邪神教と騎士団①
リナウテキメノスの一角にひっそりと佇む一つの教会――その建築はかつて神の恩寵を受けた聖地の象徴であったにもかかわらず、今は赤と黒を基調とした不気味な荘厳さに包まれていた。
尖塔の先に飾られた十字架は錆び、空を裂くように逆さまに傾いている。
ステンドグラスには漆黒と深紅の断片が織り交ぜられ、陽の光すら呑み込むような重たさを纏っていた。
射し込んだ光は血のような影を床に滲ませ、礼拝堂の空気を鈍く染め上げている。
鐘楼は沈黙を守ったまま天を仰ぎ、その存在がまるで空の色をも重くしているかのようだった。
教会奥の祭壇の向こう、荘厳にして異質な空間――そこに、玉座のような椅子がひとつ据えられている。
その椅子に腰を沈めているのは、かの男──セラフィスであった。
整えられたエメラルドグリーンの髪が肩に流れ、赤黒い長衣の裾が玉座を包むように広がる。
その瞳は一見穏やかに見えるものの、どこか深く、底知れぬ冷酷さと虚無を宿していた。
彼の手元には、乱雑に重ねられた文献の束が置かれている。
邪神信仰に関する古代語で記された経典、失われた封印の儀式に関する巻物、そして各地の信徒から寄せられた報告書の束。
それらすべてが彼の掌中にあるかのように、静かに支配されていた。
その傍らには、一人の女性が控えている。
かつてゾドーインズのギルドで受付嬢を務めていたアルラだ。今は、教会においてセラフィスの秘書的な役割である。
彼女は手慣れた様子で整理された書類の束を差し出しつつ、微かに眉をひそめた。
「セラフィス様…先日の邪神討伐依頼の取り下げについて、まだ反発の声が幾つか届いています…」
それは言葉を選びながらも、否定できぬ事実を伝える声音だった。
セラフィスは目を伏せることなく、ゆっくりと視線を彼女に向ける。
その声音は低く、けれど確信に満ちていた。
「……当然の反応です。けど真実を知らぬ者たちの騒ぎなど、風の囁きにすぎませんよ…」
淡々と語るその声には、揺るがぬ自信と、深き信仰が滲んでいた。
荘厳な静寂が支配する教会堂――その中心にある玉座の前に、三人の女性が静かに並び立っていた。
アリシア、ミレイユ、フレイヤ――かつてはゾドーインズの地で名を馳せたゴールドランクの冒険者たち。
幾多の戦場を駆け抜け、仲間と共に剣を振るった者たちが、今はセラフィスという男の前で、まるで忠実な従者のように控えている。
その瞳は揺るがぬ忠誠を湛え、熱に浮かされたような光を宿していた。
彼女たちを支配するのは、セラフィスの放つ毒のような魅了――神秘と狂気の狭間に咲いた、甘美な毒花。
かつて冒険者として名を上げた彼女たちは、今や彼、そして彼が崇拝する邪神に全てを捧げる存在となり果てていた。
彼女たちの身には、黒と紅の意匠を織り込んだ戦装束が纏われている。
その姿はまさに、聖と邪の境界を超えた者たち。
腰に下げた大剣も、背に担う杖も、もはや正義のためではない。
それはすべて――セラフィスと邪神のために。
その時、控えていたアルラが一歩前に出て、静かに口を開いた。
「セラフィス様…来訪者です。数は10人…教会の前にて名乗りを上げています。」
その報告に、セラフィスはゆるやかにまぶたを伏せる。
長く繊細な指が、手元の書物のページを一枚、静かにめくった。
「…新たな信奉者でしょうか…?」
囁くような声だった。
だがその音には、どこか妖しい期待が滲んでいる。
その問いに、アルラはわずかに首を振り、書類の束を胸元に抱え直した。
「……いえ。彼らは騎士と名乗っています。曰く――『正義の名のもとに、信仰を正す』と」
言葉を受けて、教会の空気がほんのわずかに張り詰めた。
アルラの言葉に応じるように、アリシアがわずかに目を細めた。
