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港町セレナータ

――ウロボロスの裏で静かに蠢く狂信と策略。


その炎をあおるように、セラフィスは晴天の騎士団を撃退し、さらにはクトゥル教の名のもとに信者を増やし続けていた。


だがそのことを、彼は知らない。


崇拝され、祈られ、恐れられているその邪神クトゥル本人は――

いま、何事もなかったかのように無言で歩を進めていた。


目的地は、初めて邪神が顕現したとされる地――ユ=ツ・スエ・ビル。


足取りは重厚でありながらも迷いがなく、空気を割くように進んでいく。


その背後を、尊敬と熱狂、あるいは狂信の視線で追う者たちがいた。


「…ふふ…クトゥル様、今日もお姿が神々しいですっ……」


恍惚とした表情を浮かべ、真の邪神もとい、真祖の吸血鬼エリザベートが夢見るような声でつぶやく。


その紅い瞳は、まるで宝石のように輝き、クトゥルの背中をただ一心に見つめていた。


さらにその後ろには、アーヴァ、ルドラヴェール、ティファーといった、名だたる猛者たちが控えている。


誰もが黙して従い、その歩みに歩調を合わせていた。


それぞれの顔に宿るのは、疑いようのない信仰の色。


彼らの瞳は、完全なる崇拝に染まっていた。


「(…エリザベートたちの視線が気になるな…)」


クトゥルの胸の内に、ひときわ重たい思念が芽吹く。


その視線の重みは、まるで目に見えぬ鎧のように、彼の全身を締め付けてくる。


それは威厳の証であるはずなのに、彼にとってはただただ――重く、苦しい。


すべての者が、クトゥルを世界を覆う混沌の邪神と信じて疑わなかった。


偉大で恐るべき存在。


破滅と再生を司る存在。神をも蝕む深淵そのもの――と。


……だが、当の本人だけは知っていた。


その中身が、いかに空虚であるかを。


クトゥル――田中太郎は、異界より転生した一人の男にすぎない。

かつての彼は、ごく平凡な人間だった。


ただ、偶然にもこの異世界において、邪神のような容貌で転生してしまっただけ。


その力も、恐れられるに足るようなものではなく、実際のところまともに戦うことすらままならない、ひ弱な存在だった。


しかも、皮肉なことに――この一行の中で、真に˝邪神˝と呼ぶべき存在は、崇拝者の筆頭である、名家アビスローゼ家の当主――エリザベート=ド=アビスローゼだった。


それを知るのは、彼――偽りの邪神――クトゥルただ一人。

偽りの神は、今日も黙して歩む。


己の正体を隠しながら、誤解と崇拝に満ちたまま。


その目的地――ユ=ツ・スエ・ビルへ向けて、世界の混沌が、また一歩、確かな足音を刻んでいた。



―――



クトゥルは、黙して北を目指していた。


「くしゅんっ…」


静かだった道中に、可愛らしいくしゃみが木霊する。

くしゃみをしたのは、アーヴァのようで、鼻水を煤っていた。


「なんじゃ…暖かかったのに…急に寒くなってきたぞい…?」


「ム…ソレハ本当カ…?俺ハ感ジナイガ…」


「(その毛だしな…寒くはないだろ)」


ルドラヴェールの長く硬質な体毛で寒いとなれば、クトゥルたちは凍死してしまうだろう。


クトゥルは、心で突っ込みを入れつつも歩き続ける。


リグナールでは、暖かい春の兆しを見せていたものの今では寒風が頬をかすめる。

吹雪の名残を含んだそれは鋭く、肌に薄く残る緊張を呼び覚ます。

しかし、歩を進めるごとに空気は徐々に和らぎ、凍える大地の名残も薄れていく。


やがて、枯れ枝ばかりの森の隙間から微かに、陽光を跳ね返す波のきらめきが姿を見せた。


視界が開けたその先に――海が広がる。


クトゥルに説明するように前に出たエリザベート。


「クトゥル様。ここが、港町――セレナータです。」


港町、セレナータ。


そこは、大陸と目的地――ユ=ツ・スエ・ビルとを結ぶ最後の要衝であり、数多の文化と交易が交錯する玄関口だった。


