205号室の午後
タイトル
『205号室の午後』
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舞台
昭和レトロな雰囲気の残る古い団地。
東京の外れ、坂道の多い住宅街の一角に建つ「日の出第二団地」が舞台。
静かで、少し寂れた空気が流れる場所。
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登場人物
■ 桐島 慎吾|26歳|宅配便ドライバー(配達員)
・大手宅配会社で働く青年。日焼けした肌と逞しい腕が印象的。
・ぶっきらぼうだけど、実は人見知りで真面目。
・団地の配達ルートを回るうちに、ある部屋にだけなぜか時間をかけるようになる。
・「あの人、何者なんだろう」と気になって、足が向いてしまう。
■ 黒瀬 一真|33歳|無職(団地妻)
・205号室に住む、物静かな美貌の男。
・団地では“奥さん”と呼ばれている。いつもきれいに家を整えていて、どこか生活感が薄い。
・過去に何かを抱えているような雰囲気。配達員にだけ少しずつ心を開いていく。
・長い指先、淹れたての紅茶の香り、寂しげな横顔が印象的。
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雰囲気・方向性
・日常のなかで生まれる、静かで切ない恋。
・雨の日、晴れの日、夕暮れの時間、四季を通じてゆっくり進む関係。
・やがて「団地妻」である一真が抱える“ある秘密”が明かされる。
【1】午後の音
団地の階段は、いつも冷たいコンクリートの匂いがする。
その日、桐島慎吾は何気なく205号室のインターホンを押した。
伝票の文字はいつも通り、黒瀬一真。
差出人は高級な紅茶専門店——どうせまた、細い指で受け取って、軽く頭を下げてくるんだろう。
「はい」
声がした。穏やかで、少し眠たげ。
慎吾の胸の奥がなぜか僅かに揺れる。
ガチャリと開いた扉の奥から現れたのは、いつもの“団地妻”だった。
「どうも……ごくろうさま」
白いシャツにベージュのカーディガン、ほっそりとした体。
髪は耳にかかるくらいで、目元はやや伏し目がち。
誰よりも男なのに、どこか“奥さん”みたいな雰囲気を纏っていた。
「サイン、ここで……」
慎吾が伝票を差し出すと、黒瀬はペンを手に取った。
その指が慎吾の指先に少し触れる。
「……あ、冷たい」
「え?」
「ごめん。今日、ずっと手が冷たくて。室温、下げすぎたかな」
苦笑するように呟いた声に、慎吾はなんでもないふうに頭をかいた。
「いえ……どうも」
荷物を渡し、短い会釈をして踵を返す。
それだけ。
ただそれだけのやりとりなのに、慎吾はなぜか、この部屋の前でだけ、時間の感覚が変わるのを知っていた。
お待たせしました。では続けて、**『205号室の午後』(2/5)**をお送りします。
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(2/5)
【2】午後の紅茶
その日も、慎吾は荷物を持って団地の階段を上がった。
薄曇りの空、少し湿った空気。
小さなダンボール箱の送り主は、やはり紅茶専門店だった。
「はい」
呼び鈴を押すと、数秒後に黒瀬の声が聞こえた。
ドアが開く。少しだけ、慎吾の心拍が跳ねる。
「また紅茶、ですね」
黒瀬が微笑む。薄く、儚いその笑みに、慎吾は思わず頷いた。
「ええ、えっと……いつもこれ、何のために?」
「淹れるのが好きなんですよ、紅茶。飲まなくても、香りだけで落ち着く」
「……飲まないんですか?」
「気分次第です。今日は、飲みますか?」
「え?」
黒瀬が小さく首を傾げる。
「よかったら、ですけど」と続ける声は、まるで誘うようで、けれど押しつけがましくない。
慎吾は戸惑いながらも頷いた。
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205号室に足を踏み入れるのは、初めてだった。
室内は、想像通りに整っていた。
古い団地特有の和室の間取りに、丁寧に並べられたアンティークの食器や家具。
窓際のカーテンは柔らかく揺れ、空気は静かに香っていた。
「ここにどうぞ」
黒瀬が用意したのは、ガラスのティーカップだった。
紅茶は濃く、香りが深い。
「……美味いっす」
「よかった」
黒瀬は慎吾を見つめていた。
少し長く、意味を探るように。
「配達、大変でしょう。あちこち回って、重い荷物を抱えて」
「まあ……慣れましたけど」
「えらいですね、若いのに」
その言い方が、妙に胸に残った。
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カップの底が見えたころ、慎吾はふと思った。
この人は、ずっとひとりで紅茶を淹れて、こうして誰もいない午後を過ごしていたのか。
名前のない寂しさが、部屋のあちこちに滲んでいる気がした。
「……また、届けに来ます」
「ふふ、配達ですものね」
黒瀬は笑った。
それはまるで、“また、来てね”という呟きに聞こえた。
【3】曇り空の吐息
雨の降る日だった。
慎吾は濡れたジャケットを脱がずに、205号室の前に立った。
小さな傘を閉じると、肩がじんわりと冷たい。
「……はい」
黒瀬の声が、少し掠れて聞こえた。
扉が開くと、彼は長袖のセーターを羽織っていて、顔色がいつもより悪かった。
「風邪、ひきました?」
「少しだけ……でも、大丈夫」
いつものように軽く微笑むが、確かに身体がふらついている。
慎吾は咄嗟に腕を伸ばして、黒瀬の肘を支えた。
「……入って。座ってて」