月夜を思わせる白の髪が肩を滑り落ち、エルフ特有の長い耳が静かに震える。
その横で、フレイヤが腕を組み、深いため息と共に口を開いた。
「まーた……正義を名乗る奴らか…」
面倒そうに首を振るたび、炎のような朱のポニーテールが揺らめく。
褐色の肌に浮かぶ汗の粒が蝋燭の光を受けて煌めき、露わになった鍛え抜かれた腹筋が、まるで戦を待つ獣のような気配を放っていた。
「オーッホホッ…これで2度目ですわ…˝アタクシ˝のセラフィスが信仰する邪神教に盾突くなんて愚かですわっ!」
ミレイユが艶やかな金髪の縦ロングツインテールを揺らし、優雅な所作で胸を張る。
彼女の胸元がその拍子に大きく揺れ、豊かな曲線を強調した。
「˝僕達˝のね…ミレイユだけのセラフィスじゃないから…」
アリシアが冷ややかな声で返すと、ミレイユの眉がぴくりと動いた。
二人の視線がぶつかり合う。
どちらも一歩も引かぬ気迫。まるで静かなる剣戟のように、空気が張りつめていく。
その緊張を打ち払うように、セラフィスがゆっくりと立ち上がった。
重厚な赤黒のローブが足元で静かに波打ち、その身を包むように闇が広がる。
蝋燭の炎が揺らめき、彼の影が高く祭壇の壁に伸びてゆく。
まるで、聖域そのものがセラフィスの意志に従って形を変えているかのようだった。
その気配に誘われるように、ミレイユ、アリシア、フレイヤの三人が即座に姿勢を正し、彼へと視線を戻す。
「お客人は歓迎しないといけませんね。」
セラフィスの声は柔らかく、それでいてどこまでも冷たい。
その言葉は静かな水面のように、しかし確実に彼女たちの心を震わせた。
「正義を騙る者が、真実の前にどれほどの信仰を貫けるのか……見届ける義務が私にはありますから。」
外からは、扉越しにわずかな祈りの声が聞こえてくる。
白銀の鎧を纏い、清らかな紋章を掲げた騎士たち。
彼らは誓いの言葉を胸に刻み、信仰の剣を腰に下げていた。
彼らの瞳には迷いはなく、義の炎が燃えていた――だが。
だが、その聖騎士たちが踏み込もうとしているのは、もはやかつての神聖ではなかった。
そこは、信仰の名を騙る者が己の正義を飲み込み、歪んだ神性が深く根を張る異端の領域。
セラフィスという名の導き手のもと、その教会はすでに、別の神に属する場所となっていた。
――彼らはまだ、それに気づいていない。
―――
白銀の甲冑が、真昼の陽光を受けて燦然と輝いていた。
リナウテキメノスの広き大路に、10騎の騎士たちが威風堂々と歩を進める。
鋼鉄の靴が石畳を打つ音が、まるで神の意思を告げる鐘のように響き渡る。
その胸元には、空を翔ける太陽の紋章――雲ひとつ許さぬ晴天を象徴する意志の印。
それは、正義と清廉を掲げる晴天の騎士団にのみ許された聖なる証であった。
彼らの姿は、黙して語らずとも人々に畏敬を抱かせる。
まるで天より遣わされた制裁の使徒。
神の刃が人の姿を得たかのごとく、無言のまま教会の門をくぐっていった。
周囲の人々――否、もはや信者たちは、彼らの出で立ちを見ても怯えるでもなく、ただうつむいたまま赤黒いローブをまとい、何事かを低く呟いていた。
その手には不吉な印が刻まれ、口元は不気味な祈りの言葉を形作っている。
それを見た騎士の一人が、憎悪を込めた視線を周囲に向けた。
彼――グリエルは、舌打ちすらせずに小さく呟いた。
「……まったく、この街は異常だな……」
その言葉に、他の騎士たちが同意するようにうなずいた。
なかでも若き騎士、カルナは唇を結びながら、かつてのこの街を思い起こすように呟いた。
「元々は、真の神を信仰する素晴らしき街だったものを……セラリウス殿がいれば……」
セラリウス――リナウテキメノスにあった聖霊会の指導者であり、この街に神の教えを根付かせた敬虔な男。
その信仰と慈愛の姿勢は、騎士たちの間でも語り草だった。
