歌声が響く。
「──いざなえ、深海の調べ…『リフル・ヴォルテ』…♪」
アクアリアスの歌う声は、海そのものに命を吹き込むかのようだった。
音の波動が水を震わせ、味方の身体を滑らかに、自由に動かせるように導いていく。
同時に、ネレイダの動きには微細な逆流が生まれ、わずかに軌道を狂わせた。
「支援魔法『リフル・ヴォルテ』……援護いたしますわ」
静かに告げながら、アクアリアスは指先を美しく操る。
光のような細い水の糸が周囲を巡り、仲間たちに有利な戦場を形作っていた。
彼女はまさしく、支援における女王だった。
戦場全体を、見えぬ手綱で操る才覚がそこにあった。
そして――海底の薄明かりの中、ひときわ異様な存在感を放つ邪神の姿があった。
「ふっ…クククっ…見よ、我が混沌の顕現を……!」
クトゥルの全身がふわりと揺らぎ、まるで水面に落ちた墨汁のように広がっていく。
その姿はやがて、いくつもの影へと分裂し、海中のあらゆる方向へと散らばった。
「(トリックスターを使って魔法の膜が割れたらやばそう…ここは、エイドロン・シフトだっ)」
クトゥルの心中に焦りが走るが、表情には出さない。
次の瞬間、黒き幻影たちが水流をかき乱しながら、ネレイダを三方から包囲する。
幻影の一つが槍を避け、もう一つが斬撃を浴びせ、さらに別の影が魔法の奔流を放つ。
──すべて幻。
「(ばれませんように…っ!?)」
必死に祈るような思いで、クトゥルは後方から睨みを効かせる。
影たちはまるで実体を持つかのように、ネレイダの意識を引き裂き、翻弄した。
「なっ……俺の攻撃が通じないだとっ…」
ネレイダの瞳に、動揺の色が浮かぶ。
彼の槍が幻を穿っても、手応えはなく、水だけを裂いた。
その一瞬の隙を、ティファーは逃さなかった。
風を纏う剣が、凄まじい速度で疾駆する。
「ここだっ!『ウィンド・カッター』!」
鋭く叫びながら放たれた刃が、水を巻き込みながらネレイダの腕に直撃する。
衝撃に耐えきれず、ネレイダの体勢が大きく崩れた。
「今ですわ、ティファー様!」
アクアリアスの透き通った声が海中に響き渡る。
彼女が紡いだ魔法が水の流れを味方につけ、ティファーの身体をさらに加速させた。
幻影に惑わされ、支援魔法に絡め取られ、俊敏な剣士に押されるネレイダ。
その劣勢は、見る者にも明らかだった。
そして後方では、邪神クトゥルが悠然と指を掲げていた。
「(今のうちに……潮の流れで後ろに下がっておこう)」
心中で密かにそう呟き、潮に身を任せながら、自然に距離を取る。
その顔には微塵も焦りを見せず、あくまで威厳を湛えた邪神の仮面を保っていた。
──演技は完璧だった。
「くっ…」
やがて、ネレイダの動きが、ぴたりと止まった。
その双眸に宿るのは、覚悟。
そして次の瞬間、深海の底から沸き立つような禍々しい魔力が、水中に満ち溢れた。
「──これ以上、貴様らのスキにはさせんっ…海に呑まれるが良いっ…!深淵より溢れ出よ、絶望の渦――『ブルーム・シュトローム』っ!!」
雄叫びと共に、海そのものが咆哮を上げた。
海底がうねり、黒い怒りが渦となって膨れ上がる。
それはただの渦ではない。水圧という名の暴力が、空間ごとすべてを押し潰そうと蠢いていた。
まるで神の怒り。
否、深海を統べる王の力、真なる絶望の奔流だった。
「来ますわ!これは……最大規模の水魔法……っ!」
アクアリアスの声が震え、緊張に濁る。
「皆さま、耐えられませんわ……!」
切迫した警告が仲間たちに響き渡る。
視界が揺らぎ、水の重さが増していくのが肌でわかる。
「(だ、だめだ! このままじゃ……)」
クトゥルの脳内が、危機感で一気にフル回転した。
そして瞬時に、取るべき手段を決断する。
「我が力を解き放つ……出でよっ!『トリニティー・ディザスター』ッ!」
叫びと共に、クトゥルの体から黒い球が3つ出る。その中の1つを手に掴む。
「……来い、マジクッ!」
クトゥルが手を掲げると、球からにじみ出るように、異形の存在が姿を現した。
それは、体全体がねっとりとした緑色の液体でできたスライム。
中央には、不気味に黒曜石のようなコアが浮かび、仄暗い光を放っている。
スライム──マジクの身体が、ぷるぷると小さく震えた。
海流に逆らいながらも、彼はしっかりとその場に留まり、異様な存在感を放っている。
「■▼」
「マジクよ。ディープマーマンの魔力を喰らうのだっ(いいぞいいぞっ!たっぷり魔法を食べてくれっ)」
クトゥルは心の中で叫んだ。
マジクの粘液質の身体が、渦巻く魔力の奔流を吸収し始める。
怒涛の水圧、魔力の塊、そのすべてを貪欲に飲み込み、体内に引きずり込んでいった。
まるで、魔法を喰らう深淵の穴。
