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荒野の魔獣③

ボロンジェの東。


連なる山並みを抜け、幾重にも折り重なる峡谷を越えた先に、ペンラクトと呼ばれる小さな町が、まるで時の狭間に取り残されたかのように佇んでいた。


旅人が携える地図にも、その名は掠れた文字でかろうじて記されているにすぎない。

存在を主張することすら憚るようなその町は、深い霧に包まれた谷間の奥、灰色の空と沈黙に溶け込むようにして、ひっそりと息を潜めていた。


かつては交易の要衝として、幾本もの街道が交わっていたという。


だがそれも今は昔。交通の流れは新たな道に移り、ペンラクトには時代の残り香と、風に吹かれる廃れた鐘楼の音がかすかに漂うのみとなっていた。

苔に覆われた屋根は幾度も雨をしのぎ、窓辺には蜘蛛の巣が張られて久しい。


朝になると、重たく湿った霧が町全体を包み込み、遠くの鐘の音さえ霞んで響く。


そんな町で、人々は慎ましく、静かに日々を営んでいた。

街道を通る商人も少なくなり、ましてや武具に身を包んだ冒険者など、年に一度見るかどうかという有様だった。


だが、その日。


重い靄が地表を這うように漂う朝。


石畳の通りの中央、老朽しかけたギルド支部の掲示板の前に、珍しくも若き冒険者たちの姿があった。


彼らの影は三つ。


霧の帳に沈みながらも、それぞれの胸に秘めた決意が、まるで灯火のように淡く確かに輝いていた。


「お…?」


最初に声を上げたのは、三人の中で最も前へ出ていた青年――ロイだった。


朝霧の中、霞む石畳の上に立つ彼の姿は、どこか危うい光を孕んでいた。


炎を思わせる赤毛をひとつに束ね、肩には鋼製の鎧を軽く掛けている。

その身なりは武骨さと若さを併せ持ち、そして何より、瞳に映るものが現実でありながらどこか現実を見ていない、そんな不安定な輝きを宿していた。


「なぁなぁっ…これ……見ろよっ」


彼の手にあったのは、一枚の羊皮紙だった。


掲示板から剥がしたばかりのそれを掲げると、薄明の霧に赤い文字がにじむ。


《ティグリス・グラディウスの討伐》


死者の荒野に現れる魔獣。

鋼のような毛並みと、刃のように研がれた牙を持ち、出会った者の魂を砕くとまで語られる存在。


討伐に成功した者など存在せず、数多の武勇伝や噂話の中で語り継がれている伝説の名だった。


「ちょ、ちょっと……冗談でしょ…?」


かすれた声が霧の中に震えた。


発したのはミナ。彼女は驚愕を隠しきれない様子でロイに駆け寄る。


くすんだ金髪を肩で一つに結い、茶色の革装備に身を包んだ姿は、まさに俊敏さと軽快さを重視した戦闘スタイルを物語っていた。


腰にかかる弓は使い込まれ、ところどころに傷があったが、それは年月を経ても変わらぬ信頼を持って使われてきた証でもある。


彼女の目は依頼書に注がれ、すでに警戒と不安の色を帯びていた。


「それ、ゴールドランク以上の依頼じゃん。…私たちはまだブロンズの中でも下位なの。却下されるだけだって…」


その言葉に、三人目が肩を揺らして苦笑した。


ゲル。


肩まで伸びた水色の髪を無造作に流し、その片目を長い前髪で隠している。

ローブの裾から覗く指先には、淡く揺らめく魔力の痕跡が漂っていた。

その力は未だ発展途上でありながら、密やかに、確実に燃えていた。


彼の目元には常にどこか冷めた色があったが、それは決して仲間を突き放すものではない。


むしろ、最悪の事態を想定し、全てを背負う覚悟を持つ者だけが持ちうる色だった。


「受付で恥かく前に、火でもくべようぜ。」


淡々と呟く声には諦念と皮肉が滲む。


だが、それは臆病から来るものではなく、現実を見てきた者の静かな警告だった。


だが、ロイはふたりの反応を無視するように、依頼書を握る手を強めた。


「……でも、もしも、これを倒せたらどうなる…?」


その問いは、ただの空想ではなかった。

まるで誰かに、いや、自分自身に問いかけるような声音だった。


「俺たちの名前が載る。あのグラディウスを仕留めた三人組って。ランクも一気に上がるし、誰も俺たちを笑えなくなるぜっ」


その言葉に、ミナが冷たく返す。


「……誰かに笑われたこと、根に持ってるのね?」


どこか呆れたようで、それでも哀しみを含んだ声音だった。

彼女にとって、仲間の焦りは痛いほどわかる。それでも、現実は厳しい。


ゲルは肩を竦め、目を伏せる。


「夢を見るのはいい。でも、その夢が骨になって風にさらされてたら、誰も褒めちゃくれないよ。」


だが、ロイは何も答えなかった。

ただ、足を踏み出し、まっすぐにギルド支部の扉へと向かう。


彼の背は霧の中に沈みながら、それでも揺らぎはなかった。


