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邪神教と騎士団③

天へと突き刺さるように聳え立つ、白亜の塔――晴天騎士団本部。

その中心に据えられた中央聖堂は、威厳と敬虔を象徴する空間だった。


巨大なステンドグラスが高く掲げられ、その荘厳な意匠は、神の御業と騎士の誓いを永遠に刻むために在る。

朝の陽が射し込むたび、七色の光が床に滲み広がり、まるで神の祝福が降り注いでいるかのように空間を彩る。


その光の中で、騎士たちは日々、剣に誓い、盾に祈りを込め、清き心で今日という一日へと歩み出していく――

本来であれば、それは晴天騎士団における最も静謐で崇高な儀式のはずだった。


だが、この日の祈りには、いつもの神聖さがなかった。


聖堂に隣接する会議室。


緊急招集の報せを受け、選ばれし上級騎士たちが集うその空間には、普段とは異なる張り詰めた気配が満ちていた。


窓は固く閉ざされ、室内は蝋燭の光だけが灯す仄かな明かりに包まれている。

重厚な机を囲む騎士たちは皆、眉根を寄せ、ただ沈黙を保っていた。


銀の鎧が擦れる微かな音さえ、やけに耳につく――それほどに場の空気は、重かった。


そしてついに、その沈黙を破ったのは、最奥に座する壮年の男。

晴天騎士団を率いる団長の低く重い声が、静まり返った白壁に静かに反響した。


「……レオン副団長と、同行した9人の騎士が未だ消息を絶っている」


その言葉がもたらした衝撃は、声に出されることなく、胸の内に響いた。

顔を見合わせる者はいない。皆、己の中で理解し、静かに事の重さを受け止めていた。


それが意味するもの――

晴天騎士団の柱の一つとも言える副団長の失踪は、ただの不幸では済まされない。


「彼らは、異端の兆しが現れた街――リナウテキメノスへ向かった。元々、神の信仰に熱い町だった……だが、ある日を境に、邪神教会の信者数が急増し始めている。」


団長の低く響く声が、会議室の厚い扉の内側に沈んだ重苦しい空気をさらに重くした。天井に吊るされた燭台の炎が揺れ、壁に映る騎士たちの影も、不安げに震えていた。


テーブルの一角で、騎士の一人がゆっくりと口を開く。その声はかすれていたが、沈黙の中では痛烈なまでに際立った。


「偶然とは……考えにくい、ですね」


重なるように、団長が目を細めて言葉を続ける。


「当然だ。あの教会――いや、˝邪神教˝とやらは、我らが想像していた以上に根を張り、広がりを見せている。善行と称してはいるが、奴らの拠り所は人智を超えた“異形の存在”だ。我らの神とは相容れぬ。ならば――断たねばならん」


