この世界は、終わることになっている。
※この作品はフィクションです。現実の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
読んでくださってありがとうございます。言葉の力と、世界の“再構築”をテーマに書いています。
希音は学校に行かなかった。
家を出て、最寄り駅の改札をくぐった。制服は着ていたけど、どこにも行くつもりはなかった。
別に理由はない。今日が晴れていようが雨であろうが、それは関係なかった。
電車に揺られている間、Xを開いた。
「また人身。マジで遅れる。クソ」
「○○の断層、最近やばいらしいよ」
「地震兵器とか普通にあるって聞いた」
「空に変な雲出てない?」
スクロールする指を止めて、スマホをしまう。
どの言葉にも、心が反応しなかった。
誰かが死んでも、誰かが怯えても、それは遠くて、自分には関係ない。
むしろ、そんなことに毎回反応してたら、精神がもたないと思った。
ふと降りたことのない駅で降りた。名前も見ていなかった。
ホームの隅に、蔦に半分覆われた階段があった。
階段を上がって、古びた路地に入る。人気がなかった。空気が重く、音が吸い込まれるような場所。
一軒の古本屋があった。
木の扉を押すと、鈴が鳴った。
誰もいない。カウンターも、店主も見当たらない。
棚にはびっしりと古書。赤茶けた背表紙たちが、息をひそめて並んでいる。
ふと、一番下の棚に手を伸ばす。何に引かれたのか、自分でもわからなかった。
それは、焼け焦げたような装丁の本だった。
表紙には何も書かれていない。黒く煤けて、触ると少しだけざらりとした感触があった。
手に取った瞬間、掌がほんの少しだけ、熱を帯びた。
ページをめくると、一行目だけにこう記されていた。
この世界は、終わることになっている。
たったそれだけ。
希音は、何も思わなかった。
けれど、閉じた本の背が、微かに震えていた。
まるで何かが、そこから出ようとしているみたいだった。
──数日後。
希音は、あの本を開いた。
帰宅後の自室。母親は夜勤で不在。カーテンを閉め切った部屋に、机の明かりだけが灯っている。
焼け焦げたような表紙を、恐る恐る開いた。
最初の一行の下に、文字が増えていた。
そんなはずはない、と思う。けれど、たしかに書かれている。鉛筆でもペンでもない、古いタイプライターで打ったような、細く、鋭いフォント。
「鳥たちは、空から消える」
それだけだった。
希音は首をかしげて、本を閉じた。何のことかわからない。ただの幻想小説か、誰かの創作ノートか──。
翌朝。
スマホを開いて、ニュースの通知が目に入った。
【速報】都心部でカラスの大量死。専門家「原因は不明」
「夜明け前、突然死んだように地面に落ちた」と目撃者
一瞬、胸がざわついた。
でも、すぐにそれを押し込めた。偶然。たまたま。そういうことはある。
自分が不安定なだけ。自意識過剰。中二病。
希音は、自分をそう言い聞かせた。
──でも。
その夜、本を開くと、また新しい一文が増えていた。
「言葉を呑み込む人々の街に、火が走る」
希音は、ページの端をぎゅっと掴んだ。
心の奥で、なにかがきしんだ。
次の日、SNSはある動画でざわついていた。
地方都市の商店街で起きたガス爆発。原因は不明。
誰かが、「あの商店街、数日前から“誰も話さない”って話題になってた」と書いていた。
希音は、画面を閉じた。
──偶然。
じゃなかったら、何?
何が起きようとしているの?
そして、どうして“わたし”が、それを読んでいるの?