古びた扉を押し開け、そのまま迷いなく受付の前へと進む。


手には、赤く魔獣の名が刻まれた依頼書。

それを差し出す彼の手は、震えてなどいなかった。



―――



ギルド支部の受付カウンター。


そこにいたのは、年老いた受付係だった。

痩せた体躯を古びた椅子に預け、眉間に深い皺を刻んだまま、淡々と業務をこなしている老職員だ。


ロイが差し出した依頼書を手に取るや否や、その顔に苦い表情が浮かんだ。


老眼鏡を掛ける間もなく、視線だけで内容を読み取ると、低く、冷ややかな声が放たれる。


「悪いが、それは君たちのランクじゃ受けられん。規定にある通り、ゴールド以上が対象だ。返しなさい。」


その一言は冷たく、しかし理路整然としていた。

ロイはなおも食い下がろうと、身を乗り出して何かを訴えようとしたが、老職員の態度は微塵も揺るがなかった。


当然だった。


ティグリス・グラディウス――

それは歴戦の冒険者たちですら命を落とした魔獣であり、伝説の名を欲しいままにしている怪物だった。


ギルドとしても、若輩の命を無駄にすることなど許されない。


老職員は長年その命の選別をしてきた。彼にとって、夢と無謀は切り分けるべきものだった。


依頼書は無言のまま奥へと回収され、鉄の扉が無情に閉じられた。


音が止むと同時に、ギルド支部にはまた日常の静寂が戻った。




―――



その夜、ロイは部屋の明かりも灯さず、静かに荷をまとめた。

誰にも言葉をかけなかった。言えばきっと、引き止められることを知っていたからだ。


木製の戸棚から食料と水袋を取り、鞘に納めた剣を背に背負う。


革のブーツを固く締め、肩鎧の留め具を確かめるその手には、迷いはなかった。


夜明け前。

灰色の霧が町全体を包み込む頃、ロイは誰にも告げず、ペンラクトの外門を抜けた。


向かう先は――死者の荒野。


呪われた地と呼ばれるその場所は、風すら死んだように沈黙し、かつての文明の骸が朽ち果てた無法地帯。


それでも彼は、ただ己の誇りだけを携えて、歩き出した。


「馬鹿だわ、本当に……!」


明け方、ロイの不在に気づいたミナは舌打ちとともに、革の鞄を乱暴に肩へ引っ掛けた。

髪を手早く結び直しながら、窓の外――霧に霞む道を睨みつける。


その背後では、すでにゲルが静かに杖を持って立っていた。

旅装をすでに整え、何も語らず、ただその時を待っていた。


「止めに行くよ。あいつ、まっすぐ行って真っ直ぐ死ぬタイプだ。」


呆れと諦めが混じった口調に、ミナは何も返さなかった。

ただ黙って頷き、足元のブーツをしっかりと履きなおす。


そして、三人目の足音が石畳を踏み鳴らす。

霧に沈む町の朝に、小さな決意の音が響いた。


ペンラクトは、再び静寂を取り戻した。


低く垂れ込めた灰の霧は、何もかもを覆い隠し、また日常に戻ったかのように見えた。


だが、その霧の向こうで、確かに何かが蠢いていた。


それが若き冒険者たちの名誉となるか、あるいは新たな死の記録となるのか――

それはまだ、誰にも分からなかった。




―――




死者の荒野――


名の通り、死を孕んだ風が吹き抜ける不毛の地。


いにしえの戦場であり、今なお誰も寄りつかぬ呪われた大地。


草一本すら生えず、崩れた墓標と焦げた岩の連なりが、凍てついた時間の中に佇んでいる。


そんな荒野の只中を、ひとつの影がゆるやかに進んでいた。


それは、獣の姿をしていた。


だが、ただの獣とは違う。

その風格、その足取り、その眼差しには、もはや畏怖すべき存在としての威厳があった。


赤い体毛と黒い縞模様が夜に溶け込むように揺れる魔獣――

名を、ルドラヴェール。


風を裂くようにしなやかに、しかし砂を踏みしめる足取りは重く確かで、まるで荒野そのものが道を譲っているかのようだった。


その背には、ふたりの影があった。


ひとりは、静かな気配を纏う女。


深紅の瞳の奥には、底知れぬ静寂が横たわっていた。


名は――エリザベート。混沌のローブを身に纏い、風にその布を揺らす姿は、時に霧よりも冷たく、時に夜そのもののように艶やかだった。


そしてもうひとり。

異様な風貌をした青年――クトゥル。


その存在は曖昧で、見る者によって像を変える。


人間と見える者もいれば、神とも、それ以外の何かと感じる者もいる。

定義を拒むその姿は、理解の範疇から外れた、異界の存在だった。


その三つの影は、言葉も交わさず、ただひたすらに死の大地を横断していた。


時間だけが過ぎ、やがて風の流れがわずかに変わる。


ルドラヴェールが足を止めたのは、その瞬間だった。


巨大な鼻先が空気の微細な変化を捉え、目を細めて周囲を見回す。

遠く、天の月が天頂を越え、夜の深みがいっそう濃くなる頃――


