深海の地②
サンゴの領地からの撤退を決めたクトゥル一行は、静かに外へと歩みを進めていた。
潮の流れは徐々に穏やかさを取り戻し、複雑な水圧の変化と共に広がる洞窟の出入口が、再び静寂の海に溶け込んでゆく。
彼らが辿り着いたのは、海と陸とが交わる境界線――潮の干満によって姿を変える、浅瀬の泉だった。
岩場に囲まれたこの場所は、満潮時には完全に水没し、今こうして姿を見せているのはほんの束の間の奇跡のようにも思えた。
「セレナータ・ルートが閉じられた今…ユ=ツ・スエ・ビルには行けないか…(よしよし!これで一安心だ)」
クトゥルは残念そうに呟くも、その内心は正反対。
表情こそ冷静を装っていたが、心の奥では全力でガッツポーズを決めたい衝動を必死に押し殺していた。
「陸路が通れないなら、やはり海からですかね。」
ティファーが口元に指を添え、思案顔で水面を見つめる。
視線は水平線の彼方を追い、代替案を探ろうとしていた。
「グル…海ナラ…船ガイル。ダガ、船モナイ。船乗リモイナイトナルト…」
低くうなるルドラヴェールの言葉に、淡々とした現実の壁がのしかかる。
「…ここまでかの…」
アーヴァの声には諦めの色が滲み、尾ひれがわずかに力なく沈む。
だが、ただ一人、諦めることを知らぬ者がいた。
「…ダメよ…絶対クトゥル様をユ=ツ・スエ・ビルに…連れて行くわっ…そして、私と一緒に暮らすのっ」
エリザベートの瞳は、まるで氷の刃のように鋭くも、どこか切実で。
その強い想いが声に込められ、空間を震わせた。
「…仕方ないわ…船乗りを殺して船を奪――」
物騒な提案を口にしようとしたその瞬間――
「……お待ちください。」
透き通るような女性の声が、泉の水面を震わせるようにして届いた。
その声は、静かでありながらも確かな意志を孕んでいた。
氷のように冷たくも、火のように強い。そんな不思議な温度を持っていた。
クトゥルたちが一斉に振り向くと、そこには――
水面から半身を覗かせた少女の姿があった。
年の頃は十八といったところだろうか。
肩にかかるピンクのウェーブヘアが、微かな波に乗ってふわりと揺れる。
その髪はまるで海中の珊瑚が朝日に染まったような、柔らかで淡い色合いだった。
透き通るように白い肌が、月光のように神秘的な光を帯びている。
ただ、人間ではなかった。
ピンク色の尾ひれが優雅に揺れ、まるで彼女の感情を映しているかのように波紋を描いていた。
少女は、まるで祈るように手を胸に添えながら、真っ直ぐこちらを見つめていた。
「あなたが……邪神クトゥル様……なのですか?」
その問いかけに宿るのは、恐れでも敵意でもなかった。
それは――どこか哀しみを滲ませながらも、確かな決意を込めたものだった。
深く、静かに、水の底から差し出されるような、そんな声だった。
「…グル……誰ダ?」
低く唸る声と共に、ルドラヴェールが鋭い眼差しで少女を睨みつけた。
その巨躯がわずかに前に出るだけで、周囲の空気が一段と張り詰める。
「敵かっ!」
ティファーの声も緊張を帯びていた。
右手はすでに腰の剣の柄に伸びており、いつでも抜刀できる構えを取っている。
その様子に、クトゥルの胸が一瞬、きゅっと縮まった。
「(て、敵…?け、けど、ここで、頷かないと威厳が損なう…)」
恐れと葛藤が内心を駆け巡る中、クトゥルは表情を崩さぬままゆっくりと腕を組み、堂々とした声で名乗りを上げた。
「ククク…その通り…我はクトゥル=ノワール・ル=ファルザス!混沌の邪神である!」
心の中では今にも膝をつきそうなほど怯えていたが、その姿は一切それを感じさせなかった。
対する少女は、その威圧感にも怯むことなく、水面に身を浮かべたまま、慎ましく胸元に手を添えた。
「申し遅れました…わたくしの名はアクアリアス。魔族ディープマーマン――マーレ・シレーナです…」
その名乗りに、一瞬、場が静まる。
「まーれ・しれーな…?」
首を傾げるクトゥルの反応に、隣のエリザベートがそっと目を細めて補足する。
「ディープマーマンのメス個体です。ちなみにオス個体は、ディープ・ギルとなります…」
