荒野の魔獣②
荒野に吹いていた熱風が、ふと止んだ。
何かが這い寄ってくる。
「…?」
クトゥルの背後から、ずっしりとした重圧が忍び寄るのを、エリザベートは感じ取っていた。
空気が張り詰め、まるで大地そのものが震えているかのような錯覚に陥る。
だが――クトゥル本人はまだ気づいていない。
エリザベートの長く漆黒の髪が、ゆっくりと動く。
まるで触手のように、あるいは何かの感覚器官のように、彼女の異形の力がそれを捉えた。
静かに振り返りながら、エリザベートはクトゥルに問いかける。
「クトゥル様……どうなさいますか? 背後にいる存在を…中々の殺気を放ってます。…ただの獣ではありません…。」
クトゥルの中で、嫌な汗が流れた。
「(な、なにっ…!?)」
この異様な気配……明らかに、これまでの猛獣たちとは異なる。
彼らが本能的な恐怖で逃げ出したのとは違い、背後の存在は明確な敵意を持ち、恐怖を抱かず、戦いを挑もうとしている。
「(やばい!そんな強そうなヤツいるのかっ…!?いやいや、ここで動揺を見せたらダメだ!俺って見た目だけは、邪神なんだしっ…!)」
自らの『邪神としての威厳を守るため、クトゥルは内心の焦りを必死に抑え込み、わざとゆっくりとした動作で顔を上げた。
「(すぅ~…はぁ~…よし…邪神ロールプレイ…開始だっ!)」
そして、クトゥルは、低く堂々とした声で宣言する。
「フッ……我と遊びたいとは……随分と愚かなる存在よ。…よかろう、出てくるがいいっ…!」
その声が荒野に響いた瞬間――。
「グルルゥ……」
岩陰から、ゆっくりと姿を現したのは、一頭の巨大な虎だった。
――否、虎のような何かだった。
クトゥルは無意識に飲み込んだ唾を喉に流し込む。
「…?(え、と、虎…?で、でも…何か違うな…色も違うし…牙ってあんな長かったか…?)」
その生物は、漆黒の縞模様を纏い炎のような毛並みは、朝日を受けて燃え立つように輝き、堂々たる深紅のたてがみを持つ。
エメラルドを宿したような瞳にサーベルタイガーを彷彿とさせる長大な牙。そして、鋼の刃のように光を反射する尾。
獣の巨体は二メートルを軽く超え、荒野の猛獣たちをはるかに凌駕する威圧感を放っていた。
虎に似た魔獣は低く喉を鳴らし、鋭い爪を大地に突き立てながら、クトゥルを見据える。
その双眸には、確かな意思と誇りが宿っていた。
「ふん……名を聞こうか、獣よ……」
クトゥルは顎をわずかに上げ、傲然と相手を見下ろすような口調で言い放った。
だが、その目の奥――心の中では、冷や汗が流れていた。
「(ワ、ワンチャン……見掛け倒しであってくれっ…頼むっ)」
獣の気配は圧倒的だったが、まだ喋っただけだ。
もしかすれば、大したことないかもしれない。
そんなかすかな希望を抱いたその時――
「グルルゥゥ……俺ハ、この地ヲ支配スルッ……獣王――ルドラヴェールッ!」
咆哮とともに、大気が軋んだ。
ルドラヴェールの一言で、風が――完全に止んだ。
まるで荒野全体が息を潜め、時の流れすら凍りついたかのように、辺り一帯に重く圧し掛かるような沈黙が広がる。
砂すら舞わず、空は不自然な静寂に包まれていた。
ルドラヴェールと名乗った存在の巨躯は、まさに王の名にふさわしい威圧感を放っていた。
その瞳は野生にして冷徹。肉を裂き、骨を砕き、ただ蹂躙するだけの獣ではない。
理性と本能が同居した、知性ある殺意。
クトゥルの背が、無意識に震えた。
それは興奮でも戦意でもなく、純然たる危機感の発露だった。
「(あ……ど、どうしよう…。)」
その言葉が、思考の底から湧き上がる。
