九
あっという間に瑶珠殿に辿り着いた柴明は、扉を破らんばかりの勢いで中に飛び込んだ。そのまま奥の間まで進んだところで黄五娘を降ろし、自身は足早に寝台へと近づく。
置いていかれた黄五娘は、はっと気がつく。
衝立がない。寝台の帳すらも開かれており、中に横たわる人物―皇帝の姿が露わになっている。しかも、寝台のそばにはもう一人、豪奢な身なりをした女性が椅子に腰かけていた。高々と結い上げられた髷を彩る宝玉の数々。細やかな金の刺繍が施された赤い上着。そして、その豪奢な格好にも負けない、清らかな美貌。かつて、黄五娘は一度だけ彼女の姿を見たことがあった。間違いない。皇后である。
とっさに黄五娘はひれ伏した。己は彼らの尊顔を拝める立場にない。逃げることもできない。とにかく今は、ただただ頭を下げるしかなかった。
「面を上げよ」
柴明の声が頭上に降ってくる。だが、黄五娘は聞かなかった。そんな風に言われても、おいそれと顔を上げることはできない。贔屓にされている身ではあるが、自分は妃ではない。位など何一つ持っていない、しがない宮妓なのだ。
黄五娘が伏せたままでいると、再び柴明の声が降ってくる。
「早く面を上げよ。お前を罰することはない。それどころではないんだ」
焦っているのか、いやに早口であった。
しかし、巌にでもなってしまったかのように、黄五娘は微動だにしない。
身分のことを抜きにしても、顔を上げたくなかった。柴明の顔を見たくなかった。彼の奇跡を希うひたむきな視線に射られてしまったら、歌うことを拒めなくなる。
それとも、この場はひとまず歌っておくことが正解なのだろうか。
黄五娘は先ほどの雀を思い返す。今ここで歌を歌えば、あの雀と同じように皇帝も快復しないだろうか。否、そんなわけはない。雀がまた飛ぶようになったのは、もともとそこまで弱っていなかったからに違いない。己の歌はただの歌。奇跡の力など、これっぽっちもない。
――ほら、歌え。何も考えずに歌いなさい。
頭の中ではそのような声が響いている。呪いの言葉が疼いている。しかし、ばくばくと早鐘を打つ心臓が落ち着く気配はない。
黄五娘は歌うことしかできない娘である。同時に臆病な娘でもあった。今回ばかりは、その本能ともいえる元来の性質が勝った。咎めを受ける運命を知りながら、さらに罪を重ねる胆力など、黄五娘は一片たりとも持っていなかったのだ。
黄五娘の背中に、じっとりと汗がにじむ。
完全に、袋の鼠である。果たしてどこに活路を見出せばよいのか、まるで分からない。
なかなか顔を上げない黄五娘に業を煮やしたのか、柴明が舌を鳴らす。
「もういい。とにかく、歌ってくれ。曲はなんでもいい」
先ほどと同じく、口早に柴明は言う。皇帝の息があるうちにどうにかしてくれと、そう考えているのかもしれない。
しかし、黄五娘はうつむいたまま、だんまりを貫く。恐怖でこわばった心身は、頑なだった。
沈黙の中、ごろごろといびきのような音が響く。おそらくこの音は、皇帝の寝息であろう。聞く者を不安にさせるほど、苦しそうだった。
死の気配が迫る中、先に口を開いたのは柴明であった。
「病を治す、奇跡の歌ではないから歌えないと、そう思っているのか?」
黄五娘の全身が凍りつく。一瞬、心臓までも止まった気がした。
まさに単刀直入、あまりにも核心を突く問いだった。しかし何故、柴明は歌に病を治す力がないことを知っているのだろうか。戸惑いのあまり、黄五娘の口から疑問がこぼれた。
「どうして……?」
霞のような声は、瞬く間に空気に溶けた。だが、柴明には聞こえたらしい。「蘇秋香から聞いた」と、彼はため息混じりに答えた。
「先ほど、外でお前に声を掛ける前に、蘇秋香と出くわした。その時に、彼女が教えてくれた。お前の歌は、まるっきり嘘なのだと」
淡々と語られる言葉は、容赦なく黄五娘の心を抉る。
彼はすでに、真実を知っていた。
もはや活路など、探したところで無駄だ。鋭い牙は、すでに喉元まで迫っている。もう逃げ道はどこにもない。
今まさに食われんとする小鼠に、できることは何か。それは、静かに己の運命を受け入れること。
黄五娘は、ゆっくりと目を閉じた。そして思う。これが最期であるというのなら、洗いざらいすべてを白状するべきだ、と。そうしたところでなんの償いにもならないが、最期くらいは正直でありたい。それが、せめてもの誠意だ。
「……そうです。おっしゃる通りです。わたしの歌は、ただの歌です」
ようやっと絞り出した声は、ひどく震えていた。
「病を治す力も、ましてや死人を蘇らせる力などありません。わたしには何もできないのです。陛下をお救いすることはできません。申し訳ありません」
黄五娘は、さらに深々と頭を下げた。
額から、床の冷たさが伝わってくる。けれども、これからもっともっと冷たい場所に閉じ込められるのだろう。それとも、そんな間もなく首をはねられるのだろうか。黄五娘は、ぐっと両の拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。そうして、おののく心を痛みで叱咤しながら、先を続けた。
「嘘をついて、本当に申し訳ありませんでした。どのような罰もお受けします。わたしがすべて悪いのです。ですから、どうか妓楼の鴇母は⋯⋯」
「嘘だろうが構わない。歌ってくれ」
黄五娘の言葉を柴明が遮った。
意表を突かれた黄五娘は、思わず顔を跳ねあげた。あの、ひたむきな視線とぶつかる。
どういうわけか、彼はまだ黄五娘の歌―まがい物の歌を、信じているようであった。わけが分からず、黄五娘は声を荒らげた。
「どうしてですか? どうして、そんなにも歌えというのですか?」
「瑜娘⋯⋯そこにいるのかい」
ふと、か細い声が聞こえた。