本の中には、ページがまだまだ残っている。
あの本には、表紙も裏表紙も、タイトルすら書かれていない。
けれど希音は、なぜか「予言書」と呼ばずにはいられなかった。そうしか呼びようがなかった。
それにしてもおかしいのは──文字のインクだった。
最初に読んだときと、どこかが違っていた。
文字の濃さ、配置、行間──ほんのわずかだ。でも確かに変わっている。
彼女が目を通すたびに、少しずつ何かが整えられていくようだった。
文章が、彼女に向かって最適化されていく。
まるで“読まれること”によって、書物の側が目を覚まし始めているように。
夜、机に置いた本のページが、誰も触れていないのに少しだけ捲れた。
風は吹いていなかった。窓は閉じていた。
けれど、まるで「読め」と促すように、一枚だけ、音もなくページが開かれた。
そこには、たった一行だけ、文字が追加されていた。
「目をそらすな。これはお前の物語だ。」
希音は背筋がぞっとして、本を閉じた。
けれど、もう手遅れだった。
その夜、眠りに落ちる直前、耳元で何かが囁いた気がした。
きみは、選ばれた。
でも、拒否してもいい。
ただし、知ってしまった者は、戻れない。
不協和音
朝、いつものようにスマホの目覚ましで目を覚ましたはずだった。
けれど、通知の時刻がバラバラだった。
目覚ましは6時30分のはずが、通知には「7:42」や「5:18」の文字が並んでいる。
不安定なネット環境かと一度は思ったが、Wi-Fiの表示は正常だった。
家を出ると、玄関先に置いたはずの傘がなくなっていた。
母は使っていないと言った。どこにもない。代わりに、傘立ての底に見覚えのない古い手帳が落ちていた。開くと、中はすべて白紙。だが、紙が湿っている。
学校に着くと、クラスメイトが言う。
「昨日、遅刻してたよね?」
──え?
希音はその日、始業前に教室に着いていたはずだ。
黒板に自分が書いたノートの写しもある。だのに、周囲の記憶は「いなかった」と言う。
ある日の夜、風呂上がりに鏡を覗いたとき、自分の制服のリボンの色が違っていた。
赤のはずが、紺色になっていた。
翌朝、制服を見ても赤に戻っている。
現実は壊れていない。けれど、どこかが少しずつ、確実に狂っている。
誰にも伝わらない、それは“彼女の中”にだけ起きている異常だった。
そして、それらの出来事が起きた日の前後には、かならず「予言書」に何かしらの変化が起きていた。
追記される一行の文字。
書き換えられるページ番号。
微かに焦げたような匂い。
あるいは──ページの隙間に、誰かの短い黒髪が挟まっていたことさえあった。
――名前のない友人
昼休み。希音は屋上にいた。
風が強かった。空はよく晴れていたが、どこか乾いていた。
「ねえ、今日も来ないんだね、あの子」
彼女がそう言ったとき、希音は意味が分からなかった。
「……え? 誰のこと?」
「ほら、毎日一緒に帰ってたじゃん、髪が長くてさ……あの、ほら……」
名前が出てこない。
それは希音自身もだった。
長い黒髪の子。毎日、駅まで一緒に歩いた。誰よりも先に、自分のことをわかってくれた。
だけど、どうしても名前が浮かばない。
スマホを開く。履歴を探す。
──ない。
LINEもメッセージも、ひとつもない。
写真を見ても、いつもそこに写っていたはずの隣の顔が、空白になっている。
“空白”ではなく、“写っていない”。
まるで最初から、その人物は存在していなかったかのように。
「……でもいたんだよ、本当に」
誰に向かって話しているのか、もうわからなかった。
その日の帰り道。
電車の窓に映る自分の姿の横に、一瞬、見覚えのある横顔が揺れた。
希音は思わずスマホを取り出し、カメラを向けた。だが、画面には自分しか写っていなかった。
──いない。でも、いる。
──いた。でも、思い出せない。
家に帰ると、部屋の机に一冊のノートが置かれていた。
見覚えがある。だが、こんなもの書いた記憶はない。
ページを開く。
文字が綴られていた。
「あの子は、“存在を記憶されなくなる病”にかかった。
君が“本を開いた日”から。」
ページの下部に、小さな黒いインクの染み。
触ると、指先がじんわりと湿った。
続きます