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瑜娘伝  作者: 平井みね
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 皇帝に召し出されたといえども、床を共にするわけではない。

 今上帝は、二十五歳という若さでありながらその身に重い病を抱え、一日のほとんどを自身の寝所で過ごす。ここ数年は特に体の調子が優れず、朝儀に現れないこともしばしばあった。皇帝でありながら、彼は世継ぎを望めない体なのだ。慣習にならい、皇后や妃を立てはしたが、彼女たちの誰も皇帝と共寝をしたことはなかった。

 そのような皇帝が、何ゆえ黄五娘を召し出したのか。

 それは、歌を歌わせるためだ。

 黄五娘は宮女であるが、その身分は女官や下女ではない。皇帝の御前で歌や楽を披露する、宮妓きゅうぎである。歌を以て病に冒された御身を癒すため、黄五娘は召し出されたのだった。


 情を交わすのではなくとも、皇帝に求められるということは歴とした寵愛のしるしである。今、その寵愛を一身に集めているのは、間違いなく黄五娘であった。王宮に招かれて約三月みつき、ほぼ毎日のように皇帝の寝所へ出向き、歌を披露している。

 皇后や妃たちを差し置いて、皇帝から愛される宮妓。そのような娘がすんなりと受け入れられるほど、後宮は朗らかな場所ではない。先ほどの女官たちのように、そしる者は少なくない。それでも、皇帝に寵を注がれているのであれば、たいていの娘は喜ばしく思うことであろう。しかしながら、黄五娘の胸の内に喜色は一欠片もなかった。

 一歩一歩踏み出す足が、いやに重たい。皇帝のもとへ近づけば近づくほど、逃げ出したいという思いが強くなる。

 しかしながら、それはどうしたって叶わぬ願いだ。皇帝の命令は、天の命令と同義。反することは許されない。


 足を引きずるようにしながら歩き、いくつか門をくぐると、鮮やかな黄色の瑠璃瓦と龍の屋根飾りが見えた。その壮麗な屋根は、皇帝の寝所である瑶珠ようしゅ殿の証だ。

 ついに、たどり着いてしまった。

 衛士を務める宦官と柴明が、何事かを話している。彼らの話が終わるのを、黄五娘は少し離れたところから眺めていた。

 衛士の宦官と比べると、柴明は頭一つ分背が高い。がっしりとした体格も相まって、男性のようである。

ようである、ではなく本当は男性なのではないか。宦官とは去勢されるのが常であるが、柴明はそのような処置を受けていないのではないか。そのような噂話を、黄五娘はいつしか耳にしたことがあった。

 柴明は皇帝の叔父にあたる人物だ。とはいえ年は五つと離れていない。彼は病に侵された皇帝の暮らしを助けるために医術を学び、さらには宦官にまでなったという、ある種の傑物であった。皇帝の暮らす後宮には、男のままでは入れない。だからといって宦官にまで身をやつすとは、とんでもない覚悟である。

しかしどんな覚悟があろうとも、柴明はすめらぎの血族に連なる人物である。そのような彼が、果たして本物・・の宦官になるのだろうか。実際、体の大きさも声の低さも男のようなままである。そういうわけで、本当は男性なのではないかと、噂されているのだった。


 衛士の手によって、瑶珠殿の赤い扉が開かれる。


「行くぞ」


 柴明は黄五娘に声を掛けると、さっさと御殿の中に入っていった。

 黄五娘もすぐ後に続かねばならない。しかし、動けなかった。まるで、足が地面にくっついてしまったようだ。行かなくてはならないのだと念じても、体は言うことを聞いてくれない。


「どうした」


 柴明が引き返してきた。あの鋭い双眸が、今度は黄五娘に向けられる。夜水のような、底しれない瞳であった。


「……何か、言いたそうだな」


 柴明が言った。

 心を見透かすような言葉に、黄五娘の鼓動が大きく弾んだ。その動揺をごまかそうと、黄五娘はとっさに頭を振った。


「いえ、何もありません」


 言えることなどない。柴明は、皇帝の側近中の側近。彼に「行きたくない」などと、言えるわけがない。

 行け、歩け、と黄五娘は何度も念じた。もはや進むしか道はない。断っても逃げても、きっとおそらく命はない。

 行かなければ死ぬ。生き延びるために進め。

 拒む体を強引に説き伏せ、黄五娘はようやっと足を踏み出した。

 中に入り奥の部屋まで進むと、柴明から「待て」と声がかかった。

 命じられるままに立ち止まった黄五娘は、すぐさまその場にひざまずいた。眼前には、衝立が立っている。きらびやかな螺鈿らでん細工が、少しばかり目にまぶしい。

 柴明は黄五娘を置いて、衝立の向こうへと姿を消した。衝立の向こうに、皇帝の寝台がある。柴明は皇帝の元へ行き、今宵はどの歌が聞きたいのか、訊いているのだ。

 黄五娘は妃でも、近侍でもない。こうして毎日おとなっているが、本当に愛されているわけではないのだ。ゆえに、皇帝の尊顔を目に入れることは許されない。

 黄五娘は単なる道具なのだ。歌を以てして、病を癒す道具である。

だから、嫌だとかそういう気持ちは持たなくていい。道具なのだから、何も考えなければよい。

 衝立の前で待つ間、黄五娘はいつもそう思う。そう思えども、胸のつかえは取れない。

 靴音が近づいてくる。次いで、頭上から柴明の声が降ってきた。


「顔を上げよ」


 黄五娘は、ゆっくりと顔を上げた。

 冷たい瞳が黄五娘を射抜く。何かを咎めるような視線に、黄五娘は息をのむ。

 彼はすべてを知っているのではないか、と思えてくるが、それはあり得ない。黄五娘の抱える秘密を、罪を知っているならば、こうして歌を頼むことはない。

 柴明が言った。


「今日は、『春天しゅんてん』を歌ってほしい」

「かしこまりました」


 ずきりと胸が痛む。けれども、構わずに立ち上がる。こうなったら、一刻でも早く歌うしかない。歌い始めてしまえば、嫌な気持ちも、胸の痛みも忘れてしまえる。

 黄五娘は目を閉じた。そして、大好きな歌を歌うことだけに意識を向ける。

『春天』は、冬の終わりを寿ことほぐような歌だ。

 冬が終わり、雪解け水が滔々と川へ流れる。水かさの増した渓流に響き渡るのは、おおのさえずり。体にまとう群青をそのまま音にしたような、あの美しい鳴き声を思い浮かべ、黄五娘は歌い出した。

 澄んだ高音が、さやかに響く。

 ただただ一心に、黄五娘は歌う。そうして、また一つ、罪を重ねる。

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