「ここからユ=ツ・スエ・ビル行けます」


振り返ったエリザベートが、まっすぐに彼へと言葉を届ける。


その声音に隠れた誇らしさに気づきつつも、クトゥルは微動だにしない。


「ふむ…(あぁ…あと少しで着いてしまう…あっちには、エリザベートとは違う。俺に敵意を持った邪神がいるのに……)」


仮面のような無表情を崩すことなく、彼は心中で深く息を吐いた。


その胸の奥では、冷え切った波が押し寄せるように不安が打ち寄せていた。


広大な港には、無数の海上交易船が碇を下ろしていた。


白い帆が高く掲げられ、海風を孕んで膨らみ、まるで大空を滑る鳥のようにわずかに揺れている。


船体には各地の文化が宿り、それぞれが異国の色に染められていた。


黒檀のように光を吸い込む漆黒の船、紅蓮のように燃える深紅の船。


そのどれもが遠い地より、この港へと集っていた。


桟橋には魔族の姿。粗い言葉とともに唸りを上げながら、荷下ろしに忙しく働いている。


積まれた木箱の中には、乾いた土と香辛料の香りが混ざり、遠い異郷の大地を思わせた。


鉱石の煌めき、異郷の果実の鮮やかな色――それらが港の空気に、どこか甘く、異国めいた香りを染み込ませていた。


「何だか甘い良い香りがしますね…」


ティファーがふと鼻をくすぐる香気に目を細めた。


すぐ近く、露店のひとつが果実の蜜を練り込んだ焼き菓子を山のように積み上げており、香ばしい蒸気が立ち上る。


「くふっ…食欲がそそるぞい!」


アーヴァが興奮したように尻尾をふり、すぐに香りのする方へと小さな体を向ける。


「……グル」


ルドラヴェールが鼻を鳴らし、潮の香りと街の香りの境界を嗅ぎ分けるように一歩進み出る。


町は――港町セレナータは、どこか奇妙な静けさに包まれていた。

決して無音ではない。


荷車が軋む音、通りを行き交う足音、露店から飛び交う客引きの声もある。


だが、そのすべてがどこか浮き足立ち、まるで幻のように頼りなかった。


魚市場では新鮮な海産物が無造作に並び、商人たちが口を大きく開けて声を張り上げている。


だが、その目には活気がなく、どこか泳いでいた。


通行人たちの足取りも、時折振り返るような警戒心を滲ませている。


まるで、街そのものが見えない何かに怯えているかのようだった。


表面だけが取り繕われたような、仮初めの賑わい。


その裏に、深く静かな不安が潜んでいる――ひずみ。


そんな空気のなかで、露店の一角に並べられた果実菓子や焼き肉串を前に、小柄な影がひときわ明るく声を上げる。


「じゅる…どれを食べるかの…」


竜の尻尾を揺らしながら、涎を垂らしそうな勢いで品定めするアーヴァ。


「…アーヴァ。私たちは観光をしているんじゃないわ…」


背後から冷ややかに飛んできたエリザベートの声に、アーヴァの動きが止まる。


その口元にまだ名残る涎を袖で拭い、むくれたようにそっぽを向く。


「…ふん。少しくらいいいじゃろうに…」


「さぁ…クトゥル様っ…こっちが船着き場です」


だがエリザベートはすでに背を向け、冷たい視線のまま船着き場の方角へと歩みを進めていた。


その背に導かれるように、一行も無言で後に続く。

港の最奥、石造りの波止場の建物。


その外壁には、いくつもの札や告知文が貼り出されていた。


色褪せ、雨風に削られた古い告知の中、ひときわ目を引く、真新しい札が風に揺れていた。


【ユ=ツ・スエ・ビル航路 全便欠航】

理由:海の異形が船を襲うため。


その札を前にして、空気がさらに凍る。


エリザベートの瞳が細まり、無言で札を見つめる。

クトゥルの背後で、仲間たちもまた、わずかに足を止めた。


「ふむ……これは……ユ=ツ・スエ・ビルに行けないということか…」


掲示板の札を前に、クトゥルは静かに呟いた。