「…ふむ(おぉ…なるほど)」
納得したようにクトゥルがうなずくと、視線を再びアクアリアスへと戻す。
水面に揺れる陽光が、彼女の瞳をかすかに照らしていた。
その赤い瞳は深く、静かに揺らめいている。
そこには、数え切れぬ時を潜ってきた者にしか宿らぬ、深い悲しみと覚悟が滲んでいた。
「わたくしは…クトゥル様に、どうしてもお会いしなければなりませんでした。どうか、少しだけ……お時間をいただけませんか?」
その声は、水面に漂う波紋のように静かで、しかし確かに心へと届く力があった。
彼女の姿そのものが、まるで海という存在が感情を宿して言葉を発しているかのようだった。
そして、波の間に一瞬、静寂が流れる。
「(敵意はないし…ま、いっか…)」
クトゥルは、しばし彼女を見つめたのち――
「良かろう…」
ただ一言、小さく、しかしはっきりと頷いた。
それは、深海のように静かで、それでいて世界を動かす重みを持つ返答だった。
クトゥルの了承を受けたアクアリアスは海から頭を下げる。
「…っ…こちらへ。誰にも聞かれぬ場所をご案内します…」
アクアリアスが静かに告げると、波間に背を反らせて身体を滑らせるように翻した。
その動きは優美で、静かに漂うその背中に導かれるようにして、クトゥルたちは彼女の後を追った。
港から少し離れた場所――断崖の下に、潮が引いたときにだけ現れる入り江があった。
そこは、陸からも海からも目立たず、波と風の音だけが支配する隠れた空間。
人の手が及ばない岩の洞は、自然がひそやかに作り出した聖域のようだった。
狭く不安定な岩場を慎重に進みながら、彼らは誰にも見つかることのないその入り江へと足を踏み入れる。
「ほぉ…良くこんな場所を見つけてみたものじゃ…」
アーヴァが目を丸くし、感嘆の声をもらす。
岩の隙間から差し込む陽の光が、水面を細かく揺らし、天井に幻想的な模様を描いていた。
「……父が、幼い頃よく連れてきてくれたんです。ここは、深海と地上をつなぐ中間のような場所。」
アクアリアスは海面に身を浮かべたまま、振り返ってそう語る。
言葉とともに、その姿が静かに揺れる波と一体化するように美しく、そして儚げだった。
肩まで届くピンクの髪が水面を撫でるように広がり、赤い瞳が深い水底のような静けさを宿して輝く。
「ここなら、話せます。……わたしのことも、亡き父のことも…」
彼女はやがて、水面を蹴るようにして飛び上がると、入り江の端に突き出た岩の上に腰を下ろした。
その下半身は、光を受けて淡く輝くピンク色の鱗に覆われ、しなやかな尾ひれが時折小さく揺れ動いている。
クトゥルたちは、アクアリアスの言葉に黙ってうなずき、彼女の正面へと腰を下ろした。
潮の香りと波の音が、耳の奥でさざめくように響く。
まるで時が止まったかのような静けさの中、アクアリアスは静かに息を吸い込むと――
目を閉じ、深く、遠い記憶の底へと心を沈めていった。
アクアリアスは、静かに目を開けると、波に揺れる髪をそっと耳にかけた。
岩に腰を下ろしたまま、潮風を胸いっぱいに吸い込む。そして、凪いだ海のような声で、ゆっくりと語り始めた。
「改めてわたくしは、アクアリアス。この海を、そしてセレナータ・ルートを管理していた亡き父ポセイドンの娘です…」
その言葉には、深い悲しみと失われた誇り――そして、それらを押し隠すような、微かな怒りが滲んでいた。
水面のきらめきが彼女の瞳に揺らめき、訴えるような眼差しが一行の胸に静かに染み込んでいく。
「まさか…貴女がポセイドンの娘…」
エリザベートが息を呑み、驚きを隠しきれないまま声を漏らす。
その美貌に、かすかな陰が差した。
アクアリアスは静かに目を伏せ、小さく頷いて言葉を継いだ。
「でも、今の海は……父ではないディープマーマンが支配しています。その名もアブゥ・サ。彼は、父ポセイドンを殺し、その座を奪って長に収まった。…」
言葉のひとつひとつが、まるで沈んでいく海底のように重く、暗い。
風がそっと吹き抜ける中、クトゥルは顔に出すまいと努めながらも、心の中で思わず顔をしかめた。
