表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瑜娘伝  作者: 平井みね
4/13

 濁った音が鳴った瞬間、弦が切れた。

 しまった、と怯んだ黄五娘の指先が止まる。琴の音が、ぴたりと途絶えた。


「何をしているのです」


 鞭打つような叱責が飛び、黄五娘は身をすくめた。


「申し訳ありません」

「貴方は、本当に下手ですね」


 今度は冷ややかな笑い声が聞こえて、黄五娘はますます縮こまった。

 宮妓が皇帝の御前で披露するのは、歌だけではない。舞や楽を求められることもある。歌を見初められた黄五娘ではあったが、宮妓である以上、様々な技芸を学ぶ必要があった。ゆえにこうして、琴の教習を受けているのだ。だが、王宮に召し上げられて三月みつきが過ぎたが、琴に関してはまるっきり上達していない。単純に才能がないということもあろうが、理由はそれだけではない。

 黄五娘はちらと対面を見やる。まなじりを釣り上げた師範の姿が視界に入る。彼女の前では、どうにも指が震えてしまい、上手く弦が弾けないのだった。


「申し訳ありません」


 再び黄五娘が謝れば、師範は鼻で笑った。


「貴方の何が良いのやら」


 あからさまに憎々しく言い放つ。

 この師範役の宮妓、名をしゅうこうという。彼女は明らかに黄五娘のことを嫌っていた。

 蘇秋香は、見目麗しい娘だ。玉飾りがきらめくかんざしも、銀糸の刺繍が施された上着も、よく似合っている。満開の牡丹を思わせる美貌である。しかし、この花のような娘の胸中には、煌々と野心が燃えているのだと、宮妓たちの間では常々噂されていた。

 かつて皇帝に寵愛され、皇后にまで上り詰めた宮妓がいたという。噂では、蘇秋香はその宮妓と同じ道を辿るべく、あれこれと画策しているらしい。

 その噂話がどこまで真実なのか、黄五娘には計り知れない。しかし、まるっきり嘘ではないという確信があった。なぜならば、蘇秋香は己のことをひどく嫌っているからだ。本当に皇后の座を狙っているならば、自分を差し置いて皇帝のお気に入りとなった宮妓のことなど、忌々しくてたまらないだろう。


「病を治す、だなんて眉唾でしょうに」


 蘇秋香が、吐き捨てるように言った。とっさに黄五娘は言い返す。


「そのようなことは、ありません」

「本当に? 天子様のお体が良くなった、というような話は聞かないけれど?」


 ふんと鼻を鳴らし、蘇秋香は黄五娘を睨みつけた。鋭く細められた黒い瞳には、熾烈な色が燃えている。

 黄五娘はうつむいた。何か答えねばならないと分かっていても、言葉が浮かんでこない。そも、何を言ったところで、黄五娘の言葉はうろでしかない。苛烈なまなざしの前では、まるで通用しないだろう。

 静寂がちくちくと肌をさす。口が乾く。思わず、黄五娘は唇をなめた。


「やってられないわ」


 冷ややかな声が、静けさを割った。声の主である蘇秋香を、黄五娘はちらりと見やる。すると、彼女はゆっくりと立ちあがり、流暢な足取りで部屋から出て行った。彼女もまた、黄五娘と同じく足の大きな娘であった。だからこそ、余計に憎いのだろう。

 まだ琴の練習の時間は終わっていない。優秀な宮妓であれば、出てゆく師を止めるところだが、黄五娘は違った。いっさい振り返ろうとしない師にすがりつく熱意など、持ち合わせていなかった。ただ、ぼんやりと弦を眺めながら、遠ざかる足音を聞く。

 いっそ、練習をまともにやろうとしないと告げ口してくれないだろうか。そうして、宮妓から放免されたい。そんな思いを抱きながら、黄五娘はじっとしていた。


 どれだけそうしていただろう。

盛んに鳴き交わす、目白めじろの声が聞こえる。小鳥の澄んだ鳴き声は、黄五娘の心を誘った。

 わたしも、あんな風に歌いたい。そのような気持ちがよぎる。

 黄五娘は目を閉じると、目白たちの声にじっと耳を澄ました。幾重にも重なる鳴き声は、それこそ本当に鈴を転がしているようだ。少し騒々しいけれど、楽しげな調べである。

 黄五娘はほんのりと笑みを浮かべ、口を開いた。

 歌い始めたのは、素朴な童歌である。妓楼にいた頃、ある妓女から教えてもらった歌だ。その妓女もどこで聞いたかすでに忘れてしまったという、無名の歌である。

 目白に合わせて、黄五娘は己の鈴音をころころと転がした。そうしていると、どんどん楽しくなってくる。先ほどまでの鬱屈とした気持ちはどこへやら、思うままに声を弾ませた。


 歌うことに悩みながらも、結局のところ黄五娘にとって歌は救いなのだった。歌っている間は嫌なことも苦しいことも、何もかも忘れることができる。

 目白たちの鳴き声が、ぴたりと止まった。黄五娘は、ひと際声を高らかに響かせ、そっと口を閉ざした。自然と頬が緩む。良い歌が歌えたと、心からそう思った。


「見事なものだな」


 突然、男の低い声が響いた。黄五娘はぱっちりと目を開け、振り返る。

 戸口のところに、柴明が立っていた。変わらない鋭い瞳で、黄五娘を見つめている。

 彼が黄五娘を迎えに来るのは、いつも夕暮れ時。まだ日は高く、その時にしてはだいぶ早い。だが、皇帝の側仕えである柴明が来たということは、そういうことなのだろう。

 黄五娘はざわめく胸の内を隠すように、襟元を握りしめた。


「いえ、それほどではありません。このくらい、歌える宮妓など、ここにはたくさんおります」


 相手には謙遜に聞こえたかもしれないが、黄五娘にとっては切実な本心であった。優れた歌い手は他にもいる。だから、別の宮妓を呼び出してほしい。わたしは、何も特別ではない。

 しかし、柴明は首を横に振った。


「そんなことはない。お前の歌声は、他にない」


 胸のざわめきが大きくなる。思わず「違う」と叫びそうになり、黄五娘はとっさに息を吸った。


「陛下がお呼びだ」


 分かりきっていた用件を、柴明は告げた。

 黄五娘は目を伏せると、「はい」と頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