その声は落ち着き払っており、まるで混沌の海より現れた邪神が事態を見下ろすかのように冷淡だった。


だが、その内側――その心の奥では、まったく正反対の感情が渦巻いていた。


こっそりと、誰にも気づかれぬように背後で拳を握る。


「(やった……!ユ=ツ・スエ・ビルには行かなくて済む!これ以上、命の危険が増す場所とか冗談じゃないっ!)」


声には出さず、しかし心の中では思い切り両手を掲げ、勝利のガッツポーズ。


邪神然とした無表情を装いながら、彼は心の中で「戻って観光したいっ」と叫んでいた。


これで少し町の観光でもしながら、しばらくのんびり過ごすのも悪くない。

そう思い始めた、その矢先――。


「仕方ありません…この町の良い所は、魔法で作られた海のトンネル――セレナータ・ルートがあります…そこからなら、船など使わなくても問題ありません」



セレナータ・ルート――

それは、港町セレナータからユ=ツ・スエ・ビルへと至る唯一の陸路。


陸路とは名ばかりで、その実態は、海そのものを貫いた巨大なトンネルであった。


エリザベートが振り返り、事も無げに言い放つ。


その表情には焦りも迷いもない。


ただ当然のように次の手段を示しただけ――だが、その言葉はクトゥルにとって死刑宣告に等しかった。


「…(マジかっ!)」


心の叫びが、どこまでも虚しく海風に消えていく。


その瞬間、クトゥルの内心はがくりと膝をついた。


「楽しい観光」などという希望は、一瞬にして打ち砕かれたのである。


セレナータ・ルートへの道に足を踏み入れようとした刹那――


「ン…?待ッテクレ…エリザベート殿…張リ紙ガアルゾ…」


重厚な声と共に、ルドラヴェールが歩みを止め、鋭く突き出た爪で掲示板を指差す。


彼のエメラルドグリーン瞳が、淡い海光の中でぎらりと光った。


「え…?」


先を行こうとしていたエリザベートも、ぴたりと足を止める。

振り返り、掲示を確かめたその瞳には、一瞬の驚きと、次いで冷たい光が宿った。


【セレナータ・ルート 通行止め】

理由:魔族がセレナータ・ルートを封鎖しているため。


「これもダメかの…これでは…通行手段がないぞい…?どうするんじゃ…?」


アーヴァの無邪気な声が、静寂の中にぽつりと落ちる。

それは何より、クトゥルの内心に快音をもたらした。


「……(よっし!俺って運良いなっ!)」


心の奥で思い切りガッツポーズを決めるクトゥル。


表面上は沈黙を守り、仮面のごとき無表情で事態を見つめていたが、内心はすでに宿を取り観光する未来でいっぱいだった。


だが――


一拍置かれた沈黙を、氷を割るような鋭い声が打ち砕く。


「…理由を聞きます」


それは、エリザベートだった。


彼女はすでに歩き出していた。


足取りは変わらず優雅、だがその眼差しは容赦なく、目の前にある受付の小屋を射抜いている。


彼女が理由を問う時、それは確認ではない。通れるようにする前提の動きだった。


そしてクトゥルは、心の中でまた崩れ落ちる。


「(神様っ、お願い、もう一回だけ運をっ……!)」


そう祈りながらも、邪神としての風格を壊さぬよう、今日も沈黙を貫いていた。


「あなた…理由を聞かせなさい…なぜ、トンネルを利用できないのかしら…?答えによっては…」


その声音は静かでありながら、殺気を帯びていた。


受付の小屋に立っていた青年は、その一言で体を強張らせる。


目を逸らすこともできず、まるで鋭い刃を突きつけられたかのように、その場で背筋を正した。


彼女――エリザベートの気迫は、もはや高位の魔族ですら押し黙るほどに研ぎ澄まされており、青年の唇は一度震えてから、ようやく言葉を紡ぎ出す。


「徒…徒歩ルートとして知られるセレナータ・ルートですが……そちらで出されている告知文通り、セレナータ・ルートを管理している魔族が……封鎖しているため、通り抜けできないのです…これは、私からはどうしようもなくて…はい……」