「ルドラヴェール。疲れただろう。エリザベート。ここで休むぞ(ルドラヴェールおつかれー)」


クトゥルの低い囁きが、冷えた夜気に沈み込むように響いた。

エリザベートはその言葉に少し遅れて頷く。


その動作は儀礼にも似て、まるで答えが決まっていたかのような自然さだった。


「クトゥル様の導きのままに。」


その声に応えるように、ルドラヴェールは短く鼻を鳴らし、視線の先の岩陰へと身を寄せる。


膨らんだ胸元が上下し、ゆっくりと地面へ横たわるその姿は、まるで静かな焚き火のようだった。


分厚い体毛の奥からわずかに漏れる体温は、凍える冬夜にあって、確かな温もりを地に伝えていた。


クトゥルはためらうことなくその巨体の脇に腰を下ろし、背を預けた。

そこには異物感も警戒もなく、ただ自然に、馴染むように。


背に感じる振動。


鼻をくすぐる、鉄と砂が混じったような野性の匂い。

それらは理屈を超えて、彼の内に奇妙な安堵を与えていた。


「(おぉ…流石、獣だ。温かい…)」


心の内で呟きながら、クトゥルは仰ぎ見た。


頭上に広がるのは、呪われた夜の天。

星々はひとつも瞬かず、月は病んだように傾き、空気さえも死の気配を孕んでいる。


だがクトゥルの瞳には、それすらもどこか、美しいものとして映っていた。


ルドラヴェールの体温が背に残る夜の静寂の中で、エリザベートはふと目を細めた。


揺れる焔のような髪が月光に淡く照らされ、その横顔にかすかな陰影を落とす。


彼女の瞳はじっと、クトゥルを見つめていた。


物思いにふけるように空を仰ぎ続けるその横顔は、どこか遠い世界のもののように思えた。


そして次第に、彼女の視線は意識せずして彼に寄っていく。


それは無自覚な動作だった。だが、抑えようのない想いの滲みが、言葉として形をとった。


「……私だって、クトゥル様を支えることは――」


その声には、わずかな拗ねが含まれていた。

冷たくも艶やかな彼女の声音にしては珍しい、柔らかな棘。


だが、クトゥルはそれに気づかなかった。

彼の眼差しは夜空に注がれたまま、地上の想いには触れぬまま。


その時――


風が、止んだ。


いや、正確には吹き続けている。


ただ、その流れの中に、異なるものが混ざったのだ。


空気の皮膜を裂くような、微かな侵入者の気配。

まるで静謐な水面に石を投げ入れたような、微細な波紋。


エリザベートの瞳が即座に鋭さを帯びる。


彼女の体がわずかに前へ傾き、ローブの裾が風に翻った。


「グル…」


ルドラヴェールの喉が、低く唸った。

その響きは、遠雷のように地を震わせる予兆。


「……誰かが来るわね。」


「アァ…」


エリザベートの声は静かでありながら、刃のように鋭かった。

その一言が、夜気を断ち切るように空間を裂いた。


クトゥルは最初、それを夢の中の残響のように受け止めた。

風の音か、焚き火の唸りか、それともただの幻か――


しかし、次の瞬間。ルドラヴェールの巨躯がわずかに緊張し、腹部の筋肉がぴくりと震えた。

クトゥルの背中に、その動きが確かな振動として伝わってきた。


「(え……え? 何だ?)」


意識が現実に引き戻され、彼はようやく周囲を見渡す。


すぐに、空間に異様な気配が張り詰めていることに気づいた。


闇の帳の奥――

月明かりがわずかに崩れた岩陰を照らした、その時。


三つの影が姿を現した。


それは、まだ若い――いや、あまりにも若すぎる――冒険者たちだった。


立ち姿には未熟さがありありと滲んでいた。


鎧は手入れが行き届かず、鈍くくすんでいる。


足元を見れば、片方の革靴は既に裂けかけ、旅の過酷さをそのまま物語っていた。


手にした剣は鞘と合っておらず、抜き差しすらぎこちない。


先頭に立つのは、赤毛を後ろに束ねた若き戦士。


名はロイ。焦りを隠すように剣を強く握るが、その力みがかえって未熟さを際立たせていた。


その隣には少女がいた。ミナ。


弓を構えるその手元には躊躇があり、細い肩が緊張で硬くなっている。

目は警戒を宿しながらも、不安が隠しきれていなかった。


そしてやや後方、ひとり控えめに立つ魔法使い。名はゲル。


長い杖を両手で抱え、その指先はかすかに震えていた。


恐怖を押し殺しながらも、ここに立つという意志だけは確かに感じさせる者だった。


三人の視線は、一直線にルドラヴェールへと注がれていた。


それは、敵意とも畏怖ともつかぬ複雑な色を宿していた。


まるで巨大な獣を獲物と定めようとする勇気と、理性がそれを否定する恐れが綯い交ぜになっている――

そんな、矛盾した表情だった。


荒野に、新たな波紋が広がり始めていた。






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