声には出さずとも、脳裏に鋭く響き渡った。
「(これ……見掛け倒しどころか、ガチの方だ――!)」
瞬間、クトゥルの中で何かが切り替わる。
邪神としての仮面の奥、冷徹な判断力が稼働を始めた。
一つ確かなのは――この獣王は、単なる敵ではない。
ここから始まるのは、ただの力比べではなく、命を賭けた覇の試練だ。
静寂の中、戦の予兆が、荒野に音もなく燃え広がっていく――。
―――
朝の光が霞む――死者の荒野。
遥か昔、幾多の戦いと死を呑み込んだこの地は、もはや命の気配すら希薄だった。
大地は乾ききり、亀裂の走った岩肌がむき出しとなり、枯れ果てた草が風に揺れては、すぐに砕けるように消えていく。
吹き渡る風には、生の温もりよりも、死の静寂が濃く漂っていた。
その中心に、ひときわ異彩を放つ魔獣の姿があった。
――魔獣ティグリス・グラディウス。名は、ルドラヴェール。
深紅の毛並みに、漆黒の縞が浮かび上がるように刻まれている。
燃え上がるようなその色彩は、朝日を受けてさらに光を増し、見る者すべてに畏れを抱かせる威容を誇っていた。
しなやかに揺れる尾は、鋼のような光沢を放ち、陽光を受けて鈍い剣のような反射を返す。
サーベルタイガーを思わせる長く鋭い牙は、過去に葬ってきた無数の敵の存在を語り、何より、この荒野に君臨する王である証でもあった。
その獣王は、巨躯を堂々と横たえ、岩塊の頂で陽を浴びていた。
鋭利な耳がわずかに動き、周囲に集う猛獣たちの声を捉える。
「グル『訳:邪神ガ復活シタラシイ』」
荒野の猛獣たちが、ざわついていた。
その声の中には、震えを含んだ者もいた。
岩陰に身を潜め、怯えたように語る者もいる。
誰もが、遠くで蠢く異様な気配に、本能的な恐怖を感じ取っていた。
だが、ルドラヴェールは鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべる。
「…フン…邪神ダト?…ソンナモノイルワケガナイ…」
低く唸るような声が、地の底から湧き上がり、周囲の獣たちの胸を打つ。
その言葉には揺るぎない確信と、支配者としての矜持が滲んでいた。
「ガウ『訳:デ、デスガ、ルドラヴェール様…』」
「クダラン噂ニ振リ回サレルナ。モシ本当ニ、邪神ガ現レタトイウナラ……俺ガ、コノ牙デ命ヲ狩リトッテヤルッ!」
荒々しくも堂々たるその宣言に、猛獣たちは安堵の息をつき、群れのあちこちで顔を洗い始める。
彼の言葉は、群れにとって絶対であり、最も強き者の保証であった。
ルドラヴェールは満足げにひとつあくびを噛み殺し、再び陽光に身を任せてくつろぎ始めた。
しかし――その静寂は、そう長くは続かなかった。
数時間後。
死者の荒野に、異様な気配が染み込むように広がり始めた。
それは熱でも冷気でもない、異質そのものの圧。
ルドラヴェールの耳が、反射的にピクンと反応する。
風の流れが淀み、空気が重く沈む。
乾いた砂が不自然な渦を巻き、荒野の天と地が変質していくのがわかる。
群れを成す猛獣たちは、一斉に身を低くし、音もなく影へと消えた。
獣の本能が告げていた――あれは、ただの敵ではない。
ルドラヴェールの毛並みが逆立ち、全身を緊張が走る。
鋭いエメラルドの瞳が遠くを射抜き、岩陰に浮かぶ二つの影を捕らえる。
一つは、人の姿をしていた。
だがその身にまとわりつく気配は、明らかに人のものではなかった。
空間をねじ曲げるほどの異質。まるで存在そのものが、この世界の法則にそぐわないかのような違和感。
もう一つは――説明不要。邪神。そのもの。