触れるものすべてを沈める黒き奈落だった。
ネレイダの放った渾身の大技が、次々とマジクに吸収され、消えていく。
「なっ……これは、まさか……!」
ネレイダの声に、初めて明確な動揺が混じった。
その隙を見逃すはずがなかった。
クトゥルが、鋭く命じる。
「ティファー。行けっ」
「はっ!!」
応える声は凛と響き、ティファーが水を蹴って一気に前へと躍り出た。
その背に、アクアリアスの祈りのような声が重なる。
「ティファーさんっ。わたくしが支援します…」
柔らかな旋律が水を震わせ、ティファーの身体に加護の光が降り注ぐ。
動きがさらに洗練され、刃のごとく研ぎ澄まされた。
ティファーは刹那、手に風を纏い、鋭く叫ぶ。
「裂けよ、旋風の刃――『テンペスト・ブレード』ッ!」
圧縮された風と水の力が合わさり、まさに疾風となって走る。
「はああああああッ!!」
全力で放たれた魔法の刃が、ネレイダの胸元を正確に撃ち抜いた。
次の瞬間、深紅のしぶきが海中に広がり、世界がわずかに染まる。
ネレイダの目が、驚愕に大きく見開かれた。
その瞳の奥に宿ったのは、予想外の敗北への戸惑い、そして……どこか、救われたような安堵だった。
―――
静寂――いや、正確には、わずかな泡と水の震えだけが支配する、重く沈んだ静けさが海中に戻っていた。
先ほどまで荒れ狂っていた殺意の奔流も、怒りに満ちた渦潮も、今や痕跡を残すことなく消え失せ、ただ水底を漂う冷たい光だけが、鈍く周囲を照らしていた。
その中央で、血のような深紅を周囲に滲ませながら、ネレイダの身体がゆっくりと沈んでいく。
「ネレイダ……!」
アクアリアスの声が、かすかに震える。
その表情は、深い悲しみと苦悩に染まっていた。
次の瞬間、彼女は両の手を胸元で重ね、そっと目を閉じる。
そして、祈るように魔力を集中させた。
「…聖なる水よ、天より滴りし清浄の恵みよ。穢れしものを浄め、命に光を与えよ――…『アクア・サンクティス』っ……」
彼女の身体から、静かな波紋が放たれる。
それは聖女の祈りそのものだった。優しく、穏やかで、けれど確かに力強い光を帯びた波が、ゆったりと海中を満たしていく。
淡い輝きを帯びた水流が、ネレイダの沈む身体へと吸い込まれていった。
傷だらけの肉体を包み、癒しをもたらす。
エリザベートが、一歩、彼女に近づこうとした。
だがその時、低く、威厳を孕んだ声が海を震わせる。
「エリザベート…待ってやれ…」
その声には静けさがあった。
しかし同時に、命令としての揺るぎない響きを帯びていた。
水中に浮かびながら、クトゥルは微動だにせず、ただゆっくりとエリザベートに首を振った。
エリザベートは息を呑む。
何かを言いかけたが、それ以上、言葉を紡ぐことはなかった。
悔しげに眉を寄せながらも、彼女は目を伏せ、その場にとどまった。
アクアリアスの祈りに応じるように、癒しの波動がネレイダの傷を包み込む。
裂けた肌が再び繋がれ、止まらなかった血が静かに流れを止め、砕けた骨さえも、ゆっくりと癒えていった。
──やがて、ネレイダのまぶたがわずかに震え、重く閉じられていた瞳が、静かに開かれる。
その視線は、まっすぐにアクアリアスを捉えた。
「……なぜだ……なぜ、俺を生かす……?」
静かに漏れた声には、怒りも悲しみもなかった。
そこにあったのは、ただ理解を拒みながらも、抗いきれない諦観の色だけだった。
「……このまま俺を倒せば良かったんだ…。新たな長の命を遂行する俺を討ち果たし、ここを抜ける…それで済んだはずだ……」
ネレイダの言葉に、アクアリアスは微かに微笑んだ。
けれど、その瞳は揺れていた。
悲しみとも慈しみともつかぬ、深い想いが、彼女の心を滲ませていた。
「……ネレイダ。あなたは、わたくしにとって、兄同然のお方。
幼いころから、いつもそばにいてくださった。わたくしの髪を梳いてくれて、泳ぎ方を教えてくれた……忘れましたの?」
ネレイダの瞳が、大きく見開かれる。
まるで何かを拒絶するかのように、その身体がかすかに震えた。
だが、アクアリアスの声は静かに、そっと重ねられる。
「……ですから、あなたを殺すだなんてこと……わたくしには……」
その声が、震えた。
水流にまぎれるように、アクアリアスの長い睫毛に宿った涙が、海へとそっと溶けていく。
ネレイダは目を閉じた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、アクアリアスの頬にそっと触れる。
「ならば……俺の誇りではなく、貴女の願いに従おう……」
ネレイダの手から静かに渡されたのは、深い青の煌めきを秘めた、涙型の宝石だった。
「…ポセイドン様から受け取った宝石…貴女の手にこそ、あるべきものだ……」
