封じられし混沌
ゴロゴロッ――!!
低く唸るような雷鳴が、遠雷として空を揺らす。
それは単なる嵐の前触れではなかった。
その日、空は突如として曇天に覆われ、光の名残を一瞬にして奪い去る。
雲は墨を流したように濃く、重く、天蓋のごとく地上を覆い尽くす。
そしてその只中に、黒き雷が奔った――世界の理が、音を立てて崩れ落ちる瞬間であった。
天は裂けた。まるで見えざる巨人が天幕を引き裂いたかのように、虚空が開き、黒き深淵が世界を呑み込む。
大地は呻き声を上げ、ひび割れ、その奥深くから不吉な振動が連鎖的に広がっていく。
山が揺れ、海が泡立ち、空気そのものが濁っていくようだった。
光なき嵐――混沌の風が吹き荒れ、時間と空間の境界がゆらぎ、ねじれ、軋みを上げながら世界は悲鳴を上げた。
そして、その歪みに穿たれた裂け目より、現れた。
闇そのものから這い出でた、邪悪なる何か。
それは、この世の理を嘲笑うかのように、存在するだけで周囲の現実を侵食していく。
「クククッ…」
不快に濁った声が空間を震わせ、耳ではなく心に直接響く。
ぞわりと背筋を這いまわる感覚の直後、闇の中に幾千もの眼が浮かび上がった。
その瞳が動くたび、視線の先で世界が崩れ、空間が悲鳴を上げて砕け散る。
粘り気を帯びた赤黒い触手が、ぬめりと音を立てながら地を這い、そして天へと伸びていく。
その一振りで、大地は裂け、雷鳴が天地を引き裂き、秩序という名の構造体が崩壊していく。
――それは三メートルを優に超える異形。だが、それだけでは終わらない。
その周囲には、同じく常軌を逸した異形たちが蠢き、呻き、空間を侵しながら犇めいていた。
見る者の正気を食らうようなその光景に、人々の心は一瞬で染め上げられる――恐怖に。
逃げ場のない絶望が意識を侵し、魂は狂気の深淵へと突き落とされていく。
――その名は『■■■』。
名を口にすることすら禁忌とされる、混沌の邪の˝神˝。
その存在は世界に恐怖と絶望を種として撒き、芽吹かせ、拡げていく。
あの日を境に、世界は確かに変わった。
人々は後に語る。
「あれは、世界が終わる日だった」と――。
―――
午後の日差しが静かに差し込む教室。
窓際の一番後ろの席に、一人の少年が座っていた。
黒髪を無造作に伸び、髪は光を受けてわずかに揺れ、その焦げた茶色の瞳は、ぼんやりと窓の外を眺めている。
袖口から覗く手首には、白い包帯が巻かれていた。清潔ではあるが、どこか痛々しいその包帯は、何かを隠すかのようにしっかりと巻かれている。
クラスメイトのざわめきも、彼の世界にはほとんど届いていないようだった。
ただ窓の外に広がる空を見つめ、息をつく。
それは、誰にも知られぬまま、ただそこに˝いる˝というような、そんな佇まいだった。
「ククク……ついにこの時が来たか……我が復活した日だっ(今日から俺も18歳かぁ~。実感ないな…)」
教室の隅、田中太郎は片手を肘に当て、もう片方の手で片目を覆う。
指の隙間から覗く視線は、まるで全てを見通すかのように冷たく、窓の外へと投げかけられていた。
田中太郎(18歳)。それが彼の名前。
しかし、彼自身はそれを『仮初の名』に過ぎないと考えている。
――真の真名を聞けば、世界は混沌に包まれ滅びる。
そう信じて疑わない彼だが、現実は父親は会社員。母親はハート社員の間で生まれたただの平凡な日本人にすぎなかった。
「……は?…田中、何ブツブツ言ってんの?…まじで五月蠅いんだけど…」
隣の席から聞こえたのは、呆れたような声。
名を佐藤ライト。サッカー部に所属し、イギリス人のハーフでクラスの人気者。帰宅部であり、存在感の薄い太郎とは対極に位置する青年だ。
「フッ……聞こえてしまったか…佐藤(仮名)。我の対となる存在の貴様でも理解できないか…やはり、我しか真の意味は理解できないのだな…(分からなくても良いけど、話しかけるなよっ!…)」
「…うわ、やっぱ……こいつヤベェ…」
佐藤は軽く肩をすくめ、前を向いた。
一方の田中は、やれやれとジェスチャーをしつつ、窓の外へと視線を戻す。
「……ククク、我の対となる存在の癖に…実に愚かだ。…この闇の空を見ても分からんとは…」
彼の目の前に広がるのは、どこまでも続く漆黒の空――否、ただの曇天の空だった。
――そう…彼、田中太郎は中二病なのである。