その声には、明らかに関わるなという気配が含まれていた。


青年は職務をまっとうしているだけのはずなのに、額に浮かぶ汗は誤魔化しようもない緊張を物語っていた。


「なるほど……」


ティファーが小さく肩をすくめ、乾いた笑みを浮かべる。


「クトゥル様が向かうルートをことごとく潰していますね…まるで『来るな』と言いたげな印象を受けます…」


その言葉に、クトゥルは小さく、しかし確かに頷いた。


「(行くなって言ってるんだから、やっぱり引き返した方がいいだろう……!)」


内心、安堵を抱きながらも、口に出すことはない。


クトゥルは今日も邪神らしく、ただ静かに沈黙を貫いていた。

――だが、彼が一歩退こうとしたその瞬間。


「――で、セレナータ・ルートの入口はどこかしら?」


鋭い問いが再び空気を裂く。


エリザベートの視線は、再び受付の青年を捉えていた。


その口調には、まるで「封鎖されているなど関係ない」と言わんばかりの確信と迫力が宿っている。


その様子を見て、クトゥルは内心で崩れ落ちる。


「(あぁあああっ!こっちはあきらめようとしてたのに!!)」


それでも彼の顔はいつも通り。冷静沈着。


「へ……? で、ですから…魔族が封鎖を――」


受付の青年は、エリザベートの意志の強さに気圧され、思わず一歩後ずさる。


その顔に浮かぶのは困惑と恐れ。無理もない。眼前の少女は、決して年若い旅人などではなく、並の者では到底測れぬ威圧感を纏っていた。


「知っているわ。…その上で、私たち自身の目で確かめたいだけよ」


エリザベートの声には微塵の揺らぎもない。


まるでそれが当然であるかのように、まっすぐに告げられたその言葉は、青年の動揺をさらに加速させた。


青年が言葉を失ったその瞬間、ルドラヴェールが無言のまま一歩前に出る。


「グル…」


その巨大な体躯が動くだけで、場の空気が圧縮されるような感覚が走った。


まるで、見えぬ鎖が周囲を締め付けるかのような重圧。


「わ、わかりました」


青年の額に汗が滲み、彼は慌てて足元の棚から地図を取り出す。


「こ、こちらがセレナータの位置です……。町の北、崖沿いに入り口があります……」


差し出された地図は、手渡す青年の指先が微かに震えているほどだった。


それを受け取ったエリザベートは、にこりと笑みを浮かべた。けれどもその笑みは、どこか仄かに冷たさを帯びている。


「分かったわ…」


地図に一瞥をくれると、彼女はそれをすっと懐にしまい、無駄のない動作で踵を返す。


「さぁ、行きましょうっ。クトゥル様っ」


エリザベートの輝く笑みがクトゥルを貫く。

やり取りの一部始終を見ていた彼は、心底うなだれた。


「(ああ……結局、向かうことになってしまった…)」


思わず、肩がだらりと落ちる。


内心では、逃れられぬ運命を前にして、何度目かの敗北を味わっていた。


しかし、彼の顔に浮かぶのは、いつもの沈着冷静な仮面――。


誰も、彼の心の中で静かに繰り返される「帰りたい」の叫びに気づく者はいなかった。




―――




港の受付で封鎖の情報を聞き出した後、クトゥルたちは重い足取りで町の中心部へと向かっていた。


潮風が路地裏を吹き抜け、塩気とともに魚の干物の匂いを運んでくる。


その空気には、錆びついた船の金属臭が混じり、埃っぽい乾いた匂いが鼻をついた。


地面にはところどころ水たまりが残っており、潮騒の音とともに遠くで船の警鐘が鳴っている。


街の色は薄れており、どこか活気を失ったこの港町に、旅人たちの影だけが静かに延びていた。


そんな中、アーヴァが口を開いた。


「エリザベート。セレナータ・ルートに行く前に情報を収集するべきではないかの…?」


その言葉に、ティファーが頷く。


「アーヴァ様の言うとおりですね…」


続けて、ルドラヴェールが低く唸った。


「グル…敵ノ情報ハ知ルベキダロウ」


「(良いな!少しでも、嫌なことを先延ばしに出来るかも!?)」


内心で快哉を叫びながらも、クトゥルは表情を変えずに周囲のやり取りを聞いていた。


アーヴァの提案に乗る仲間たちに紛れて、自分もまた情報収集という名目の時間稼ぎに期待を寄せていたのである。


だがその期待は、あっけなくエリザベートによって打ち砕かれた。


彼女は静かに、しかしはっきりと首を振った。


「情報なんて要らないわ。セレナータ・ルートを管理している魔族なら私が知っているから…」


その言葉に、クトゥルが小さく眉をひそめる。


「…エリザベートよ…そ奴らはお前の知り合いか…?」


問いかけに対して、エリザベートはふと笑みを浮かべた。柔らかく、それでいて確信に満ちた表情だった。


「はい。セレナータ・ルートを管理している魔族はディープ・マーマンの長。その長とは顔見知りです。私が願えば…彼なら、きっと封鎖を解いてくれるでしょう。」


自信に満ちたまなざしでクトゥルを見つめながら、彼女は優雅に一礼してみせる。


「ディープマーマンのいる場所に案内します。長がいるのは──この町の最深部、旧時代より存在するサンゴの領地です」


まるで迷いなど微塵も感じさせないその所作に、クトゥルはぐったりと肩を落とす。


すでに、道は彼の意志とは無関係に決まっていた。


こうしてクトゥルたちは、封鎖されたセレナータ・ルートの通行を求め、町の最深部にあるサンゴの領地へと向かうことになった。






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