十二
「実は、お前が宮中にやってくる前、叡宗様はかなり衰弱されていたんだ」
柴明はそっと目を伏せた。しかし、ふくよかな日差しを受ける彼の表情に、憂いはない。
柴明は滔々と語る。
「一日のほとんどを臥せって過ごし、食事もほとんど召し上がることができなかった。私の見立てでは、いつ亡くなってもおかしくはないように思えた。だが、お前の歌を聞くようになってから、持ち直したんだ」
そこまで言うと、柴明は視線を上げた。
「お前が歌うようになってから、日に日に顔色は良くなり、体を起こすことができるようになった。少しずつ食事も取れるようになった。何より、よく笑うようになられた。そうして笑いながら、お前の歌が楽しみなんだと、よくおっしゃっていた。叡宗様は、お前の歌を初めて聞いたその時から、その歌声に聞きほれていたらしい」
目元が熱くなるのを感じて、黄五娘はうつむいた。おさまらない熱はそのまま涙となって、やんわりと目尻を濡らす。
「お前を招いたのは、病を治すという噂がきっかけだった。だが、正直なところ私は半信半疑だった。奇跡を願いながらも、あり得ないと疑っていた。しかし、今は違う。お前の歌には確かな力があるのだと、そう思っている。病を治すことはできずとも、お前の歌は間違いなく叡宗様の生きる力になっていた。だから、本当にありがとう」
穏やかな声音で、柴明は話を締めくくる。
黄五娘は涙を袖でぬぐうと、丁重に礼を返した。
「とんでもないです。わたしの方こそ⋯⋯」
「救われました」と続けようとした黄五娘であったが、言葉にならなかった。再び涙があふれてきて、喉が詰まってしまったのだ。
叡宗様は、わたしの歌を心から愛していてくれていた。
その事実を、黄五娘は改めて胸の内に刻み込む。もう、歌うことを恐れない。心からそんな風に思えた。
黄五娘は袖を目元にあてがって、次々とあふれてくる涙を拭いた。こうして柴明の前で泣くのは、三度目になる。何度も泣き顔をさらすなど失態でしかないが、やっぱり我慢が効かない。
「ごめんなさい」
「いや、構わん」
謝る黄五娘に対して、柴明は怒るでもなく呆れるでもなく、ただ静かに涙が治まるのを待っていた。
やがて黄五娘が落ち着いてくると、柴明は口を開いた。
「ときに、お前は今後も宮妓として仕えるつもりなのか?」
なんとも含みのある問いであった。黄五娘は柴明をじっと見つめ、言葉の裏にある意図を考えた。
もし「そのつもりはない」と言ったら、柴明はどうするのだろう。そのような疑問がわいたが、すぐさま立ち消えた。彼がどうするかなど、考えるまでもなく分かる。宮妓という立場から、解放してくれるに違いない。そもそも宮仕えを辞めたいと言えば、その希望も汲んでくれるだろう。優しい彼のことだから、帰る場所がないという事情を伝えれば、家の手配までやってくれるかもしれない。
しかしながら、今の黄五娘はその優しさを必要とはしていなかった。
「わたしは今後も宮妓としてお仕えするつもりです」
黄五娘は凛とした声で答えた。
柴明が微かに目を見開く。どうやら、意外な答えだと思ったらしい。
黄五娘は小さく笑った。険しい顔つきとは裏腹に、心優しい人なのだとつくづく思う。しかし、彼は何か勘違いをしている。確かに、己は望んで後宮にやって来たわけではないが、だからといって無理矢理攫われてやって来たわけでもない。
「それで、いいのか?」
柴明の問いかけに、黄五娘はしかと頷いた。
「はい。かまいません。わたしは宮妓でありたいのです」
黄五娘に根付いた矜持は、彼女のうちに新たな思いを実らせていた。