巨大な触手が蠢き、全身には無数の眼が浮かび上がり、視線を注いだだけで魂が侵されるような恐怖をもたらす。
その存在感は荒野に満ち、まるで世界がそれを認識し、ひざまずいているかのようですらあった。
「フッ……我と遊びたいとは……随分と愚かなる存在よ。よかろう、出てくるがいい!」
声が響いた瞬間、ルドラヴェールの前足が反射的に地を打った。
すでに気配は感知されていた。隠れるという選択肢は、もはや意味を成さない。
逃げるか。否。
「(ヤルシカナイッ…)」
仲間に宣言した以上、この場から退くことは王の矜持に反する。
ルドラヴェールは全身に力を込め、大地を蹴った。
次の瞬間には、邪神たちの目前に姿を現す。
牙を剥き出しにし、鬣を逆立て、猛獣の王としての威厳を全身で示す。
「俺ハコノ地ヲ支配スル……王ルドラヴェール――貴様ニ勝負ヲ挑ムッ!」
乾ききった風が、ゆるやかに二者の間を吹き抜ける。
――邪神と、獣王。
死者の荒野に、いま新たな戦の火蓋が切って落とされた。
―――
巨大な岩山に囲まれた荒野。
吹き荒ぶ熱風が砂を舞い上げ、地面には無数の獣の骨が転がっていた。
乾ききった大地は、長い間雨が降っていないことを物語っている。
「…エリザベート…あの獣は…なんだ?(ちょっ…何だあの生き物…見たことないぞっ!?)」
エリザベートが静かに口を開いた。
「分かりました、あの魔獣についてお話しします。」
彼女の指が示した先、荒野の中央に一匹の巨大な獣がいた。
全身を覆う漆黒の縞模様と炎のような赤の毛並み。
獰猛な瞳はエメラルドグリーンに輝き、立派なたてがみ、2本の長い牙を持ちまるで獲物を狩る虎そのものだった。
見る者に圧倒的な存在感を与えるその姿は、まさに荒野の支配者に相応しい。
「あれは、ティグリス・グラディウス……幻獣種の魔獣です。極めて珍しい個体で、なおかつ非常に強力な存在とされています。仮に討伐依頼をするなら…ダイヤモンドランクに相当します。」
クトゥルはその名を反芻しながら、冷や汗をかいた。
「(ダイヤモンドの冒険者がどれだけ強いか分からないけど…やばい。めっちゃ強そうなんだけど…っ!?。)」
心臓が早鐘のように鳴る。しかし、すぐに冷静さを取り戻そうと努めた。
「(いや、待て……俺にはエリザベートがいる。彼女に任せればいいじゃないか。)」
戦闘は得意ではない。むしろ、戦う術など持ち合わせていない。クトゥルが誇るのはただの“音をだすだけ”の能力。それも、敵を直接倒せるわけではない。
こんな魔獣相手に自分が勝てるはずもなかった。
「エリザベート。お前なら余裕で……」
そう言いかけた瞬間、エリザベートの瞳が歓喜に震えた。
「クトゥル様が戦うに値する、これほど素晴らしい魔獣が存在するとは……!」
心底嬉しそうな声だった。
「(……え?)」
クトゥルは呆然とした。彼女は完全に戦う気でいると思っていたのに、まさかの期待に満ちた眼差しを向けてくるとは。
「(いや、そういう空気になるのはやめろ! 俺が戦う流れになってるだろうが!)」
しかし、拒否するわけにもいかない。
エリザベートの期待を裏切るのはできない、何よりここで弱腰を見せれば威厳が損なわれる。
そうこうしている間に、赤黒き魔獣は大地を踏みしめ、ゆっくりと歩を進めていた。その瞳がクトゥルを鋭く射抜く。空気が張り詰める。
「(……もうダメだ。完全に俺、狙われてるじゃん。)」
クトゥルは心の中で絶望した。しかし、表情には出さず、不敵な笑みを浮かべる。
「ククク……面白い。我が眼前に立つとは、貴様も愚かなり。(頼む……降参してくれ。)」