アクアリアスは、両手でそれを受け取り、そっと頭を垂れた。
ネレイダの手はかすかに震えていたが、もはやそこには、敵意の影はなかった。
―――
深海の底、静寂と暗がりに包まれた礼拝堂の中――
アクアリアスの手に渡った《ヒュドラの涙》が、ほのかな輝きを放った。
深い青の煌めきは、周囲の海水を淡く染め、まるでそこだけ別世界のような神聖さを醸し出していた。
だが、その美しさの中に、張りつめた空気が静かに満ちていく。
音もなく、一つの影が前に出た。
それは、赤黒いローブを纏ったエリザベートだった。
深海の闇すら拒むような漆黒の衣は、揺れることなく、彼女の周囲に重く垂れ下がっている。
歩みの一歩ごとに、海流すら押し戻されるかのような威圧が漂った。
「…話は終わったかしら…?」
その声音は、氷のように冷たく、隙間なく研ぎ澄まされていた。
「彼は、私たちの主であるクトゥル様に牙をむいた。そのことは、今さら心変わりを見せようとも、その咎は消えないわ…」
低く、しかし揺るぎない宣告だった。
アーヴァ、ルドラヴェール、ティファーもまた、エリザベートの言葉に呼応するように静かに頷く。
彼らの表情には、迷いも情けもなかった。
ネレイダは、わずかに目を細める。
だが反論することもせず、ただ沈黙の中に身を委ねた。
その時――
アクアリアスが一歩、前へと進み出た。
ピンクのウェーブヘアが水中にふわりと広がり、柔らかな光を受けて、まるで聖女の後光のように輝く。
「……どうか……おやめください。ネレイダは、確かに過ちを犯しました。でも、それは……彼の誇りに基づく行動。殺さないでください、お願いします……!」
震える声。
普段の彼女の高貴な佇まいからは想像もできないほど、切実な懇願だった。
胸の奥から溢れ出る想いが、震える水流に乗って広がる。
エリザベートは、しばしその姿を静かに見つめていた。
感情の見えない瞳を伏せ、深く重く、海中でさえ伝わるため息をつく。
「……クトゥル様、いかがなさいますか?」
静謐の中に、彼女の問いかけが響いた。
瞬間、場の空気が一変する。
すべての存在――仲間たち、敵であった者さえもが、一斉にその視線を向けた。
注がれるのは、神の座に立つ者――クトゥル。
彼は微動だにせず、ただ深き蒼に沈むその瞳で、すべてを見据えていた。
浮世離れした表情。
だが、ただ一対の瞳だけは、誰よりも鋭く、誰よりも深かった。
やがて、ほんのわずかに、彼は首を縦に振った。
「彼は……ただ、与えられた役割を果たしただけだろう。そこに私怨も、野心もない。ならば、罰する理由も……我にはない(仲間は多いに越したことないしな!)」
柔らかく、それでいて天地を支配するかのような響きだった。
誰もが、その言葉にただ耳を澄ますしかなかった。
エリザベートは目を見開き、静かに沈黙する。
アクアリアスは、安堵と感激が入り混じった表情で、思わず口元を手で覆い、胸の奥で小さく息を詰めた。
「クトゥル様…っ」
感極まったように、彼女は小さく呟いた。
隣で、ネレイダもまた僅かに表情を動かす。
驚きとも感動ともつかぬ、微細な震えが、その眼差しに宿った。
「…な、何て慈悲深い方だ…」
己が身に起きた奇跡を、言葉にならぬまま呟く。
そして、彼は深く、深く頭を垂れた。
それはただの礼ではない。
この命を、魂を、すべてを捧げるという、絶対の忠誠を示すものだった。
水中であれ、その動作には一切の迷いがなかった。
「我が主、クトゥル殿……いや、深き混沌の神よ。
その御心、しかと受け止めた。
今後この命は、あなたと、あなたの使徒たちのために尽くしましょう…」
その誓いに、アクアリアスもまた応える。
胸元に両手を重ね、そっと目を伏せながら、静かに告げた。
「わたくしも……出会った時から感じておりました…。
貴方様は、深淵に在りながら、光すら包むお方……」
感極まった祈りのような言葉だった。
その静けさの中、エリザベートが、静かに目を閉じ、吐息を落とす。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……なるほど。ようやく理解いたしました」
彼女の言葉に、場にいた誰もが息を呑んだ。
エリザベートは、静かに、だが確信に満ちた声で続けた。
「杯が満たされていれば、一滴の水も溢れます。
されど、底知れぬ杯ならば、誰の罪も、憎しみも、静かに受け止めてなお揺るがない。
クトゥル様は……そういう御方なのですね」
その言葉を、誰ひとり否定しなかった。
否、誰もが心の底から、それを信じ、受け入れていた。
――誰もが、満たされぬ杯を持つクトゥルに、救われたのだ。