五
黄五娘は臆病な娘だ。特別ではない、と明かすことも、騙し続けるのだと腹をくくることも、どちらもできない。
気弱な娘は、しずしずと歩を進め、前をゆく柴明の背を追う。うつむき、こっそりと唇を噛むけれど、それだけだ。言葉はない。
また一段と冬めいた日和であった。日が出ているものの、冷たい風が吹き抜け肌を刺す。風のせいだろうか、垣根の茶梅(サザンカ)はすっかり散り、清らな白い花弁が地面に落ちていた。
寒さが深まる。罪も深まる。
そうしてまた、黄五娘は皇帝の寝殿で深々と額づく。
「面を上げよ」
慇懃無礼な柴明の声が降ってくる。黄五娘はのろのろと顔を上げた。
「今日は花の歌をご所望だ」
かすかにうつむき今一度唇を噛むも、結局返す答えは同じだった。
「……かしこまりました」
黄五娘は姿勢を正すと、歌い出した。
歌うのは『百花詞』という、王宮にやって来てから覚えた、季節の花の美しさを讃える歌だ。春は梅、夏の睡蓮、秋の菊、冬の蝋梅。黄五娘は風を吹かせるような気持ちで歌った。涼やかに吹抜け、その花の香りを届けるつもりで声を響かせる。
そうして歌っているうちに、不意に先ほど見た茶梅を思い出した。はらはらと散らばった、白い花びら。
花はいつか散りゆくもの。そして、人の命もいつか散るもの。果たして、衝立の向こうに臥せる人物が散ってしまったら、己は一体どうなるのだろう。
一瞬、歌声が震えた。はっとして黄五娘は腹に力を込めて声を出す。
柴明も誰も、何も言わない。ごまかせたのだろうか。黄五娘は気を取り直して歌を続けた。そして、最後の一節を歌い終える。
花影は消え、静寂が訪れる。
黄五娘は静かに礼を捧げた。そうして頭を下げたまま、次の指示を待つ。「今日はこれでよい」だとか「もう一曲頼みたい」だとか、柴明が何か言ってくるはずなのだが、なかなか声が掛からない。
沈黙に堪えかねた黄五娘が顔を上げると、衝立の向こうから足音が聞こえてきた。黄五娘は慌てて再度頭を下げる。
「体の調子が優れないのか?」
ようやっと聞こえた柴明の声は、思わぬ問いを投げかけた。
虚を突かれて、黄五娘はすぐに答えられない。
柴明がもう一度問う。
「喉の調子が悪いのか? 歌の最中、掠れることがあったようだから」
黄五娘はどきりとした。
柴明か皇帝かは分からないが、あの一瞬の声の震えに気がついたのだ。なんと、耳敏いことか。
とくとくと脈が早くなる。その声の乱れは、知られてはならないことだ。それは、己が抱える嘘につながる。第一、皇帝の命が尽きるかもしれない、と思った事自体が不敬だ。
「いえ、そのようなことはありません」
不要なことは言わないように、黄五娘は至って簡潔に答えた。
柴明は「そうか」と頷いた。
「そうでないにしろ、今日はもう戻って構わない。このところ、夜遅くに呼びつけることもあったからな。今日は戻って、ゆっくり休め」
「はい。お心遣い感謝します」
そう述べて、黄五娘は瑶珠殿を後にした。
空には薄い雲が差していた。風が一層冷たく感じる。
もと来た道を引き返しながら、黄五娘は考えた。何故、柴明はあのように気を回してくれたのか。皇帝から、何か命じられたのだろうか。そうだとしたならば、気遣ってくれたのは皇帝なのかもしれない。
卑しい生まれの小娘を、道具でしかない人間を、天上人たる皇帝が、どうして気遣うのか。
それはきっと、壊れてしまっては困るからだ。
皇帝の病は重く、もはや薬も効かないのだと、いつぞや聞いたことがある。それほど深刻な身である皇帝にとって、すがれるものは加持祈祷の類。黄五娘の歌は、それらと同類。だからこそ、歌が歌えなくなったら困るのだ。
まやかしでしかない歌なのに、何も知らない皇帝はそれを縁にするしかない。もうそこにすがるしかないほど、切羽詰まっている。
だからこそ、黄五娘の胸は一層痛むのであった。