第54話 俺はお前の存在に救われている。
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「……ルベルト、様」
まさか誰かに、それも彼に見られていたとは思いもしなかった。
私は少し遅れて、後ろを振り返る。
「ど、どうしてここに?」
「だいぶ酒が入った。少し夜風に当たりたくなってな」
「あの、えっと、これは気にしないでください。ちょっと目にゴミが入って、ただそれだけで――」
こんなところで、こんな時間に泣いているなんて、事情を知らない人が見たら、どう考えてもおかしい。
だから私は慌てて言い訳を繰り出して、涙を袖で拭おうとする。けれど、その腕を思いもかけず彼に掴まれた。
そして、ぐしゃぐしゃだろう泣き顔をあえなく見られてしまう。
「……なにをするんですか」
「誤魔化そうとしなくてもいい。泣きたいときは、泣けばいい」
「そんなの、綺麗ごとですよ。あなただって、弱ってるときは隠してたじゃないですか。熱があっても言わなかったでしょう」
「……それはそうだが」
「だったら、離してください。もう、一人にしてください」
私ははっきりと言い切って、ルベルトの腕を振り払う。
それから、すぐにはっとした。
気を遣って言ってくれただろうに、この返事では不快に思われてしまうかもしれない。
でも、それだってもうしょうがない。
私が今、誰かと話せるような状態にないのはたしかだ。
ルベルトは私を少し見つめたのち、一つ息をつく。
それで立ち去るのかと思ったが、彼はその場から動いてはくれない。
そればかりか逆に、じっとこちらを見つめてくる。
こんな時に見ても、その瞳は暴力的なまでに綺麗だった。
ただ、いつもとは違って、見とれている余裕はない。
それどころか「一人にして」と言った手前、目を合わせるのが気まずくなって、私は彼に背を向けた。
ベランダの手すりに腕を乗せて、まだ止まない涙を拭う。
そのうえで、後ろの気配に意識を向けるのだけれど、やはりというべきか彼はどこへも行ってはくれない。
しばし無言の時間が続き、その間を埋めるように夜風が通り抜ける。
まるで根比べでもしている気分になっていたら、
「アスタ。俺はお前に出会えて本当によかったと、そう思っている」
彼はいきなりこんなことを言いだした。
そこに、脈絡などはまったくない。
「単に、トレールに薬師がいなかったからじゃない。他の誰でもなく、俺はアスタに会えてよかったとそう思っている。あの日、森で出会えて、俺の不調を治してくれたのがアスタで本当によかった。お前が来てから、日々が少しだけ明るくなった気がする」
「……なにが言いたいんですか」
「単純だ。俺はアスタの存在に救われている。大切だと思っている。泣いているなら、そばにいたい。ただそれだけだ」
ひどく、ありふれた言葉だった。
特別に比喩が効いているわけでもなんでもない、飾りのない言葉。
だが、だからこそそれは、すんなりと心の内側に入ってきた。
自分を守ろうと、私が心に纏っていた棘をすべてすり抜けて、その奥側に。
不思議なことに、その一言は私の中の黒い塊を、一つ一つと解いていった。
詰まっていた呼吸が楽になり、胸がすーっと通る。
ルベルトの言葉が、存在が、そうさせたらしかった。