しかし、そんな願いが叶うわけもなく。
「グル…勝負ダ…邪神ヨ…」
「(あぁ…死んだわ…)」
―――
荒涼とした大地が果てしなく広がる。巨大な岩山に囲まれたこの荒野は、生き物の気配すら薄い。吹き荒れる熱風が砂塵を巻き上げ、視界を曇らせる。地面には無数の獣の骨が散乱し、この地を訪れた者たちの末路を物語っていた。
その中央に、二つの異形が対峙する。
一方は、虎に似た魔獣ティグリス・グラディウスの希少種――ルドラヴェール、
そして、その対面に立つのは(見た目は)禍々しき邪神――クトゥル=ノワール・ル=ファルザス。
彼の全身を覆うのは、這い回る無数の触手。
千の眼が怪しく光る。まるで宇宙の真理すらねじ曲げる絶対者のような威圧感を放っていた。
だが、クトゥルは構えていない。
いや、構えられないのだ。戦闘経験が皆無の彼にとって、どう身構えるべきかすら分からなかった。ただ、堂々と立ち尽くしているだけ。
クトゥルの姿を見て、ルドラヴェールは動けなかった。
「…(何ダ…コノ邪神…隙ガアリスギル…コレナラ勝テル…イヤ、待テ。コレハ罠カ……ソレトモ、構エルニ値シナイト言ウノカ…?)」
相手には隙がある。大きすぎるほどの隙だ。
しかし、その堂々とした姿勢が逆に違和感を生む。圧倒的な自信か、それとも計り知れぬ策があるのか――警戒心が獣の本能を鈍らせた。
クトゥルは、ゆっくりと腕――いや、無数の触手を広げる。
その動きは、まるでこの世の理を歪める神の顕現のようだった。
「ククク……貴様には理解できぬだろう、この次元を超えた恐怖がな!」
彼の声が響き渡る。
ルドラヴェールの耳には、それが宣告に聞こえた。
その瞬間──
《オール・オブ・ラグナロク(サウンドクリエイト)》発動。
――ドオォォォン!!
天地が裂けるかのような轟音が荒野を揺るがす。
雷鳴のような爆音が突如として響き渡り、大地が揺れた……いや、揺れていないのだが、ルドラヴェールの身体が硬直する。
「ッ!?(コレハ…ヤバイッ……)」
ルドラヴェールの獣としての直感が告げる。
迂闊に動けば、命を…落とす。
「ククク…動かなかったか…賢い虎だな…(ふぅ…と、とりあえずサウンドクリエイトのハッタリが効いてる?…いいぞ!)」
「(ヤ、ヤハリ…動クト…俺ハ死ンデイタノカッ……!?)」
「だが、すでに貴様は我の手の中だ(頼むから…向かってくるな…?)」
クトゥルは、神々しくゆっくりと腕を上げた。まるで先ほどの轟音が、単なる“前哨戦”であったかのように。
「これは始まりに過ぎん……次の一撃で、この地を虚無へと変えてやろう……」
ゴゴゴゴゴゴ……!!!
大地が震える。
否、震えているように“感じる”だけだった。
クトゥルのスキル、《オール・オブ・ラグナロク(サウンドクリエイト)》によって、ただ地鳴りのような音が発生しているに過ぎない。
だが、ルドラヴェールにはそうは思えなかった。
「(コノ邪神……何ヲシテクルッ…!?)」
揺れていないのに、まるで地面が割れ、奈落が生まれようとしているような錯覚を覚える。次の瞬間、脳内を駆け巡る本能の警鐘。
「(ヤラレル前ニヤッテヤルッ!!)」
ルドラヴェールは跳躍した。鋭利な牙を剥き出し、殺意とともにクトゥルへと突進する。
だが、その瞬間――
「ククク……せいぜい、我を退屈させぬよう足掻いてみせよ……(ひぃっ!?や、やばっ!来るなぁぁっ!!?)」
内心の悲鳴を押し殺しながら、クトゥルは咄嗟にルドラヴェールの耳元へ『絶叫』の音を放った。
■■■■■■■■■■―――!!!!
