六
宮妓は、妃や女官よりも自由が効く。市街に出掛けることもできれば、遠くに暮らす家族に会いに行くこともできる。職を辞すのだって、許された。
それならば、黃五娘も辞めたいと言えばよいのだ。理由など適当にでっちあげて、宮妓を辞めてしまえばよい。辞めることが許されずとも、逃げ出す機会はいくらだってある。市街に出掛けるふりをして、そのまま姿をくらましてしまえばいいのだ。
結局、黄五娘には逃げる勇気もないのだった。
加えて、逃げ出したところで行く宛がない。もとの妓楼には戻れない。あの鴇母のもとに帰ってしまったら、また金づるとして利用されるだけだ。生まれ故郷に帰ることだって、できやしない。そもそも、父や母が生きているかも分からなかった。
それならば、嘘を貫き通すしかない。皇帝が黄五娘に囚われているように、黄五娘もまた宮妓という身分にすがらねばならなかった。
黄五娘は、琴弦を弾いた。高く澄んだ音が、室内に響き渡る。続けざまに、時告げの鐘が鳴った。これは、午時を知らせる音だ。
師範である蘇秋香が現れぬまま、昼になってしまった。東向きの部屋に、すでに日差しはない。
薄暗い部屋の中で、黃五娘は待ちぼうけをくっていた。琴の教習は朝から始まるはずだったが、未だに蘇秋香はやって来ない。ついに、彼女は初めから来なくなった。仕方なく一人で練習をしていたものの、蘇秋香とは別の宮妓がやって来て、「耳障りだからやめてちょうだい」と文句を言われてしまった。
そうして手を止めたら、悶々と考え込んでしまう。
いつまでこのような茶番を続けるのか。いっそ今、逃げ出してしまおうか。いや、どこへゆくというのだ。小娘一人で生きて行けるほど、世の中は易しくない。ならば、嘘を貫き通せ。それが最善だ。
黄五娘は、乱暴に弦をかき鳴らした。荒波のような調べが空気を乱す。その音色は、荒んだ心がそのまま表れたようだった。激しい波が引き、静まる。胸のざわつきもまた静まり、新たに寄せてきたのは苦しいまでの虚無だった。
黄五娘はうな垂れる。
今日は静かだった。目白も雀も、誰の声も聞こえない。
静寂が心身に染みる。底冷えした空気が、足先から這いあがってくる。ふいに目元が熱くなるのを感じて、黃五娘はぎゅっと目を閉じた。
もう歌えない。歌いたくない。そのような思いが湧きあがった瞬間、瞳からぽつりと涙が落ちた。
黄五娘はおもむろに立ち上がると、部屋を後にした。
「待ちなさい」
外に出たとたん、黄五娘は呼び止められた。叱責するような鋭い声に、足がすくむ。恐る恐る、黄五娘は振り返った。
蘇秋香が立っていた。周囲には、他の宮妓もいる。皆、黄五娘のことをよく思っていない面々である。誰も彼も、眉間にしわを寄せ黄五娘をにらみつけていた。
黄五娘は、ごくりとつばを飲む。眦をつり上げた蘇秋香の目は異様に明るい。怒りだけではなく、熱に浮かされているような、恍惚とした色をはらんでいる。
逃げた方が良い、と本能が告げるままに、黄五娘は体を翻す。しかし、蘇秋香の取り巻きたちが素早く動き、黄五娘を取り囲んだ。
黄五娘はおろおろと周囲に視線を投げる。籠のように居並ぶ宮妓たちは皆ぴったりと寄り添い、どこにも隙間はない。もう、逃げられない。
「貴方の歌はどんな病気も治し、ときに死者すら蘇らせるとか」
冷たく澄んだ声で、蘇秋香が言った。
「ならば、これもどうにかしてみなさい」
黄五娘の全身が凍りついた。これが何か知りたくない。知ってしまったら、きっとそれは終わりの始まりだ。
けれども、黄五娘は言い返すこともできない。蘇秋香の言っていることに、間違いがないからだ。
病を治し、ときには死者すら蘇らせる。そのような奇跡の歌を歌う娘。そのような謳い文句と共に、黄五娘は後宮にやって来た。
病など治るわけがない。死者が蘇るわけがない。そんなこと、黄五娘だって分かっている。けれど、黄五娘にとって死者が蘇ることは真なのだった。真だと嘯く鴇母に従って生きてきた。今更、翻すことは許されない。
黄五娘は喉を鳴らした。
取り巻きの一人が進み出て、手の中の包みを開く。はらりはらりと花弁が散るように、折り重なった白い布がほどけてゆく。この期に及んでも声は出ず、ただ黄五娘は視線を逸らした。
ぴしゃりと、鞭打つような声が響く。
「見なさい」
黄五娘はびくりと肩を震わせた。強かな声音に心がすくむ。それでも、黄五娘は頑なに顔を背けつづけた。すると、取り巻きが逸らした視線の先に回り込んできた。否応なしに、彼女が手にしたものが目に入る。