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深海の地③

「……では、アブゥ・サの元に再び、向かうとするか…(エリザベートは、ユ=ツ・スエ・ビルに戻りたいって言ってるから率先して戦ってくれるだろうっ…)」


静かながら、底知れぬ威厳をまとって、クトゥルは低く言葉を紡いだ。

その声音は、海の静寂を切り裂く刃のように、確かに一行の胸に届く。


彼の背後では、エリザベートがわずかに目を細め、静かに頷いていた。

彼女の瞳には、目的地に帰るという鋭い決意が宿っている。


「(……やはり、エリザベートなら頼れる。この戦い、彼女も本気で挑んでくれるはずだ…本当は行きたくないけど…)」


内心でそっと安堵するクトゥルだったが、その表情には微塵の揺らぎもない。


そして、一行はそれぞれ、静かに、だが確かな意志を胸に歩みを整え始めた。


その言葉に応じるように、エリザベート、アーヴァ、ルドラヴェール、ティファーらも、慎重に体勢を整える。


彼らの眼差しは一様に前を向いていた。

目指すは、アブゥ・サたちが拠点とするサンゴの領地――かつて栄えた、海中の神殿のような場所。


だが、その決意は、思いもよらぬ一言によって打ち砕かれた。


「…クトゥル様…あいにくですが…それは叶いません…」


静かに、澄み渡る声で告げたのは、アクアリアスだった。


波打つピンク色の髪が、水の流れに優雅に揺れ、

彼女はゆっくりと首を横に振った。


その表情には、気高い誇りと、消し難い哀しみが同居していた。


「サンゴの領地は、すでに……アブゥ・サによって海に呑まれてしまいました。かつての道も、拠点も、今はもう、深き海の底に沈んでおりますわ…」


静寂の中に、微かなざわめきが走る。

ぴりぴりとした潮の香りが、ここが地下であるにも関わらず、肌を湿らせた。

それは、滅びた領地が最後に吐き出した、か細いため息のようだった。


「……なら…どうするのかしら…?」


エリザベートが、冷たく、鋭い声で問いかける。

その双眸は、微塵の動揺も許さない。


アクアリアスは両腕を使い、静かに一歩、二歩と進み出た。


そして、苔むした石壁の一部に、そっと手を伸ばす。


指先が押し出したのは――誰も気づかなかった、小さな鉄の扉だった。


錆びつきかけたその表面には、うっすらと古びた海の紋様が刻まれている。


「――裏道がございます。秘密の抜け道ですわ。かつて使われた古き航路。しばらく海に潜ることになりますが、それしかありません…」


その言葉に、一行はしばし沈黙した。


眼前の扉の向こうに待つものを思い、互いに視線を交わし合う。


「ん…?(ちょっと待てよ…)アクアリアスよ。一つ良いか…?」


「はいっ…」


アクアリアスは答えながら、水辺の岩場に膝をつき、頭を垂れた。


その所作には敬意と忠誠、そしてどこか安堵の色が滲んでいる。


だが、クトゥルの表情に浮かぶのは、単なる快諾の笑みではなかった。

彼女を助けるという決意は固い。だが、問題が一つあったのだ。


「しばらく潜ると言ったな…どのくらい潜るつもりだ…?」


静かな声で、クトゥルが問いかけた。


その響きは海中を震わせ、青い闇に溶けていく。

彼の顔にはまだ余裕があったが、その瞳の奥にわずかな警戒の光が宿る。


アクアリアスは小さく首をかしげ、頬にそっと指をあてる。

その仕草はどこか可憐で、だが水底の王族らしい優雅さも滲んでいた。


しばらく思案するように目を伏せた後、彼女はふわりと声を発した。


「そうですわね…わたくしは数分で移動できるとなると、クトゥル様たちは…15分ほどかかりますわ。」


その答えを聞いた瞬間、クトゥルは心の中で盛大に頭を抱えた。


「(15分も潜るのか……無理だろ、普通……!)」


だが、表面上は完璧なまでに無表情を保つ。


「15分間潜るとなると…我はともかく、ティファーたちは、呼吸が出来ん…そこはどうする…?」


その指摘に、エリザベートたちは小さく「あっ」と息を漏らす。


確かに、どれほど魔力に秀でようとも、どれほどの武技を誇ろうとも、呼吸という生理現象だけは、誰にでも等しく限界がある。


常人であれば数十秒、鍛えた者でもせいぜい数分。

長い距離を泳ぐには、明らかに不足している。


「(俺は息止めるの1分もできないから…そこん所よろしくっ!)」


クトゥルが心の中でぼやく。