それは、ただの“前世の田中太郎の悲鳴”だった。
だが――
「……!?耳ガァッ……ッ!!」
ルドラヴェールの意識が揺らぐ。
頭蓋に響く異様な振動。バランスを崩し、着地のタイミングを誤った。
「コノ音ハ…ナ、ナンダッ!?(ミ、耳ガッ!?)
震える耳を押さえ、ルドラヴェールは警戒の色を深める。
クトゥルは、内心(俺の悲鳴なんだけどな)と突っ込みながらも、顔には余裕の笑みを浮かべる。
「フフフ……恐怖を知ったか、愚かな魔獣よ……」
圧倒的なハッタリの前に、獣の本能が揺らぎ始めていた。
「す、すごいです…クトゥル様の攻撃がまったく見えませんっ」
エリザベートの声が、戦場に高揚をもたらす。彼女の長い髪が風に揺れ、隠された瞳がキラキラと輝く。彼女は、自らが崇拝する邪神クトゥルの戦いに、畏怖と歓喜を抱いていた。
■■■■■■■■■■―――!!!!
それは、悪夢の具現とも言うべき音だった。
「グゥッっ… ミ、耳ガッ…!!」
ルドラヴェールの咆哮が、苦痛に染まる。エメラルドグリーンの瞳が強く閉じられ、黒い爪が耳を押さえようとする。しかし、それでも逃れられない。
クトゥルは必死だった。連続してサウンドクリエイトで絶叫をルドラヴェールの耳元に響かせる。
だが、その必死さを微塵も表に出さない。
「フフ……貴様の魂が削れていく音を聞くがいい……(頼むから攻撃してくるなよ!?)」
彼は心の底で戦々恐々としながらも、あくまで余裕のある邪神を演じ続けた。
ルドラヴェールの体が一瞬、戦慄に包まれる。
「ッ!?(タ、魂ヲ削ル…ダト。ソ、ソンナ能力…キ、聞イタ事ガナイっ!)」
耳をつんざく音が、まるで魂を蝕むかのように錯覚させる。
脳内に直接響き、思考を揺さぶる。焦燥と混乱が絡み合い、冷静さを奪っていく。
「……滅びの刻を噛み締めるがいい……!」
■■■■■■■■■■―――!!!!
「ウオォォォッ!?ヤ、ヤメロォォッ!!!」
ルドラヴェールの巨体が揺れる。前足が地面を踏みしめるが、踏ん張りきれずに後退する。
クトゥルは、その様を見下ろし、悠然と口元を歪ませた。
「貴様の誇り高き牙も……この邪神クトゥルの前では、脆い牙に等しいっ……!(頼むから折れてくれ……!)」
心の中で祈りながら、クトゥルはさらに一歩、前へと踏み出した――。
クトゥルはゆっくりと歩み寄った。
その禍々しい異形の体から伸びる無数の触手が、風に揺れながら不気味に蠢く。
赤黒く脈打つ肉塊のようなそれは、生き物のようにうねり、獲物の息の根を止める蛇のようにルドラヴェールを包囲していた。
「ククク…貴様の負けだ…」
「…」
――ルドラヴェールは、跪いた。
エメラルドグリーンの瞳が、畏怖に染まる。
足元にまで響いていたあの狂気の絶叫が、突如として消え去る。
「……ッ!?」
その瞬間、ルドラヴェールは思わず顔を上げた。
クトゥルの千の眼が、闇の中で鈍く光る。
しかし、次の瞬間――
その不気味な異形は、すうっと形を変えていった。
触手は収束し、醜悪な眼は闇へと沈み、異形の塊はゆっくりと、人の姿を取る。
その手が伸び、王者のごとく優雅に差し出された。
「我の覇道に付き従うに足る器よ。…」
クトゥルの声は深く、神秘的に響く。
「貴我が眷属として認めてやろう。……感謝するがいい。(頼むから降伏してくれ……!俺、攻撃力ないからっ!!)」