語気を強めたその声音には、ただの怒りではなく、信仰を汚された者の深い憤りと覚悟がにじんでいた。


続けて、団長は手元の文書に目を落としながら言葉を継ぐ。


「だが、正規の捜査では警戒される。我らの鎧を見た瞬間、扉は閉ざされ、口は閉じる。だからこそ……内部からの調査が必要だ」


会議室に、再び沈黙が落ちる。

誰もが、その意味を理解していた。これはただの監視任務ではない。

信仰と信念、騎士としての誓いを一時捨ててでも、“敵の内側”へと踏み込むことを意味している。


その沈黙の中、団長は椅子からわずかに身を乗り出し、重みを帯びたまなざしを向ける。視線の先――一人の青年が静かに顔を上げた。


「ライエル・クローヴァ」


名を呼ばれた瞬間、青年は背筋を正し、凛とした姿勢で立ち上がった。


まだ若く、少年の面影を残す整った顔立ち。その額には汗の光が浮かんでいたが、澄んだ瞳の奥には、場の空気に飲まれぬ確固たる決意が燃えていた。


「貴殿には、リナウテキメノスの邪神教への潜入任務を命ずる。信者として紛れ込み、彼らの真なる姿を暴け。必要とあらば、偽りの信仰を捧げても構わぬ」


言葉のひとつひとつが、心に重く刻まれる。

この任務は、裏切り者と同じ立場に身を置くことを意味していた。


ライエルは一拍の沈黙の後、ぐっと顎を引き、騎士としての誓いを胸に刻むように、まっすぐに頷いた。


「了解しました。命を賭して遂行いたします」


その声は澄み、まるで真昼の空のように曇りひとつなかった。


部屋の空気が微かに動く。団長が、ぎしりと床板を軋ませて一歩を踏み出すと、漆黒のマントが彼の背に広がる。


彼は無言でライエルの前に立ち、まるで心を見透かすかのような深いまなざしを彼に注いだ。


「心せよ、ライエル。異端の教えは、理を超えて人の心に染みこむ。信仰を装ううちに、己が信仰を失わぬよう、常に˝晴天˝を胸に刻め」


語られる言葉は、厳しくもあたたかい――まるで父が子に送り出す最後の訓戒のようだった。


ライエルは目を閉じ、そして再び開く。揺らぎはなかった。


「……はい。晴天の誓いにかけて」


その瞬間、会議室の高窓から、差し込む陽光が一筋――まるで応えるように彼の肩を照らした。


それはまるで、天が静かにその誓いを受け取ったかのようだった。


晴天の名のもとに捧げられたその決意は、もはや揺るぎなき祈りであり、騎士としての魂そのものだった。



―――



リナウテキメノス――。


深い霧と連なる山々に抱かれたその街は、かつて神を崇める者たちの巡礼地として知られていた。


しかし今、その神聖な面影は影を潜めていた。


石造りの街並みは変わらずとも、流れる空気はどこか異質で、肌を撫でる風すらも、静かすぎる。


通りを行き交う人々の顔には、妙に柔らかな微笑が浮かんでいた。誰もが安堵したような、満ち足りた表情で歩を進めている。だが、その笑顔にはどこか人間らしい温もりが欠けていた。


それは幸福とは違う。


もっと冷たく、けれど深く染みついた信頼――何かにすがりきった者たち特有の、得体の知れぬ安心感。まるで思考を手放し、心を委ねてしまった者のような表情だった。


そんな街へ、ライエル・クローヴァは静かに足を踏み入れた。


灰色がかった旅装に身を包み、肩までの髪を布で覆い、目深にフードを被ったその姿は、目立つことなく通りを歩く。


「……ここが、邪神信仰の街リナウテキメノス…か」


唇は動かず、声は胸の内だけに響く。だがその思考の裏には、微かに緊張が走っていた。


街を行く人々の眼差しには敵意がない。むしろ、あらゆる訪問者を温かく迎えるような、開かれた空気が漂っていた。


それが――罠だと知らなければ。


もしここが純粋な信仰の地であると信じていたなら、この穏やかさはきっと心を解きほぐしただろう。


だがライエルは、知っている。

この地は、神の名を捨て、異形の神を迎え入れた街。


信仰の残骸の上に咲く、歪んだ安らぎにすぎないことを。


「ようこそ、旅のお方。お困りですか?」


柔らかく澄んだ声が、ライエルの耳元に届いた。


振り向けば、そこに立っていたのは赤黒いローブを身に纏った女性だった。


深い赤と墨のような黒が複雑に絡み合うその衣には、流れるような刺繍が施され、まるで血と影が織り成した模様のようにも見えた。


彼女の顔には、疑いも警戒もなく、ただ穏やかな微笑が浮かんでいた。澄み切った瞳はまるで清流のように透明でありながら、底知れぬ深さを湛えている。


そして、彼女の胸元には、奇妙な文様の刻まれたペンダントが揺れていた。


幾何学とも言えず、有機的ともつかない、見る者に不快と魅惑の両方を与える曲線。


それはまさに、異なる理の象徴――邪神の印だった。


「……ああ。邪の神の導きを求めている」


ライエルは、表情を変えず即興で応じた。調査任務に先立って得た情報に、この言葉がこの街での合言葉であると記されていた。


女性の反応は、的確だった。


微笑みはそのままに、ゆっくりと頷くと、彼女は右手を前へ差し出す。


「でしたら、どうぞ。教祖様のもとへ」


その手の導きに従い、ライエルは静かに歩き出した。


街の中心部――整然とした石畳の通りを抜け、彼らが辿り着いたのは、一際異様な存在感を放つ建物だった。


赤黒い外壁に覆われたその教会は、荘厳というよりも、不気味にして神聖。どこか湿った空気すら漂うその造りは、神への祈りではなく、何かを封じるかのような印象を与える。


重々しい扉の前で一度足を止めたのち、ライエルは息を殺し、ゆっくりとその口をくぐる。


――瞬間、空気が変わった。


外界と断絶されたかのような静寂。重たく粘つくような気配が、まるで彼の肺へと直接侵入してくるかのようだった。


光はあった。だがそれは陽の光ではなく、燭台にともる青白い炎。まるで魂が燃えているかのような、幻想めいた輝きが、広間の柱と天井に影を踊らせていた。


微かに漂う香の匂いが、空気にゆらりと溶けていた。


天井を見上げれば、精緻な筆致で描かれた神秘的な壁画が広がり、青白い燭光を受けて仄かに揺れている。


何を祈り、何を讃えているのか――それは一見して理解できない。けれど、そこに込められた異なる意志だけは、誰の目にも明らかだった。


中央に、ひとりの男が立っていた。


――セラフィス。


長く滑らかなエメラルドグリーンの髪が、まるで水面に浮かぶ光のように淡く揺れている。琥珀色の瞳は静かに細められ、こちらを真っすぐに見据えていた。その左目の下に、ひとつだけ刻まれた黒子――それが奇妙なまでに印象的で、視線を外すことができない。


セラフィスはその場を満たす空気と一体となったかのように、ゆっくりと歩み寄ってきた。歩みに一切の迷いはなく、警戒もない。ただ自然に、まるで旧友を迎えるかのように右手を差し出す。