本来なら思春期真っただ中に発症する症状で、年を重ねることで収まっていくのが普通だ。
だが、しかし。田中太郎は未だに自分には特殊な力があると思い込んでいるのである。
「…田中っておかしいよな…」
「…あぁ…あれだよな…中二的な…」
「嘘だろ…?そんなの中学生で卒業するはず…」
「同じ人間なのに佐藤くんと全然違うわ」
「佐藤君って本当イケメンだよねっ…田中は不細工じゃないけど、普通ね」
「ほんと…可哀そうになるわね…」
「うっ…こっち見た…きっも…」
「ちょっと…辞めなよ…確かにきもいけど…」
佐藤の周囲には、クラスメイトたちが集まり始めていた。
彼らの視線は田中に向けられ、何とも言えない空気が漂う。
そんな彼らを見て、田中は深くため息をつく。
「……精々、余生を楽しめ…。…我がこの身に秘められし『闇の力』を解放するまでなっ(くそっ!バカにするな、無能どもがっ!…佐藤め…ちょっと外国人のハーフでイケメンで彼女いて友達いて金持ちだからって調子乗るなよっ!)」
―――
そんな田中太郎の人生は、その日に突然終わりを迎えた。
「……目覚めましたか、異邦の者よ」
「……ん?」
意識がゆっくりと浮上し、まどろみの中で太郎は目を開けた。
そこは闇に包まれた空間だった。
見渡す限りの闇。まるで夜空のように果てしなく、しかし星の瞬きひとつない虚無の空間。
そのただ中に、ローブを纏った何者かが浮かんでいた。
長くたなびく衣の裾が、風もないのにゆらりと揺れる。顔はフードに隠され、まるで神のような威厳を放っていた。
「私は複数の異世界を管理する者…『創造主』と呼ばれていますね」
重々しく響く声。その瞬間、太郎の脳内に電撃が走った。
「(っ!? おっ♪これ異世界転生…?…俺にも…ついに…来たか!この時がっ…!!)」
太郎の口元がわずかに歪む。
彼は半身で片手でもう片方の手首を掴むと、低く笑った。
「フッ……ついに封印が解かれる時が来たというわけか……!」
「……?田中太郎…貴方が何故死んだか理解していますか…?」
創造主の問いに、太郎は少し考え込むように顎に手を当てた。
「…確か…無垢なる天使が鋼鉄の馬に襲われていた…そこに我が相対したはず…」
「…??何を言ってるのですか…? 道路に飛び出した子供が車に轢かれそうになったのを貴方が助けたのでしょう…?」
田中太郎の死因。それは、交通事故である。
意外にも、田中太郎は変なこと言ってる面白いお兄さんとして子供には人気だ。
しかし、親には不人気のようで、親は彼を見ると子供を連れ速足で帰ってしまう。
そんな中、道路に飛び出そうとする子供がいた。
太郎は考える。
闇の力を持つ自分なら車を受け止めることができる、と。
田中太郎は子供を守るため飛び出す。
そして、子供を突き飛ばすと手で車を防ぐ――なんてことは一般人に出来るわけもなく、彼は車に轢かれ享年18歳という若さで人生の幕を下ろすこととなった。
「何を言う…我は先ほどから申しているだろう…?」
創造主は一瞬黙り込み、静かに太郎を見つめた。
「……」
長い沈黙が流れる。
「…田中太郎…質問にちゃんと答えなさい。貴方の年齢は…?」
「くくくっ…鋼鉄の馬を操る資格を得た歳だ(誕生日に死ぬなんて…はぁ…)」
「……はぁ……まぁ、良いでしょう(これは…あれですね…思春期が発症すると言う症状なのでしょう…)」
創造主は太郎を慈悲のある表情で眺めると、再び静かな声で告げる。
「貴方は、世界の宝である子供の命を救いました。その功績をたたえ、異世界に転生させてあげましょう…」
「ふっ…創造主よ。我が探求の旅路に必要な情報だ……教えてもらおうか。」
「…いいでしょう…質問を許可します…」
数々の転生者を世界に送り出してきた創造主は、相手の考えがある程度わかっているため、ツッコむことなく、太郎の質問を待つ。
「我の魂が渇望するのだ…それは未だ見ぬ禁忌の力…それを、貴様は与えることができるのか…?『訳:すごいスキルが欲しいです。スキルを貰えるますか…?』」
「………禁忌の力…なるほど、特殊能力ですね…?何か希望があれば、1つ授けましょう…」
「しばし、待つが良い」
「はぁ……」
創造主は、ため息をついているが、田中太郎は気にすることなく考える。
異世界で無双するために、どんなスキルが必要か。
優れた剣技を考える。
太郎は、竹刀を握ったことすらない帰宅部だが、スキルを貰えれば有用なスキルだろう。