水の中での行軍が、彼らにとってどれほど過酷であるかは想像に難くない。


それは、たとえ異形の存在であるクトゥルとて、例外ではなかった。


だが――。


その一方で、アクアリアスはまるで心配無用とばかりに、口元に余裕の笑みを浮かべていた。


濡れた髪が頬にかかるのも構わず、彼女はゆっくりと顔を上げる。


その笑みには、すでに備えがある者の自信が宿っていた。


「わたくしに考えがあります。皆さま…動かないで下さい…」


アクアリアスは静かに告げると、ゆっくりと瞼を伏せた。


岩場に反響する波の音すら遠ざかるように、彼女は深く呼吸を整える。


次の瞬間、彼女の口から、透明な水のように澄んだ歌声が紡ぎ出された。


「…(おぉ…良い声…落ち着くなぁ…)」


心に直接触れるような、どこか懐かしく、安らぎに満ちた旋律だった。

自然とクトゥルたちの瞼は閉じられ、その歌声に身を委ねる。


そのときだった。

ふわりと、彼らの全身を何か温かなものが包み込む感覚が広がった。


「っ!?何だっ…これはっ!?」


ティファーが身構え、鋭く周囲を見回す。


「くっ…やはり罠じゃったかっ!?」


アーヴァもまた、小柄な体を跳ね起こし、拳を握りしめる。

だが、すぐに落ち着いた声が二人を制する。


「…落ち着きなさい2人とも…大丈夫よ…これは、ポセイドンの魔法と同じね…」


エリザベートだった。


静かながらも強い確信に満ちたその声に、ティファーとアーヴァは戸惑いながらも動きを止める。


「(ほっ…一瞬騙されたと思ったけど、エリザベートが言うなら大丈夫だろう…)」


内心、鼓動が早まっていたクトゥルも、その言葉に救われるように呼吸を整えた。


そんな彼らに向かって、アクアリアスは柔らかな微笑みを浮かべながら説明する。


「エリザベートさんの言う通りです。わたくし、そしてお父様の魔法です。その膜の中にいる限り、海の中でも呼吸が可能です。」


歌うように優しく告げる彼女の声に、クトゥルは思わず心の中で歓声を上げた。


「…(うおっ…めっちゃ便利じゃんっ…)」


未知なる海の中への旅路に、一筋の光が射し込んだ瞬間だった――。




―――




魔法の膜が優しく身体を包み込み、クトゥルたちはまるで陸上を歩くかのように、ゆったりと海中の道を進んでいた。


水の抵抗もなければ、呼吸も普段と何一つ変わらない。


周囲を満たすのは、深い蒼と静寂だけだった。


わずかに身を預けるだけで、身体がふわりと浮き上がる。


そんな不思議な浮遊感を感じながら、彼らは一列になって進んでいく。


「皆さま。足元にお気をつけ下さい」


その先頭では、アクアリアスが、ひらりひらりとピンク色の尾ひれを優雅になびかせながら、軽やかに泳いでいた。


水の中に溶けるような身のこなしは、まるで一輪の花が流れに任せて舞っているかのようだった。


「このまま進めば……渦の王座ですわ。アブゥ・サの居所もすぐ近くです……」


アクアリアスの声が、水泡のように小さく震えながら伝わってきた。


その声音には、確かな覚悟と、微かな緊張の色が滲んでいる。


一行の中で、真っ先に反応したのは、鋭い感覚を持つルドラヴェールだった。


警戒するように首を巡らせ、エメラルドグリーンの瞳で周囲を鋭く睨む。


「ン…?アレハ、何ダ…?」


ルドラヴェールの尾が何かを指す。

彼の指し示す先に、青白い光の壁が現れた。


それは水の中に忽然とそびえ、まるで生き物のように波打っている。


柔らかく揺れながらも、確かな威圧感を放ち、近づく者を拒絶しているのがはっきりとわかる。


それはまるで、目に見えぬ手が、歩を進める彼らを拒むかのような感覚だった。


ぴたり、とアクアリアスが足を止める。


彼女のウェーブのかかったピンクの髪が、ふわりと宙を舞った。


「…これは、結界です」


優雅な声が、闇の中に響く。


前方を見やれば、そこには確かに「壁」が存在していた。


視覚には映らぬ。だが、肌を刺すような微かな魔力の流れが、それが単なる空気ではないことを教えている。


結界魔法。


この場所を、外界から完全に断絶していた、古き護りの術式。


「結界…?」


ティファ―が訝しげに眉をひそめる。


だがアクアリアスは、ひとつ微笑み、静かに胸に手を当てた。


「わたくしの父が張った結界ですわ。侵入者を拒み、ディープマーマンを護るために……けれど今となっては、わたくしたち自身がその門をくぐるべき存在なのですもの」


