深海の地①
港町セレナータ。
その喧騒の外れ、ひっそりと存在する地下への入り口があった。
石畳の奥、潮に濡れた階段を降りていくと、ひんやりとした湿気が肌を撫でる。
まるで、地下がそのまま海底と繋がっているかのような感覚。
そこに広がっていたのは、まさしく水のない海だった。
天井の高い空間いっぱいに、赤や青、紫のサンゴが生い茂り、時折きらめく光がサンゴの骨に反射しては、幻想的な模様を床に描いている。
海水の塩気が鼻腔をくすぐり、地面には無数の小さな貝殻や、かつての潮だまりの名残と思しきぬかるみが点在していた。
この神秘的な空間――サンゴの領地。
それはセレナータの最深部に存在する、古き時代より魔族・ディープマーマンが棲まう隠された聖域である。
今、その領域にはただならぬ緊張感が漂っていた。
ディープマーマンたちが、濡れた鰭と鱗を鳴らしながら、慌ただしく動き回っている。
「皆の者!上から敵がやってくると報告を受けた!」
洞窟全体に響き渡る怒声。
指示を飛ばしているのは、戦闘服に身を包んだ魚人顔の兵士。
片手に持つ長槍の先が微かに光り、彼の背後には整列するディープマーマンの戦闘兵たちの姿があった。
「アブゥ様!ディープマーマンの戦闘兵、全員集合しました!」
報告を終えた兵士が姿勢を正し、視線を前方へ向ける。
その視線の先――壇上に立つ一体の存在が、沈黙の中に圧倒的な威容を放っていた。
「うむ…」
ディープマーマンの長――アブゥ・サ。
その体は青緑に光り、まるで海中に浮かぶ珊瑚の影のようにぬめりを帯びている。
眼窩の深い三つの眼はそれぞれが異なる方角を鋭く見据え、僅かに動くたび、周囲の水気を震わせた。
深紅に脈打つ鰓が、怒りを示すように膨らんでは収縮を繰り返し、手には一振りの法杖――
その螺旋状の杖の先には、ピンク色に光る真珠が嵌め込まれており、淡く周囲の空間を照らしていた。
サンゴの領地の奥深く、旧き力が息を潜めていた。
そのとき、静まり返ったサンゴの領地の奥、巨大な岩に埋め込まれた一枚の貝殻が、ほのかに淡い光を放った。
貝殻は、まるで生きているかのように蠢き、その中から湿った音を立てて、しゃがれた老婆の声が漏れ始める。
「――海底を支配する魔族ティープマーマンよ。命令じゃ…上界から来る者―敵――偽りの邪神をユ=ツ・スエ・ビルに入れるでないぞ…」
その声は、濁っていて老いを感じさせるものだった。
だが、同時に抗いがたい威圧と魔力が籠もっており、空気そのものが重く沈むような感覚を、聴く者すべてに与える。
アブゥ・サはその場にひれ伏すように、静かに、しかし深々と頭を垂れた。
「御意。…我らディープマーマンは、主の御命に従いましょう…」
長の言葉に呼応するように、周囲にいた兵士たちが低く喉を鳴らし、青黒い鱗の身体をうねらせながら、一斉に持ち場へと散っていく。
その中には、緊張と畏怖の混ざったざわめきが確かに存在していた。
――ユ=ツ・スエ・ビル。
それは邪神が最初に現れたとされる聖域であり、今なお強大な魔族の名家が治めている、霧に覆われた閉ざされた都。
そこへ向かおうとする者を、主は明確に敵と定めていた。
「もし…敵をユ=ツ・スエ・ビルに入れれば、貴様らはワシが氷漬けにして処分する…そのことを努々忘れるでないぞ…?」
声の主は、静かに、しかし確かな脅威をにじませるように言葉を放つ。
「ぎょ、御意っ」
アブゥ・サの声が震えた。
深く頭を下げたその身体は、あの不気味な貝の声に対する恐怖を隠しきれていない。
その様子を見た若い兵士たちが、訝しげな目を向ける。
「おい…アブゥ・サ様は何を恐れておられるのだ…?」
ひそひそと交わされる会話。だが、すぐ隣にいたもう一人の兵士が低く呟いた。
「分からん…だが、ディープマーマンの長であるアブゥ・サ様より上の立場というのは…確かだ」
何者か。誰なのか。それを知る者は、その場に誰一人としていなかった。
そして、サンゴの領地は再び静寂に包まれる。
だが、その静けさの奥では、魔族たちの準備が、確かに、黙々と、着実に進められていた。
訪れる敵を迎え撃つために。
―――
静寂に包まれた、まるで丸い水槽のような空間がそこにあった。
それは海底に造られた聖域――自然と魔法が交差した異界の一室。
四方の壁は透明で、水流の揺らめきと海光の反射が幻想的に映し出されている。
天井には珊瑚を模した光源が浮かび、淡く揺れる光が波のように部屋全体を包み込んでいた。
その神秘的な空間の中心に、ひとりの少女が貝の椅子に腰かけていた。