だが、剣が無かったらどうなるのだろう。太郎は頭を振る『却下だと』。
次に思いついたのは、強力な魔法。
剣技より有用性が高い。それに、直接的な戦闘ではないため比較的、安全に相手と対峙できる。
だが、転生した体に魔力が無かった場合はどうだろうと考える。
もし、転生体に魔力が備わってなかったら、どんな強力な魔法があっても宝の持ち腐れである。
田中太郎は考える。魔法ではなく、ただのスキルなら魔力を消費せずにイケるのではないかと。
彼は数分、考え込むとゆっくりと創造主を見つめる。
「我が欲する力は魔法など生易しいモノではない。我が声は天を裂き、雷鳴すら跪かせる――
我が求むは、世界を震わせる響きだ。」
「世界を震わせる響き…?……ほぉ…なるほど。私では思いつかないユニークな能力を欲するのですね」
創造主は口で太郎の言葉を紡ぎ、彼の言葉を通常の言語に変換すると、静かに頷いた。
「ふん。無駄だ…いくら讃えようと、我が深淵より恩恵が降りることはない…!」
「…分かりました……無垢なる子供を助けた褒美です。貴方が望む能力を授けましょう」
「この我が直々に感謝という概念を口にするとはな……貴様も誇るがいい。!(ふふふ。俺も異世界で最強能力を使って無双できるようになるんだなっ!)」
田中太郎は、平静を装っていた。
しかし、その唇の端はわずかに歪み、抑えきれない歓喜が滲んでいる。
頬の筋肉がわずかに引きつり、興奮を押し殺そうとするも、胸の奥から湧き上がる熱い衝動を抑えることはできなかった。
「我が新たな地で爪痕を残す!…ククク、血が騒ぐぞ!(くぅっ!めっちゃ楽しみだなっ)」
「さあ、田中太郎……転生の時間です。貴方の魂を解析し、私が創りし体を与えます。……思う存分、人生を謳歌して下さい……」
その声は優雅でありながら、どこか機械的な響きを孕んでいた。
しかし、太郎はそんなことなど気にも留めなかった。
「ふん! 我の『力』を愚民どもに知らしめてやろう!」
太郎は腕を組み、顎を少し上げ、傲然と宣言する。
視線は鋭く、まるで全能の存在であるかのように振る舞った。だが、創造主は静かに彼を見つめるだけで、特に反応を示さない。
次の瞬間――
太郎の上空から闇が降りてきた。
彼の意識は、奈落の底へと沈んでいく。
周囲の光が消え失せ、世界が黒一色へと染まる。身体が消え去り、形すらも失われていくような錯覚に襲われる。
深淵の中を落ち続ける感覚が、永遠のように続いた。
――これは、新たなる幕開け。
暗黒の中で、太郎の胸は高鳴っていた。
―――
果てしなく広がる無限の闇。その静寂の中で、創造主はただひとり、静かに佇んでいた。
暗黒の中に漂っていた魂――田中太郎の魂は、今まさに転生の門をくぐり、別世界へと旅立った。
その身を包み込んでいた闇が収縮し、やがて完全に消え去ると、そこには深淵の静寂だけが満ちていく。
創造主は、ぼんやりとその光景を見届けると、先ほど送ったばかりの田中太郎のことで考え込んだ。
「…今思えば………妙ですね……。」
創造主はゆっくりと首を傾げた。
創造主は、今までにたくさんの魂を異世界へ送り出してきた。
勇者、賢者、ヒーロー、そして時には悪役や魔王まで。だが、その中でも田中太郎ほど奇妙な者は未だかつて存在しなかった。
普通、人は転生の機会を与えられれば、望むものはだいたい決まっている。
比類なき剣技。
強力の魔法。
天才的頭脳。
あるいは、世界を支配するほどの魅力――。
これまで異世界へと旅立った者たちは、皆、そうした強さを求めてきた。
だが、田中太郎は違った。
「なぜ、彼はあんな……能力を欲したのでしょうか……?」
創造主は、静かに目を閉じ、深く考え込む。
彼が望んだ能力は、創造主が今まで与えてきたどんな"強さ"とも異なっていた。
あまりに突拍子がなく、意味不明で、到底理解しがたい。
それでも――彼はその能力を手にした瞬間、まるで長年求めていた宝を手に入れたかのような、満面の笑みを浮かべていた。
まるで、あの能力こそが最強であると信じて疑わぬように。
創造主はふっと息を吐き、目を細める。
「……ふむ…」
もしかすると、彼は創造主の想像を超える存在なのかもしれない。
あるいは、ただの奇人なのかもしれない。
だが、どちらにせよ――
彼の歩む道がどこへ続くのか。
