十三
遠くから、琴の音が聞こえる。星の光を思わせるようなきらびやかな弦音は、おそらく蘇秋香の手によるものだろう。意地は悪くとも、蘇秋香の腕前は確かだ。相当に上手い。そして、少し悔しい。
黄五娘は、柴明の目を見つめながら言った。
「もっと歌が上手くなりたい、と思ったんです。それに、歌だけでなく琴や琵琶といった、楽の方も上手く弾けるようになりたいと思いました。叡宗様が好きだと言ってくださった歌を、もっともっと良いものにしたい。ですから、宮妓としてここで腕を磨いてゆこうと、そう考えています」
今更、妓楼へは帰れない。また鴇母に利用されては、元の木阿弥。先帝から貰い受けた言葉を汚すような真似は、絶対にしたくなかった。それに、宮妓として新たな皇帝にも認められれば、様々な金品を貰うことができるかもしれない。そうなれば、かつて騙した人々へ償いができる。先日貰い受けた褒美の品は、「妻を生き返してくれ」とすがってきた男――彼が一番黄五娘に金をつぎ込んだ人間だった、のもとに送ったが、騙されていたのは当然彼だけではない。まだまだ全然足りなかった。
妓女として、もっと高みに上らなければならない。いや、高みに上りたい。そのような気持ちを胸に抱き、黄五娘は晴れやかに告げた。
「叡宗様の名前に泥をぬらないよう、一生懸命がんばります」
「なるほど。そういうことであるならば、今後もよろしく頼む。もし、困ったことがあるときは、私に声を掛けてくれ。力を貸そう」
「ありがとうございます」
やんわりと目を細めた柴明に対し、黄五娘は一礼した。頭を下げた拍子に、己の大きな足が視界に入る。
相変わらず、不格好な足だ。だが、この大きな足で前に進んでゆくのだ。ひたすら邁進すれば、いつか魚模様の沓が馴染む日だって来るだろう。
「⋯⋯ところで、ここに筆と紙はあるか?」
黄五娘が顔を上げると、ふいに柴明が尋ねた。
「筆と紙ですか?」
「ああ。あれば、少し貸してくれないだろうか」
はてさて、突然紙と筆を貸してくれとは、一体どういうわけなのだろう。首をひねりつつも、黄五娘は部屋の奥から紙と硯箱を持ってきた。それらを壁際のつくえに置くと、柴明はすぐさまそちらに向かい、手際よく墨をすり始めた。墨の用意が出来上がると、彼は筆を手に取り、紙に文字を書きつけてゆく。
卑しい生まれの黄五娘は、あまり字が読めない。宮妓になってから文字を学ぶようになったものの、未だに読めない字の方が多かった。
「お前に名を贈ろう。私から、というより叡宗様からの贈り物と言った方が正しいが」
柴明が筆をおく。そして、文字を書いた紙を掲げてみせる。
紙には二つの文字が書かれていた。一つは娘と書かれており、これは黄五娘にも分かった。だが、娘の上に書かれている字は読めない。
黄五娘はおずおずと柴明を見た。その遠慮がちな視線にこめられた戸惑いを、彼はすぐさまくみ取った。
「ゆじょう、と読む。前にも言ったと思うが、叡宗様はいつもお前のことをそう呼んでいた。この瑜という文字は、美しく輝く玉を表している」
嘲るでもなく憐れむでもなく、柴明は淡々と説明する。
「玉のように麗しい歌声だから瑜娘だと、叡宗様はそうおっしゃっていた。宮妓として、今後はこの名を名乗るといい」
そう言うと、柴明は名を記した紙を差し出した。黄五娘はおもむろに両手を伸ばし、その紙を――名前を受け取る。
「瑜娘……」
黄五娘は新たな名を呆然とつぶやく。
すると、柴明は力強く頷いた。
「そうだ、瑜娘だ。黄瑜娘」
黄五娘は手にした用紙を窓に掲げる。薄い紙は光を透かし、瑜娘という名が淡く輝く。
「黄瑜娘……」
改めて、一音一音噛みしめながらつぶやけば、全身がじわじわと温かくなってきた。鼓動が高まる。血が巡る。
新たな命を吹き込まれた、といったら大げさか。けれども、黄五娘にはそのように思えた。
貰い受けたこの命、もう二度と手放してはならない。
誰の心も癒せるように。己の歌を信じて真っ直ぐ歌え。
黄五娘は背筋を伸ばすと、凛然と笑った。
「瑜娘という名前、ありがたく頂戴いたします」
決意を秘めた娘の声は、玉のようにきらめいた。
《おしまい》