しかし、その姿は突如として消えた。
代わって表れたのが、彼の血を継ぐという一人の男――セラフィス。
「……神の子……セラフィスか……」
その名を口にしたのは、レオン――晴天の騎士団を率いる副団長である。
彼の声には、怒りと疑念、そして僅かな哀しみが混じっていた。
それは、かつて信仰の地であったこの街が、今では血と影に染まり、邪悪な祈りに満ちた地となってしまった事実を受け入れがたい想いがあったからに他ならない。
「……奴がこの街を染め上げたのは、ほぼ間違いない。全員――警戒しろ」
レオンの一声に、騎士たちは瞬時に背筋を正し、剣に手を添える。
その眼差しには迷いも怯えもなかった。彼らは正義を名乗る者ではない。正義そのものとして在る者たちだった。
太陽の騎士たちは、ついに教会の扉の前に立った。
彼らの前に待つのは、真なる神の意思か――それとも、神の名を騙る偽りの神性か。
答えは、すぐに明らかになる。
―――
晴天の騎士団が教会の前に到達したその瞬間――
まるで、彼らの到来を見越していたかのように、巨大な教会の扉が、ギィィ……と、低く軋む音を響かせながら開かれた。
その両脇には、赤黒のローブをまとった男女が一礼していた。
顔の半分が影に沈み、その目元は伏せられている。
誰一人、言葉を発する者はいない。ただ沈黙のなかで、彼らは迎えとして在った。
騎士たちは眉をひそめながらも、剣に手をかけることなく、慎重に一歩、また一歩と、扉の内へと足を踏み入れた。
――そして、その瞬間だった。
10人の騎士の呼吸が、一斉に止まる。
堂内に足を踏み入れた彼らの前に広がるのは、神の家とは思えぬ、異質な空間だった。
十字架は錆、逆さまに飾られ、天井から差し込む光は、ステンドグラスを通して歪んでいた。
黒と紅に彩られたその硝子は、陽の光を不浄の輝きへと変え、床に這う影はまるで血に飢えた蛇のように、くねり、絡み、そして誘う。
まるで空間そのものが生きているかのようだった。
重い。冷たい。
そして何より、粘つくような悪意が、この空間の隅々にまで染み渡っていた。
それは言葉では表現できぬ感覚だった。
空気そのものが腐臭を孕み、心の奥底にまで忍び込んでくる――神の名を口にすることすら、ためらわせるほどに。
騎士の一人、カリストが、口元を硬く結びながら低く囁く。
「……感じるか。これは神に仇なす……異端の気配だ」
その言葉には、確信と怒りが滲んでいた。
カリストの瞳は、目に見えぬ敵へ向けて鋭く光り、剣の柄に自然と指がかかる。
しかし、副団長レオンは、眉一つ動かさず、まるでそこに在る何かを見据えるように、ゆっくりと膝を折った。
重厚な甲冑が、静かな礼拝堂の石床に重く響く。
続くように、他の9人も、それぞれの祈りの姿勢をとる。
その動作に迷いはない。むしろ神の御名を掲げるその行為そのものが、彼らの槍であり、剣だった。
レオンの口から、低く、確かな声が響き出す。
「――全能の御神よ。我らを導きたまえ。この穢れし地に、貴き御名を掲げ、正しき光をもたらさんがために……」
祈りの声は、やがて9人へと連鎖し、重なり合っていく。
その響きは、まるで黒雲を裂く光の剣のようだった。
静まり返った礼拝堂のなかで、その声だけが神聖なる震えを生む。
不浄の空間に、一筋の光が走るような錯覚――いや、それは錯覚ではない。
神はまだ、この地を見放してはいない。
彼らがその証明を、これから剣で、信仰で、為すのだ。
そして彼らの祈りに応えるかのように――
礼拝堂の奥、玉座のごとき椅子に座する影が、ゆっくりと立ち上がる気配があった。
それは、正義と信仰の名のもとに訪れた騎士たちを迎える、異なる信仰の体現者。
闘いは、もはや避けられぬものとして、静かに幕を上げようとしていた。