肩にぎりぎり届くほどの長さのピンク色のウェーブ髪が、水中に漂うようにゆるやかに揺れている。彼女はその場に静かに佇み、目を閉じ、ただ一心に歌っていた。
その声は、凛としていながらもどこか寂しげで、深海の底から立ち昇る祈りのよう。旋律は風のない水面を撫でる指先のように静かに、しかし確かに空間を満たしていく。
歌は祈りだった。
歌は、過去と未来を結ぶ見えない約束だった。
そして何より――歌は、彼女が愛した者への捧げ物だった。
「…お父様…安らかに眠って下さい…」
少女の口からこぼれたそのひとことは、泡のようにふわりと広がり、水の中へ溶け込むように消えていった。
その瞬間、空間全体がそっと震えた。まるで、誰かがその祈りに応じて息を呑んだかのように。
そして、少女は再び目を閉じ、歌い続ける。
深い海の底、その透明な結界のような空間で、ひとりきりの静かな祈りが響き続けていた。
「お嬢様っ……!」
水の静寂を裂くように、その声は突如として響いた。
透き通る水の膜が波紋を描き、そこから一体のディープマーマンが姿を現す。
深い海藍に染まった鱗は、青の闇を背負い、両腕はまるで水そのものが刃となったかのようにしなやかにたなびいていた。
切迫した様子で、その者は荒い息を整えぬまま叫ぶ。
「…あの御方が、ついに……この海域に……!」
緊迫した報せに、少女の肩がびくりと震えた。
歌声はぴたりと止まり、水の中に残された余韻がかすかに揺れながら消えていく。
「っ!…そう…」
吐息のようにこぼれたその言葉のあと、静寂が部屋を満たした。
しばし、沈黙――
そして少女は、ゆっくりと顔を上げる。
その顔立ちは、どこか幼さを残していた。だが、その瞳の奥には、確かに揺るぎない意志が宿っている。
彼女は言葉を紡いだ。静かに、しかし強く、胸の奥から湧き上がる想いを込めて。
「あの御方が来てくれた…」
その一言は、祈りにも似た希望の響きを持っていた。
少女はふわりと身を翻し、まるで水の中を漂う羽衣のように優雅に振り返る。
そして、遥かなる海の果て、陸地の彼方を見つめた――その先に、今まさにこの地へと向かっている者たちがいる。
クトゥルたちの姿を、彼女は心の目で捉えていた。
「お父様…見ていて下さい…」
そっと呟き、少女の尾びれが静かに揺れた。
水の流れに身を委ね、迷いなくその場を後にする。
まるで、導かれるように――待ち続けた者のもとへ向かうために。
―――
天井の遥か高みにまで届くように、赤や青、紫といった色とりどりのサンゴが生い茂っていた。
その幻想的な空間は、まるで静かに息づく海底の森――あるいは、かつて海の神々が住まった神殿のようだった。
青白く仄かな光がサンゴの隙間から差し込み、空間全体を淡く照らしている。
空気には潮の香りがわずかに混じり、そこに身を置くだけで深海の静けさが肌に沁み込むようだった。
クトゥルたちは、そんな異界のような景色の中を静かに進み、やがて中央にある円形の広間へと辿り着いた。
広間は広大で、壁の代わりに柱状のサンゴが取り囲むように生えている。その中心――
そこに立っていたのは、一際大柄な魔族。青緑のぬめる肌を持ち、深い眼窩に沈んだ三つの目がこちらをじっと見据えていた。
その手に握られているのは、先端に淡く輝くピンクパールがはめ込まれた、螺旋状の法杖。
彼こそが、このサンゴの領地を統べるディープマーマンの長――アブゥ・サであった。
クトゥルたちが歩み寄ると、場の空気を震わせるような低く、金属的な声が空間に響いた。
「我は、ディープマーマンを納める主!アブゥ・サ!お主ら…何用で参った!」
その威圧的な声音にも臆することなく、エリザベートが一歩前へと進み出た。
滑らかな動きと共に首を小さく傾げるその仕草は、気品そのもの。
だが、その瞳には不可解な疑問が浮かんでいた。
「…? 貴方がここの主…? ポセイドンはどこかしら…? 彼がここの主だったはずよ。」
返答は、短く、重いものだった。
「ポセイドン殿は、不慮の事故で亡くなった…」
「…そう…」
エリザベートは一瞬、黙して瞼を閉じる。
まるで、かつての主への哀悼を捧げるかのように。
そして、静かに目を開くと、再び視線をアブゥ・サへと向けた。
その姿は、一切の妥協を許さぬ高貴なる意志の象徴のように、揺るぎなかった。
「…なら、貴方に命じるわ。私の名前は、ユ=ツ・スエ・ビルのアビスローゼのエリザベート。ユ=ツ・スエ・ビルに戻るために、セレナータ・ルートを開きなさい…」
その声音には、有無を言わせぬ威圧があった。だが――