「いや、あの、俺は……」
「いいから」
その言い方が、少しだけ切実だった。
慎吾は黙って部屋に入り、黒瀬をソファに座らせた。
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「濡れてる。タオル、出しますね」
「いえ、俺の方が……」
黒瀬は立ち上がろうとするが、慎吾が制する。
「今日は休んでください。俺、ちょっとした看病くらいできますから」
「……ふふ」
黒瀬は微かに笑った。その笑顔は、どこか、安心しきったものだった。
「じゃあ……紅茶、淹れてくれる?」
「俺が?」
「ポットにお湯は沸いてる。ティーバッグ、棚の中」
慎吾は戸惑いながらも、言われた通りに動く。
それは妙に、心が落ち着く作業だった。
湯を注ぎ、香りが立つ。
「すごく……いい香りですね」
「でしょ。アッサム、今日は」
二人は、静かな午後の部屋で、湯気の立つカップを挟んで向き合った。
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「慎吾くんは、優しいね」
不意に、黒瀬がそう言った。
「そんなこと……」
「気づいてるでしょ? 君、ずっと私の部屋の前で、時間をかけてる」
慎吾は息を飲む。
「……別に、そんなつもりじゃ」
「でも、私は……うれしかった。久しぶりだったから。誰かに、そうやって“見られる”ことが」
その言葉には、深い孤独の色があった。
慎吾は、カップを置いた。
「もっと、来ていいですか。配達じゃなくても」
「……どうしよう。そう言ってくれるの、ずるいよ」
黒瀬はそっと目を伏せた。
慎吾の胸の奥に、じわじわと何かが染み込んでいく。
【4】重なる影
その日から、慎吾は仕事帰りに時々205号室を訪れるようになった。
紅茶を淹れたり、くだらないテレビを一緒に見たり、話すことがなくても窓の外を眺めたり。
黒瀬一真は、変わらず穏やかだった。
だが時折、ふとした沈黙の中に、深い溝のようなものが覗く。
「黒瀬さん、前はどこに住んでたんですか?」
ある夜、慎吾がそう尋ねたとき、黒瀬は数秒黙った。
「……この部屋に来る前は、もっと静かなところ。郊外の一軒家で」
「じゃあ、家族と?」
「……一人だったよ」
それは、明らかに“何かを避けた”答えだった。
慎吾はそれ以上、追及しなかった。
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春が近づくと、黒瀬の部屋には花の香りが増えた。
どこかから取り寄せたらしいドライフラワーが、棚の上に飾られている。
「慎吾くんって、名前が春っぽいよね」
「そうですか?」
「“桐島慎吾”。芽吹く木の名前と、真面目そうな名前。似合ってる」
「……黒瀬さんの名前は、“真”が入ってるのに、いつもなんか……隠してる感じしますよね」
言った瞬間、慎吾は口をつぐんだ。だが、黒瀬は驚いたように目を見開いて、それから笑った。
「ばれてたか。そうだね……隠してるよ。私、全部は見せられない」
「……何を?」
「きっと、君が思ってるよりずっと、私は“正しくない”人間だから」
その言葉に、慎吾の胸は締めつけられるような思いがした。
「俺……そういうの、気にしません」
「そう?」
「はい。だから、隠さなくていいです。俺、ちゃんと見ますから。全部」
黒瀬はその言葉をじっと見つめた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、今度、ひとつだけ話をするよ。君がまだ来てくれるなら」
「もちろんです」
その約束が、二人の関係を、どこか別の場所へ導いた。
【5】秘密の居場所
その日はよく晴れていた。
慎吾が205号室を訪れると、黒瀬はいつになく静かな笑みを浮かべていた。
「……話すね。あの約束」
慎吾は黙って頷いた。
「昔、私はひとり暮らしをしてた。郊外の静かな町で。誰とも関わらずに、ひっそり生きてた。でも、一人だけ、特別な人がいたの」
黒瀬の声は、遠くを見ていた。
そのまま語り出す。
「彼は優しかった。時々来てくれて、一緒にお茶を飲んで、笑って。……でも、私、欲が出た。もっと一緒にいたくなった。彼はそれを重いって言った。最後には、逃げるように消えた」
慎吾の胸に、ひやりと風が吹いたような感覚が走る。
「彼は、今どこに?」
「わからない。でも……ごめんね、慎吾くん。私、君の中に、その人を重ねてた」
それは告白のようで、懺悔のようでもあった。
「でも違うんだ。君は、君で……私、今はもう、その幻を求めてるんじゃない」
黒瀬は静かに目を伏せた。
「君といる時間が、私を生かしてる。だけど、私の心はちょっとだけ壊れてる。だから……もし怖くなったら、無理にここに来なくていいから」
慎吾は、長く息を吸い込んだ。
そして、一歩踏み出し、黒瀬の前に立って、そっと肩を抱いた。
「……俺は、ここにいたいです。幻でも代わりでもなく、俺がいて、俺があなたを見てるって、それだけでいいから」
黒瀬は、しばらく何も言わずに、慎吾の肩に額を預けた。
それは、ただ静かな肯定だった。
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それからも、慎吾は配達の合間に205号室へ通った。
部屋は変わらず、静かで香りに満ちていて、午後の光がカーテンを透かしていた。
誰も知らない団地の一角で、
二人は、名前のない関係のまま、
それでも確かに、寄り添っていた。
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(完)