それが創造主には気になって仕方がなかった。
しかし、世界の理により創造主は異世界に旅立った転生者には干渉することができず、姿を確認することができない。
「……こればかりは、仕方ありませんね…」
再び目を開く。
その瞳には、淡い光が宿っていた。
これほど奇妙な転生者が、この先どんな道を歩むのか。
世界を救うのか。
それとも、破滅へと導くのか。
いずれにせよ――
「田中太郎の転生した異世界は面白いことになりそうですね」
創造主は微笑み、静かに天を仰ぐ。
すると、その視線の先で、新たな変化が起こった。
田中太郎が旅立った場所――そこに、また新たな魂が降り立ったのだ。
そう、田中太郎と同じ異世界に転生させて貰える運が良い青年である。
「ふぅ、今日はペースが早いですね……仕事を再開しましょう――こほん…目覚めましたか、異邦の者よ」
柔らかな創造主の声が闇に響く。
―――
荒廃した大地に、冷たい風が吹き荒れていた。
月の光すら届かぬ闇の空の下、古びた館がひっそりと佇んでいる。
大地に突き立つように建てられたその城館は、漆黒の石材で構成され、表面にはまるで血のように赤い筋が走っていた。
主屋は三つの尖塔を持ち、正面中央の大扉へと続く石畳の道は、左右を血のような赤黒いバラで縁取られていた。
扉そのものもまた重厚な黒檀と赤鋼で造られた双開き扉で、表面には「棘薔薇」の紋章が刻まれている。
荘厳の館の一室。
そこは闇に包まれていた。わずかな燭台の火が、壁に揺らめく影を落とす。
ぼんやりと照らされた部屋には、天蓋付きベッドが置かれ、さらに、ひときわ異彩を放つものがあった。
それは、敷き詰められた絨毯。
暗赤色に染まったその布には、無数の目玉が刺繍されていた。それらはただの装飾ではなく、まるで意思を持つかのように鈍く光り、闇の中で微かに蠢いているようにも見える。
そんな奇妙な部屋の中で、影がゆっくりと動き出した。
身に纏うのは深紅と漆黒の入り混じったバラをモチーフにしたドレス。
死人のような肌の女。
両目には血涙のようなアザ。
目は血のように赤く、虹彩にはバラのような幾何学模様が浮かんでいた。
どこか異界の気配を孕んだ不気味な気配を放っている。
だが、それにも関わらず、彼女の体躯は驚くほど女性的な曲線を描いていた。
服越しに隠されているはずの肢体ですら、隠しきれぬ輪郭を主張する。ことに、豊かに張った胸元は、呼吸にあわせてわずかに揺れ、否応なく視線を引き寄せる。
髪は、深淵の闇をそのまま編み上げたような、漆黒の色。
月明かりを受けてもなお光を吸い込むように沈み、まるでこの世の色ではないかのように思わせた。だが、それは彼女本来の髪色ではない。
もともと、彼女の髪は金色だった。
燦然と輝く黄金の髪。
だが、今のそれは意図的に染められた黒だ。
彼女はゆっくりと、まるで周囲の空気すら巻き込むような静けさの中で動いた。
足取りに音ひとつなく、滑るように机の前へと歩を進める。
そして、机の上に置かれた黒布をめくり、一着のローブと、一冊の古びた本を取り出した。
ローブは、どこか生きているかのようだった。
布とは思えぬ有機的な質感。
触れれば温かさすら感じられそうな皮膚のような感触。
表面には、まるで人間の血管のような奇怪な模様が走り、それがわずかに、確かに、蠢いているのが見えた。
ローブを身に纏うと、彼女の細く陶器のように白い指が、丁寧に表紙をなぞるとページをめくる。
そこには、異形の化け物が描かれていた。
鎧と肉塊が、融合したような姿にに無数の赤い目、蠢く触手。それは、まるでこの世ならざる存在を象徴するかのような、不気味な姿だった。
「……この本の通りなら…今日っ」
女は静かに囁く。
その声はどこか甘美で、しかし異様な熱を孕んでいた。
「…混沌の神…邪神様がこの世界に復活する日っ……」
彼女は本をそっと閉じると、その表紙を愛しそうに撫でた。細い指先が、異形の化け物の描かれたページを何度もなぞる。その動きは次第に熱を帯び、呼吸がわずかに乱れる。
彼女の目は、恍惚に染まっていた。
「……お迎えしなければ……」
呟く声は、歓喜と陶酔に震えていた。
「…待っていてください…邪神様っ…」
そして、彼女は再び静かに本を抱きしめると、その場に身を沈めた。
i977105
https://40098.mitemin.net/i977105/