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瑜娘伝  作者: 平井みね
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 顔を見ずとも、誰の声であるかはっきりと分かる。

 黄五娘は、よろよろと立ちあがった。逃げようと思ったものの、しかし相手の方が速い。慌ただしい足音があっという間に近づいてきて、止まる。


「どうしたんだ」


 再び低い声が問う。黄五娘は恐々と顔を上げた。案の定、柴明の鋭いおもてがあった。


「今そこで秋香しゅうこうと……」


 言いかけて、柴明は口をつぐむ。彼の厳しい目が、しかと雀を見咎める。

 黄五娘は唇を噛みしめた。この状況、何から弁明すればよいのだろう。

 柴明はじっと雀を見つめている。やがて、彼は言った。


「その小鳥、まだ生きているのではないか?」

「え……?」


 黄五娘はまじまじと手中を見た。刹那、雀の片足がぴくりとうごめいた。黄五娘は息を呑む。


「温めてやれ」

「は、はい!」


 言われた通り、黄五娘は雀の体を布で包みなおすと、その小さな布の塊を必死にさすった。少しでも己の熱が移るように、何度も何度もさする。しかし、小さな体が動き出す感触はない。黄五娘の瞳が再度潤んできたとき、柴明が言った。


「歌ってみたらどうだ。気付けになるかもしれない」


 思わぬ発言に、涙は一瞬で引っ込んだ。黄五娘は目を丸くして柴明を見やる。今ここで、歌うことを求められるとは思ってもみなかった。まさか、彼はそこまで黄五娘の歌を信じているというのか。

 何故歌えと言ったのか定かではないが、しかしながら柴明の表情も、その瞳に宿る光も、至極真っ当であった。鋭利ではあるが、その鋭さの中に侮蔑の色はない。

 黄五娘は、似ていると思った。柴明の面に、病を治してくれと懇願してきた老人の影が差す。あのとき、彼もこのような眼差しで、一心に見つめてきた。


 わずかな逡巡の後、黄五娘は口を開いた。

 薄く紅を塗った唇から、素朴な調べが流れだす。先ほどと同じ子守歌である。しかし、先ほどよりもずっと澄んだ歌声であった。

 一通り歌い終え、また初めから繰り返そうとしたとき、手中の小さな包みがにわかに蠢きだした。黄五娘は慌てて包みをほどく。途端、一羽の雀がその布切れの中から飛び立った。雀は近くの軒先に止まると、せかせかと羽繕いを始めた。どうやら、正気を取り戻したらしい。


「大丈夫そうだな」


 安堵したような穏やかな声で、柴明が言った。黄五娘は、ぼんやりと頷いた。

 雀は何事もなかったように、丹念にくちばしで風切り羽をしごいている。あの死んだような有り様が、まるで嘘のようだ。死んでいなかったのだとしても、こうもすんなりと調子を取り戻すとは。その小さな体のどこに、これだけの生命力があるというのか。自然に生きる鳥獣とは、さもたくましい。

 雀は一声鳴くと、軒先から飛び立った。飛ぶ姿にも、ふらつくような様子はなく、青空めがけて一直線に飛んでゆく。

 小さな鳥影が軒の向こうに消えると、入れ替わるように一人の女官が現れた。彼女の姿に何か覚えがあったのか、すかさず柴明が声を掛ける。


「どうした」

「柴明様」


 女官が慌ただしく駆け寄ってくる。乱れた息を整えようともせず、喘ぎながら彼女は言った。


「陛下の具合が、急変いたしました」

「なんだって!」


 柴明は珍しく大きな声を上げると、黄五娘に振り返った。


「一緒に来るんだ」


 そう言った柴明の口調には、有無を言わせぬ強さがあった。

 黄五娘の顔から、血の気が引いた。


「まさか、歌を歌えと……?」

「そうだ」


 黄五娘が尋ねれば、柴明はしかと頷いた。


「柴明様、急いでください」


 女官が急かす。どうやら、皇帝の容体は相当悪いようだ。

「行くぞ」

 手短に黄五娘を促してから、柴明は走り出す。彼の後にすぐさま女官も続く。しかし、黄五娘はその場に縫いつけられたように、一歩も動かなかった。

 足が異様に震えて、動けなかった。彼らについてゆくことが、怖くてたまらなかった。

 柴明はすぐさま気がつき、引き返してくる。


「何をしている。急げ」


「歌いたくありません」という本心が喉元までせり上がってきて、黄五娘は唇を引き結んだ。

 歌いたくない、とは口が裂けても言えない。皇帝の命令には逆らえない。第一、歌うことを拒んだら、それは己の歌がまがい物だと証明するようなものだ。危急のときだからこそ、救わねばならない。奇跡の歌とは、そういうものだ。

 だが、もう騙したくはない。いや、違う。もう騙せない。得意げな蘇秋香の声音が、脳裡に甦ってくる。雀を持ってきた彼女は、一連の出来事を宰相に告げると言っていた。そう遠くない未来に、化けの皮はすべてはがされる。

 歌っても歌わなくても、罰からは逃れられない。


「……やはり調子が悪いのか?」


 柴明が尋ねる。しかし、黄五娘は何も言えない。歌うことしか能のない娘は、答える言葉を持っていなかった。

 柴明が舌打ちをした。


「ええい、こうなったら仕方がない」


 言うやいなや、柴明はひょいと黄五娘を抱き上げた。

 思わず、黄五娘は悲鳴をあげた。だが、柴明はまったく取り合わない。


「落ちないように捕まっていろ」


 柴明は駆け出した。目指すのは、当然瑶珠ようしゅ殿である。

 皇帝が危篤である。その知らせを受け、柴明は黄五娘の歌を求めた。つまり、彼は未だに歌の奇跡にすがろうとしている、ということだ。やはり柴明は、それほどまでに黄五娘の歌を信じているのだ。

 何がなんでも上手くやらねばならない。罰から逃れるために、どうにかしなければならない。ねじ曲がった重圧が、黄五娘の心にのしかかる。これまでとは比べ物にならないほど、逃げだしたいと思う。

 しかし、それは叶わぬ願い。柴明に捕らわれてしまった黄五娘に、もはや成す術はなかった。

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