「断る!退け!上界の者よ!ここから先は、我らの聖域っ!」
アブゥ・サの声は、海の底から響く咆哮のように拒絶を告げた。
拒まれたエリザベートの双眸が、氷の刃のような冷たい光を帯びる。
その空気に、周囲の温度が目に見えて下がっていくようだった。
サンゴの間に漂う海霧が、凍えるように揺れる。
「…断る…?私はアビスローゼ家の当主よ…セレナータ・ルートを開けなさい…これは、お願いではないわ…命令よ…」
その命令は、もはや懇願ではなかった。
女王が下す絶対の布告――それに等しい。
アブゥ・サの表情が強張る。だが、彼は退かなかった。
円形の広間に沈黙が落ちる。
そしてその中、ぴくりとクトゥルの口元が引きつる。
外見こそ泰然自若に見えたが、内心は穏やかではなかった。
「(うぅ…エリザベートめっちゃっ怒ってるじゃないかっ…)」
心中で悲鳴をあげながらも、クトゥルは自らの威厳を保つべく、表情一つ動かさず静かに事態を見守る。
「…名家アビスローゼだろうが…それは出来ん!」
アブゥ・サの声が再び空間を貫いた。
彼の意思もまた揺るがぬもの。サンゴの奥から湧き上がる潮のように、頑なで、動かぬ強情。
ギリッ、と歯が噛みしめられる音が、沈黙の中に鋭く響く。
エリザベートの怒気が、静かな広間に緊張を走らせた。
そのとき、空気を打ち破るように跳ねる声が上がった。
「くふっ…なら、わったが命令してやるぞいっ!わっちは、アーヴァ=ンシュタウンフェン!セレナータ・ルートを開くのじゃ!」
威勢よく名乗りを上げたのは、小柄な竜人の少女。
高く掲げた両手と、ピョンピョンと跳ねる尾が、意気揚々と宙を舞う。
だが――
「ンシュタウンフェン…?知らんなっ…」
アブゥ・サの言葉は、重くも冷淡だった。
「な、何じゃとっ!?」
驚愕と怒りに満ちた声を上げ、アーヴァはその場で飛び跳ねた。
「炎の竜人っ…ンシュタウンフェンを知らんとはっ!?ありえんぞいっ!」
灰青の尻尾がバサリと揺れ、怒りの炎が瞳の奥で燃える。
「誰であろうが、ここを通すわけには行かんっ!」
その叫びが、広間の天井へと轟く。
直後、静寂を破るように――サンゴの領地の水壁が波紋を広げた。
まるで海そのものが目覚めたかのように、透明な壁の奥から無数の影が現れる。
それは、ディープマーマンたち。深海の戦士たちが次々と姿を現し、その鋭い眼差しを一斉にクトゥルたちへと向けた。
彼らの目は、侵入者を見つけた獰猛な獣そのものだった。
敵意に満ち、今にも牙を剥こうとする衝動が、波となって空間に押し寄せる。
「これは…戦闘は避けれないな…」
ティファーが静かに呟く。
その手には既に愛剣が握られ、刃がキラリと光っていた。
「今日ノ食事ハ、魚ダナ…」
ルドラヴェールの唇から洩れたのは、乾いた冗談。だがその目には、微塵も笑みがなかった。
「……ふんっ…主らにわっちの名を刻んでやるぞいっ!」
アーヴァが両手を広げ、小柄な身体を膨らませるように挑戦的な姿勢を取る。尾びれが水を叩き、波紋が四方に走った。
だが、その空気を切り裂くように、ひときわ低く冷静な声が響く。
「(戦闘はまずいってっ…)待つのだ」
クトゥルが手を掲げ、全員の動きを制した。
臨戦態勢にあった仲間たちが、彼の声に応じて動きを止める。
最も戦いに赴くと思われていたエリザベートさえも、まるで既に心を通わせていたかのように頷いた。
「クトゥル様の言う通りよ…セレナータ・ルートを開通させれるのは、ディープマーマンの長のみ。あれを間違って殺せば、セレナータ・ルートは永遠に閉ざされる…」
その声は冷静でありながらも、明確な警告だった。
彼女の眼差しは、敵ではなく未来を見据えていた。
「(えっ!?そうなのかっ…!?なら、戦ってもらっ―…いや、威厳ある感じで制止したから…無理か…)…」
内心で葛藤しながらも、クトゥルは表情を変えずに静かに頷いた。
彼の口から紡がれた言葉は、迷いなき決断だった。
「……ここは退くぞ。」
その宣言に、エリザベートもアーヴァも、そして仲間たち全員が何も言わずに頷いた。
誰もがこの場での戦いが無益であることを悟っていた。
いまは退き、時を待つべきだと。
彼らは背を向け、静かにサンゴの領地からの撤退を始めた。
彼らを取り囲んでいた無数の海の民たちは、なおも鋭い視線を注ぎ続ける。
その視線は、まるで深海の冷気そのもの。
敵意に満ちたまなざしが、背中に突き刺さるようだった――だが、誰ひとり振り返る者はいなかった。
彼らは歩む。
ただ前を見据え、真なる突破口を得るために。