「(マジか…暗そうな話になって来たな…)」
アクアリアスの声が、再び波に溶けるように響いた。
「さらにアブゥ・サは、ユ=ツ・スエ・ビルにいる主の命令を受け、クトゥル様方を阻んでいるのです…」
エリザベートが目を細め、唇をきゅっと結んだ。
「ユ=ツ・スエ・ビルの主とやらに従った現長のアブゥ・サが、この海、そしてセレナータ・ルートを管理していると……?」
「ええ。だから、あなた方を通すわけがないのです…」
アクアリアスは、尾びれで水面をゆるやかに打ち、小さな波紋を広げながら、そっとクトゥルを見つめる。
その瞳の奥には、決意とも懇願ともつかない、切実な想いが宿っていた。
「わたくしはアブゥ・サが許せない。父を亡き者にし、海を支配する存在に…でも、わたくしには、アブゥ・サたちと戦える力はありません…わたくしには力がない。だから……お願いです。どうか、父が守りたかったものを取り戻す手助けを――」
その声は、まるで深海から湧き上がる祈りのように、静かに、確かに空気を震わせた。
誰も言葉を返せず、沈黙が辺りを包む。
打ち寄せる波が、岩肌にそっと触れ、引いていく。
海風が、岩の洞窟を優しく撫でるように吹き抜ける。
その風に髪を揺らしながら、アクアリアスはふっと瞳を伏せ、ゆらりと揺れる尾ひれを静かにたたんだ。
水面に身を預けながら、ほんの少しだけ距離を置くように後ろへ退く。
「……ごめんなさい。…取り乱してしまいましたわ…」
その声音には、抑えた感情と共に、自身を律するような静けさがあった。
瞳を細め、そっとクトゥルたちに向き直る彼女の表情には、悔しさを飲み込み、それでもなお言葉を紡ごうとする気高さが宿っていた。
それはまるで、嵐を越えた後の凪の海――清らかで、そして美しい。
アクアリアスは胸の前で両手を組む。
その姿は、まるで神に祈りを捧げる巫女のようで、どこか神聖な空気をまとっていた。
小さく首を振ると、彼女は静かに海の向こうへと視線を向けた。
赤い瞳が、遥かユ=ツ・スエ・ビルの彼方をまっすぐに捉える。
「皆さまの目的地は、ユ=ツ・スエ・ビルとお見受けします。アブゥ・サが長で居座る限り、邪神様の生まれた地には到着しません…どうか、お力をお貸しいただけませんか…?」
その言葉と同時に、彼女の潤んだ瞳が再びクトゥルたちを見つめた。
視線の奥には、恐れも、迷いもない。ただ――委ねる覚悟があった。
全てをこの一行に託す、真摯な祈りが宿っていた。
沈黙が落ちる。
エリザベートたちは言葉を発さず、ただ一人の男に目を向ける。
色の濃い肌と漆黒の髪を持つ青年――クトゥル。
彼の返答こそが、彼女たちにとっての総意であり、指針となるのだから。
その視線を受けながら、アクアリアスはふと身を震わせ、言葉を絞り出した。
「アブゥ・サを打倒したなら、わたくしはクトゥル様の願いは何でもお答えしますっ…」
深い水底から響くような、真摯な想い。
その声に、クトゥルはしばし沈黙し――やがて、胸中にある思いを振り払うように、静かに笑みを浮かべた。
「(うぅ…可哀そうなアクアリアス…ここは、助けないと邪神の名が廃る!……本当は邪神じゃないけど…)ふ…ククク」
海風と波音が静まり返る中、彼の不敵な笑いが低く響く。
それは静かな場を切り裂くように、やがて確信に満ちた高笑いへと変わった。
「我の覇道を邪魔するとは愚かな奴らだ…良いだろう…貴様の願い、この邪神クトゥルが叶えてやる!」
その宣言は、空と海の狭間に雷鳴のように轟いた。
「っ!?…クトゥル様っ…ありがとうございますっ!」
アクアリアスの赤い瞳が、ぱっと輝く。
その頬を伝う海水が、いつしか涙にさえ見えた。
エリザベートたちは、何も語らず、ただ静かに頭を下げる。
その動作は、主の決断を受け止める忠誠の証。
揺れるアクアリアスの姿は、神託を受けた巫女のように――神聖ですらあった。
そして、誓いは交わされた。
それは音にもならぬ、静かな契り。
海と空が溶け合う、その境界に、ひとつの意思が刻まれた。
――クトゥルたちは、いま、新たなる戦いの潮流へと身を投じようとしていた。