――だが。
ルドラヴェールは、異形の王を見つめ、静かに息を呑んだ。
この異常な威圧感。
敵を恐怖させるだけでなく、同時にその力に陶酔させるような威厳。
「(……コ、コレガ……)」
ルドラヴェールは気づいた。
――これこそが、真に頂点に立つ者の風格。
相手を支配し、圧倒し、決して逆らおうという気さえ抱かせないものこそが、「王の強さ」なのだ。
――目の前にいるこの邪神は、まさにそれを体現している。
ルドラヴェールは、己の巨体を伏せた。
「……俺…ノ…負ケデス。…」
静寂の中で、下あごが大地に触れる。
砂塵の舞う戦場で、ルドラヴェールが服従する。
「(あ、あぶねぇぇぇっ!! 牙を突き立てられたら痛いどころじゃないだろっ!!)」
クトゥルは、心の中で安堵の悲鳴を上げつつも、顔には決してそれを出さない。
堂々と立ち、威厳を漂わせながら、覇道を歩む王の如く振る舞う。
「流石、クトゥル様ですっ…私、感動しましたっ」
こうして――
魔獣ルドラヴェールは、邪神クトゥルに忠誠を誓った。
――すべては、ただのハッタリによる勝利である。
―――
長い時間、果てしない荒野を歩き続けてきた。
熱を失った大地は固く、歩くたびに砂塵が舞い上がる。
足を踏みしめるたびに、硬直した筋肉がじわじわと軋み、やがて感覚すら怪しくなってくる。
邪神クトゥルはふと、自分の脚を見下ろした。
「(……なんか、足が棒になった気がする)」
もちろん、実際にはそんなことはない。
ただの疲労の錯覚だ。
だが、彼にとっては深刻な問題だったが、
それが今、それが解消されようとしている。
「…(こいつ…乗りやすそうだな…)」
クトゥルは、少し後ろを付き従うように歩く魔獣ルドラヴェールを見る。
体長は2メートルを超え、高さは180cmを越える巨体。
横幅も大きく実に乗り心地が良さそうな存在だ。
「?…ドウカナサイマシタカ…?」
野生の本能か、クトゥルの視線にいち早く気付いたルドラヴェールは問う。
「…ルドラヴェールよ…お前に眷属となって初めての仕事を命じる…我をお前の背に乗せ運ぶのだ…(疲れたし乗りたい…)」
「…」
ルドラヴェールが突如、沈黙する。クトゥルは怒ったかと内心ビビり散らかしていたが、ゆっくりと体を下げていく。
「っ!?コノ俺二命ヲ下シテイタダケルトハ…アリガタキ幸セッ」
「(ふぅ…怒ってないみたいだな…よいしょっと…)」
跨るとルドラヴェールの体温がクトゥルに伝わる。
熱くはなく、かなり心地よく横になったら眠くなりそうな丁度良い温度だった。
「…私も乗りますっ…クトゥル様っ」
クトゥルが乗ったのを確認したエリザベートは、目を輝かしながら彼の後ろに腰かける。
しかし、ルドラヴェールは機嫌が悪そうに喉を鳴らす。
「エリザベート殿。貴殿ヲ乗セルトハ、俺ハ言ッテイナイ…降リテモラオウ…」
「……私は、クトゥル様の最初の信者よ。いわば、貴方の先輩なの…少しは、敬いなさい…」
クトゥルを見る目とは明らかに違う凍るような冷たい視線をルドラヴェールに送る。
「ワカリマシタ…」
若干の不満を残しながらもルドラヴェールは立ち上がる。
魔獣ルドラヴェールの背に乗り、クトゥルたちは広大な死者の荒野を楽々と進む。




