四
濁った音が鳴った瞬間、弦が切れた。
しまった、と怯んだ黄五娘の指先が止まる。琴の音が、ぴたりと途絶えた。
「何をしているのです」
鞭打つような叱責が飛び、黄五娘は身をすくめた。
「申し訳ありません」
「貴方は、本当に下手ですね」
今度は冷ややかな笑い声が聞こえて、黄五娘はますます縮こまった。
宮妓が皇帝の御前で披露するのは、歌だけではない。舞や楽を求められることもある。歌を見初められた黄五娘ではあったが、宮妓である以上、様々な技芸を学ぶ必要があった。ゆえにこうして、琴の教習を受けているのだ。だが、王宮に召し上げられて三月が過ぎたが、琴に関してはまるっきり上達していない。単純に才能がないということもあろうが、理由はそれだけではない。
黄五娘はちらと対面を見やる。まなじりを釣り上げた師範の姿が視界に入る。彼女の前では、どうにも指が震えてしまい、上手く弦が弾けないのだった。
「申し訳ありません」
再び黄五娘が謝れば、師範は鼻で笑った。
「貴方の何が良いのやら」
あからさまに憎々しく言い放つ。
この師範役の宮妓、名を蘇秋香という。彼女は明らかに黄五娘のことを嫌っていた。
蘇秋香は、見目麗しい娘だ。玉飾りがきらめくかんざしも、銀糸の刺繍が施された上着も、よく似合っている。満開の牡丹を思わせる美貌である。しかし、この花のような娘の胸中には、煌々と野心が燃えているのだと、宮妓たちの間では常々噂されていた。
かつて皇帝に寵愛され、皇后にまで上り詰めた宮妓がいたという。噂では、蘇秋香はその宮妓と同じ道を辿るべく、あれこれと画策しているらしい。
その噂話がどこまで真実なのか、黄五娘には計り知れない。しかし、まるっきり嘘ではないという確信があった。なぜならば、蘇秋香は己のことをひどく嫌っているからだ。本当に皇后の座を狙っているならば、自分を差し置いて皇帝のお気に入りとなった宮妓のことなど、忌々しくてたまらないだろう。
「病を治す、だなんて眉唾でしょうに」
蘇秋香が、吐き捨てるように言った。とっさに黄五娘は言い返す。
「そのようなことは、ありません」
「本当に? 天子様のお体が良くなった、というような話は聞かないけれど?」
ふんと鼻を鳴らし、蘇秋香は黄五娘を睨みつけた。鋭く細められた黒い瞳には、熾烈な色が燃えている。
黄五娘はうつむいた。何か答えねばならないと分かっていても、言葉が浮かんでこない。そも、何を言ったところで、黄五娘の言葉は虚でしかない。苛烈なまなざしの前では、まるで通用しないだろう。
静寂がちくちくと肌をさす。口が乾く。思わず、黄五娘は唇をなめた。
「やってられないわ」
冷ややかな声が、静けさを割った。声の主である蘇秋香を、黄五娘はちらりと見やる。すると、彼女はゆっくりと立ちあがり、流暢な足取りで部屋から出て行った。彼女もまた、黄五娘と同じく足の大きな娘であった。だからこそ、余計に憎いのだろう。
まだ琴の練習の時間は終わっていない。優秀な宮妓であれば、出てゆく師を止めるところだが、黄五娘は違った。いっさい振り返ろうとしない師にすがりつく熱意など、持ち合わせていなかった。ただ、ぼんやりと弦を眺めながら、遠ざかる足音を聞く。
いっそ、練習をまともにやろうとしないと告げ口してくれないだろうか。そうして、宮妓から放免されたい。そんな思いを抱きながら、黄五娘はじっとしていた。
どれだけそうしていただろう。
盛んに鳴き交わす、目白の声が聞こえる。小鳥の澄んだ鳴き声は、黄五娘の心を誘った。
わたしも、あんな風に歌いたい。そのような気持ちがよぎる。
黄五娘は目を閉じると、目白たちの声にじっと耳を澄ました。幾重にも重なる鳴き声は、それこそ本当に鈴を転がしているようだ。少し騒々しいけれど、楽しげな調べである。
黄五娘はほんのりと笑みを浮かべ、口を開いた。
歌い始めたのは、素朴な童歌である。妓楼にいた頃、ある妓女から教えてもらった歌だ。その妓女もどこで聞いたかすでに忘れてしまったという、無名の歌である。
目白に合わせて、黄五娘は己の鈴音をころころと転がした。そうしていると、どんどん楽しくなってくる。先ほどまでの鬱屈とした気持ちはどこへやら、思うままに声を弾ませた。
歌うことに悩みながらも、結局のところ黄五娘にとって歌は救いなのだった。歌っている間は嫌なことも苦しいことも、何もかも忘れることができる。
目白たちの鳴き声が、ぴたりと止まった。黄五娘は、ひと際声を高らかに響かせ、そっと口を閉ざした。自然と頬が緩む。良い歌が歌えたと、心からそう思った。
「見事なものだな」
突然、男の低い声が響いた。黄五娘はぱっちりと目を開け、振り返る。
戸口のところに、柴明が立っていた。変わらない鋭い瞳で、黄五娘を見つめている。
彼が黄五娘を迎えに来るのは、いつも夕暮れ時。まだ日は高く、その時にしてはだいぶ早い。だが、皇帝の側仕えである柴明が来たということは、そういうことなのだろう。
黄五娘はざわめく胸の内を隠すように、襟元を握りしめた。
「いえ、それほどではありません。このくらい、歌える宮妓など、ここにはたくさんおります」
相手には謙遜に聞こえたかもしれないが、黄五娘にとっては切実な本心であった。優れた歌い手は他にもいる。だから、別の宮妓を呼び出してほしい。わたしは、何も特別ではない。
しかし、柴明は首を横に振った。
「そんなことはない。お前の歌声は、他にない」
胸のざわめきが大きくなる。思わず「違う」と叫びそうになり、黄五娘はとっさに息を吸った。
「陛下がお呼びだ」
分かりきっていた用件を、柴明は告げた。
黄五娘は目を伏せると、「はい」と頷いた。