そう言うと、彼女はそっと目を閉じた。


そして――静寂を破るように、柔らかな歌声が響いた。


それは、潮騒のように優しく、夜の海の底を漂う月明かりのように淡い旋律。


異国の古き言葉で紡がれたその歌は、結界の魔術式と共鳴し、空気を震わせた。


「ほぉ…良い声じゃ…」


「グル…」


青白い光が、蜘蛛の巣のように広がり、やがて――

バチッ、と小さな音を立て、空間が裂ける。


見えなかった「壁」が、ゆっくりと霧散していった。


「……すごい」


思わずティファ―が息を呑む。


クトゥルもまた、じっとアクアリアスを見つめた。


彼女の歌には、単なる術式の解除を超えた「想い」が宿っていた。


それは、失われた民を悼み、護ろうとした父の意志を、たしかに引き継ぐものだった。


「これで……進めますわ」


アクアリアスが、そっと微笑み、手を差し伸べた。

彼女の指先の向こうに広がるのは、さらに続く深い地下回廊。


ほんのわずかに、潮の香りが鼻をくすぐった。


クトゥルたちは再び歩みを整え、無言のままその闇へと踏み込んでいった。



―――



長く続く石造りの回廊を、クトゥルたちは慎重に進んでいた。


壁は古び、潮に洗われた跡があちこちに残り、苔と海藻がしっとりと這っている。


かつては人の手で整えられたであろうこの道も、今では海の侵食を受け、自然に呑み込まれようとしていた。


そんな中、クトゥルは歩きながら問いかけた。


「……あと、どれほどで、アブゥ・サのもとへ辿り着ける?(まぁまぁ歩いてる気がするんだけど…)」


彼の声は堂々と静かだったが、内心は不安が混じっていた。


この旅の終着点に近づいていることを、肌で感じていたからだ。


アクアリアスは、一瞬だけ立ち止まり、ピンク色の髪をそっと揺らす。

そして、静かに首を振った。


「いいえ、クトゥル様。まだですわ。この先には、ひとつ……越えなければならない場所がございます」


クトゥルは眉をひそめ、アクアリアスを見つめる。


アーヴァもルドラヴェールも、無言で耳を傾けた。


「この回廊の先にあるのは、かつて……ディープマーマンが祈りを捧げた礼拝堂があります。今は長い年月で海底に沈んだため、誰も居ないはずですわ…」


クトゥルは小さく息を吐き、静かに宣言した。


「ククク、我の神威を見せれないとは、残念ではあるな…(よしよし…戦闘はないみたいだな…!)」


残念がっているクトゥルだが、その足は軽快だった。


彼の背後で、エリザベートが微笑を浮かべる。


その瞳には、真祖の吸血鬼らしい、冷ややかで力強い光が宿っていた。


アクアリアスは、そっと先導するように一歩を踏み出す。


その背中を追い、クトゥルたちもまた、深き闇と潮の気配が満ちる礼拝堂へと向かっていった。


沈んだ礼拝堂――


かつて神に祈りを捧げた聖域は、今では朽ちた骸となり、静かに深海の闇に沈んでいた。


石で造られた太い柱は、もはや傾き、黒ずんだ砂に半ば飲み込まれて、無惨な姿をさらしている。


苔や貝殻に覆われた数多の彫像たちが、かつてここに満ちていた熱心な信仰の名残を、ぼんやりと伝えていた。


礼拝堂の中央には、崩れかけた祭壇がぽつりと残っていた。


その上には、ひび割れた聖杯や、今にも崩れ落ちそうな燭台が転がり、打ち捨てられたまま、時間の流れに沈黙している。


天井はとうに崩れ落ち、遥か上方からわずかに差し込む光が、青く揺れる海中に不思議な影を落としていた。


漂う砂塵は視界を曇らせ、潮の香りに似た、どこか哀切な空気が満ちていた。


かつてここに響いていた祈りの声も、讃美の歌も、今では波のささやきにかき消され、ただ静謐だけが支配している。


そのすべては、過ぎ去った時代の残滓――滅びの証として、なおもこの海底に残されていた。


「っ…皆さまっ…止まって下さい」


アクアリアスの声が、静寂を破った。

水中にたゆたう彼女の姿が、ぴたりと止まる。


「ん…? どうしたんじゃ…?」


首を傾げながら、アーヴァが問いかける。

その声は警戒しつつも、どこか好奇心を滲ませていた。


だが、アクアリアスは答えず、ただじっと前を見据えていた。


彼女の真剣な眼差しの先――そこには、一つの影がクトゥルたちを待ち構えていた。


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