十
柴明が素早く体を翻し、声のした方向――寝台へと近づく。その彼の動きで、黄五娘は気がつく。先ほどの弱々しい声は、皇帝が発したものであったのだと。
柴明は、さっと拝礼すると寝台をのぞき込む。何やら、皇帝と話しているようだが、小声であるためその仔細は分からない。柴明の隣で、皇后がそっと目元に袖をあてがう。泣いているのだろうか。だが、あまり悲しんでいるようには見えない。彼女の口元には、笑みが浮かんでいる。
「黄五娘」
柴明に呼ばれ、黄五娘の胸はどきりと跳ねる。
叱責か雑言か、それとも早速極刑を告げられるのか。黄五娘は身構えたものの、忠臣が継いだのは、予想だにしない言葉だった。
「こちらへ来るように。陛下たってのご希望だ。最期にお前と直に話がしたいとの仰せだ」
「え⋯⋯」
黄五娘は、ぽかんと口を開く。
皇后がたどたどしい足取りでやって来て、黄五娘の手を取った。
「きっと貴方の声が聞こえたから、天子様は今一度お目覚めになったのです。さあ、こちらへ」
黄五娘は呆然と皇后の手を見つめた。柔らかく、とても温かい手だ。胸が締め付けられる。不思議と懐かしく離れがたいぬくもりだった。
皇后に誘われ、黄五娘は寝台へと近づいた。
横たわる皇帝の顔が、はっきりと見えた。整った顔立ちだが、肌が異様に青白い。
死の気配を感じる。医術の知識がない黄五娘でも、彼の身に終わりが近づいていることが分かる。
このようなときに、一体何を話せばよいのだろう。しかも、相手は皇帝である。戸惑いながらも、黄五娘はひとまず礼を捧げた。
「顔を上げてくれないか。ちゃんと君の顔を見て話がしたい」
先ほどよりも、幾分芯のある声で皇帝が告げる。
皇帝本人から言われてしまったら、逆らうこともできない。黄五娘はおもむろに顔を上げた。
途端、皇帝はにこりと笑った。青白い顔に、生気が宿ったようだった。
「ああ、君が瑜娘なんだね」
皇帝は、黄五娘を真っ直ぐ見つめながら言った。
対して、黄五娘はおろおろと視線を泳がせた。自分の名は五娘である。ゆじょう、とは果たして誰のことであろう。
「あの、人違いでは⋯⋯?」
誰ともなく尋ねれば、対面に立つ柴明がゆるゆると頭を振った。
「人違いではない。瑜娘というのは、お前のことだ。陛下はいつも、お前をそう呼んでいらっしゃる」
黄五娘は目をしばたたき、皇帝を見た。
彼はまた「瑜娘」と呼んだ。
「本当にありがとう、瑜娘。毎日、私のために歌ってくれて」
黄五娘はうつむいた。感謝されるいわれが、まったく分からない。歌が効かなかったことは、皇帝が一番知っているはずだ。
自身の大きい足をじっと見つめながら、黄五娘は言った。
「わたしは、何もできませんでした。病気を治すことも何も、何も……」
黄五娘は、口をつぐんだ。このまましゃべっていたら、泣いてしまいそうだった。泣く資格など、無いというのに。
皇后が、黄五娘の肩をそっと叩いた。
「何もできなかった、などということはありませんよ」
皇后の言葉に、皇帝は小さく頷いた。
「ああ、そんなことはないよ。瑜娘の歌に出会えて私は幸せだった」
誰も彼もが、思わぬ言葉を言い募る。戸惑いながら、黄五娘は視線を上げた。皇帝と皇后、二人はそろって微笑んでいる。
黄五娘の胸が、じんわりと温かくなる。無性に懐かしい。まるで、父母に見つめられているような――幼い時分に売られた身の上ゆえ、そのような記憶はないのだが、気分になってくる。
「病が治るだの治らないだの、そういうことは、もうどうでもいいんだ」
皇帝が言った。
「私は、ただ君の歌が好きなんだ。だから、どうか歌っておくれ。君の歌声があれば、私は安らかに逝けるから」
話をするだけの力も、尽きようとしているのだろう。皇帝の声は、しりすぼみに掠れていった。
それでも、黄五娘の耳には確かに届いた。
黄五娘は、呆然と皇帝を見つめた。相変わらず彼は柔らかく目を細めたまま、見つめ返してくる。
嘘を言っているようには思えない。そもそも、このような時に嘘を言う力はないだろう。
皇帝は、純粋に己の歌を求めている。彼にとって、己の歌は罪ではなかった。
黄五娘の瞳から、一粒の水珠がこぼれ落ちた。その一滴がきっかけとなり、堰を切ったように次々と涙があふれてくる。何かを言おうとした黄五娘であったが、嗚咽ばかりで言葉にならない。泣いている場合でないということは、分かっている。だが、悲しみとは異なるところから生まれたこの涙は、堪えることができない。
「最期のときが来たら瑜娘の歌で送り出してほしいと、陛下は前々からそうおっしゃっていた。だから頼む。歌ってくれ」
そう言って、柴明が一礼する。
そのとき、黄五娘は己の無知を知った。柴明は、奇跡の力にすがろうとしていたのではない。ただただ真っ当に、主君のことを想っていたのだ。
黄五娘は深呼吸を繰り返す。滂沱のような涙が、徐々に治まってくる。
今一度深く息を吐き出す。もう黄五娘の心に、陰りはない。さっと目元をぬぐうと、皇帝に向かって恭しく拝礼した。
「黄五娘、歌わせていただきます」
張りのある、澄んだ声が響く。それは、大瑠璃にも負けないほど美しい、歌い手の声だった。
「ああ」と皇帝はうっとりと息をもらし、幸せそうに笑う。
黄五娘は数歩寝台から下がると、背筋を伸ばした。それから、目を閉じる。脳裡に思い描くのは、凪の海原。寄せては返す、細波の音。陽光を受けて、玉のようにきらめく水面。
麗らかな波に乗ってゆくように、送り出そう。そう思い、黄五娘を歌い始めた。歌う曲は『望海』。故郷の海を懐かしむ歌である。
金波のような歌声が、悠々と響き渡る。その歌声はときに涙ぐみ震えることもあったが、それすらも歌を彩る調べとなった。
黄五娘は、真心を込めて歌った。
どうか安らかに。少しで苦しみが和らぎますように。そう一心に想いながら、特別でもなんでもない、ただ己の愛する歌を奏でた。
皇帝は、おもむろに目を閉じる。あの苦しそうな呼吸の音は、もう聞こえない。微笑む面差しに、苦悶の色が混じることもない。
そうして、彼は最愛の歌声に包まれながら、静かに息を引き取ったのだった。