「よくお越しくださいました。ここは、邪神クトゥル様を信仰する素晴らしき場所。…迷える魂が、新たな地に辿り着いたこと――このセラフィス、心より祝福いたします…」


その声音は穏やかで澄んでいた。耳に心地よいのに、なぜか胸の奥にじわりと滲み入り、静かに染み込んでくるような――そんな危うさを孕んでいる。


ライエルは、一瞬の逡巡ののち、その手を取った。


その瞬間、悟る。


この男は、只者ではない。


言葉ひとつ、仕草ひとつで、人の心を引き寄せ、捉え、縛ることができる。導く力と、飲み込む力を同時に備えていながら、それを一切の強制もなく自然に成し遂げる――まさに、異端の化身。


「……どうか、教えを。僕は、真実を求めてここに来ました」


言葉を口にしたとき、自分でも驚くほど、声は自然だった。


セラフィスは、その応答に満足したように目を細める。


「ええ。あなたのような方を、私は待っていたのです」


たった一言。

けれどその瞬間、ライエルの背筋にぞわりと寒気が走った。


それは、気のせいではなかった。


セラフィスの口ぶりには、まるで――最初からすべてを知っていたかのような、奇妙な確信があったからだ。




―――




歓迎の言葉とともに、ライエルは教会の一室へと案内された。


そこは修道の静謐さを感じさせながらも、どこか人の温もりが残された空間だった。木製のテーブルと椅子がいくつも並べられ、窓から差し込む午後の光が、淡く部屋を照らしている。


宿泊も食事も、すべて無償で提供されるという。必要なのは、ただ――共に在る心だけだと、説明された。


「食事の用意できってから…。空いてる席、勝手に座れよ…」


無骨な声が響く。


言葉を発したのは、褐色の肌に燃えるような赤い髪を高く結った女だった。炎を束ねたかのようなポニーテールが揺れ、その鋭い眼差しが、ライエルを一瞥する。


彼よりも背が高く、肩幅も広い。無言で椅子を引く仕草には、迷いも遠慮もなかった。


――彼女はフレイヤ。晴天騎士団でもその名を知らぬ者はいない、元ゴールドランクの冒険者。


だが、その栄光の名声も、この教会では特に語られることはなかった。まるで過去など意味を成さぬように。あるいは、自らがそれを否定しているかのように。


「……感謝する」


ライエルが静かに礼を述べると、フレイヤは一瞬だけ眉をひそめ、そしてそっぽを向いた。


「別に、俺のために言ってんじゃないだろ」


ぶっきら棒な返し。だが、その声音にはわずかに滲むものがあった。鋭さの裏に、他者との距離感を測りかねているような、不器用さを感じさせる。


その空気を埋めるように、テーブルに皿を並べているもう一人の女性がいた。


茶色の髪を肩で一つに束ね、細縁の眼鏡をかけたその女性――彼女の動きは静かで、丁寧だった。


「……お口に合うか分かりませんが、栄養のバランスは考えてありますので」


柔らかく、それでいて事務的な口調。だがその声には、どこか確かな気遣いがあった。


彼女の名はアルラ。かつてはギルドの受付嬢だったと聞いている。控えめで地味な印象ながら、その手元の動きには熟練と心配りが滲んでいた。


この教会に流れ着き、それでもなお人に尽くす在り方。過去を引きずらず、今の役割に徹する強さ。


――ここにいる者たちは、皆それぞれの事情を抱え、それでもこの場所に居場所を見出していた。


ライエルは、並べられた一皿の前に腰を下ろしながら、静かに視線を伏せた。


自分もまた、その一人になろうとしていることを、心の奥で噛み締めながら。


「なぜ、この教会に……」


ぽつりと漏れたライエルの呟きは、静かな室内に溶けていった。問いかけというより、胸の内に澱のように沈んでいた疑問が、思わず言葉になったような声だった。


その声に反応したのは、向かいの席にいたアルラだった。


茶色の髪を揺らしながらふと微笑む。その表情は、一見すると穏やかで優しげ――だがその目元に、かすかな陰が差すのをライエルは見逃さなかった。


「……ここは、どこにも行き場がなかった者が最後にたどり着く場所です。だからこそ、居心地がいいのでしょうね。誰にも何も、否定されないから」


その言葉には、個人の感想以上のものがあった。


否定されない――それは、救いであり、包容でもある。けれど同時に、それは沈み込む場でもあった。心を癒やすはずの安堵が、知らず知らずのうちに依存へと変わってゆく。誰にも否定されない場所。それはつまり、自分を律する必要すらない場所なのだ。


テーブルの上から、湯気が静かに立ち上っていた。


木製の皿に盛られた温かな食事は、粗末ながら丁寧に調理されていた。香りも悪くない。空腹を癒すには充分すぎる温もりと静けさ。


室内には他にも何人かの信者らしき者たちがいて、それぞれの席で静かに食事をとっている。誰もが穏やかで、礼儀正しく、何ひとつ不審な点はなかった。


だが、それがかえってライエルの胸を重くさせる。

――何もおかしくない。それなのに、全員がどこか同じ匂いを纏っている。


まるで、すべてが一枚の膜の内側にあるかのように。


祈るでもなく、ただ黙々と食事をとる者たちの横顔を見渡しながら、ライエルは息をひそめる。


ここに流れる空気は、静かで穏やかで――そして、どこまでも異質だった。





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