3話 凄惨な夜
目を覚ましたら、視界一面が赤黒く染まっていた。
火だ、煙だ。
そう理解したのは、ただ呆然とその状況を眺めて、少し後のことだった。
私は慌ててベッドから出ようとするが、その瞬間にずきりと頭が割れるように痛む。
それで頭に手をやっていたら、がしゃりと鈍い音が耳元すぐで鳴り渡った。
そちらを振り向けば、壁が火の塊となって、崩れ落ちてきていた。
なにがなんだか分からなかった。
ともかく分かるのは、どうにかして逃げ出さなければ、命がまずいということだ。
「早く、しないと……」
私はふらつきながらも、辛うじて起き上がり、口に手を当てながら部屋の外へと向かう。
幸い扉が焼け落ちていたこともあり、廊下に出ることはできたが、状況は変わらない。
どうやら屋敷全体が火の海になっているらしかった。
私は壁を伝いながら、どうにか玄関のほうを目指して歩いていく。
全身がじりじりと焦がされるように熱かった。髪の一部は既に焦げてしまっている。
早く外へ出たい。
そうは思うのだけれど、頭痛が一向に収まらない。立ち止まっていたそのとき、頭上からなにかががしゃりと崩れる音がした。
私ははっと上を見上げる。降り注いでくる大きな影に一瞬、息を呑む。
もうだめかもしれない。
そう覚悟をして、目を瞑ったそのときだ。
誰かの手が、私の背中をぐっと強く押した。
思いもかけないことだったから、私は前へと飛び出て、床に膝をつく。
それからすぐに後ろを振り返って、一気に頭がはっきりする。
そこには、衣服棚の下敷きになってしまっているジールがいたのだ。
そうだ、屋敷の中には彼女もいた。ひどい頭痛のせいで、そこまで頭が回っていなかった。
「じ、ジール、あなた……! なんで庇ったの!」
「当り前でしょう? 私はあなたの侍女ですから」
「待って、すぐに助けるから!」
こんな状況だ。頭痛だのどうだのは言っていられない。
私は彼女の腕を引っ張って、衣服棚の下から引きずり出そうとする。が、いくら力を込めてみても、重すぎて、まったくびくともしない。
それで焦って、足を使って蹴上げるのだが、それでも動く気配はなかった。
その間にも、煙は廊下にどんどん充満し、火は迫ってくる。
「もう、いいんです」
「……なにを言ってるの」
「私はもうだめです。もういいですから、私のことは置いて逃げてください、アスタ様」
「できるわけないでしょう、そんなこと!」
聞き入れられるわけがなかった。
私はどうにかしようと、彼女の腕をより強くと引っ張る。
が、それでどうにかなるわけでもなくて、
「一度、外へ行って、助けを呼びに――」
私は玄関のほうを振り返る。それにジールが、
「無駄ですよ、アスタ様」
掠れた声でこう呟く。
「どういうこと」
「アスタ様。これは、妹君・ハンナ様とローレン王が命じたことなのです。だから助けなど求めても、意味がありません」
「…………あの二人が?」
あまりにも衝撃的な話だった。
私が大きく目を見開いていると、ジールは苦し気にせき込みながらに続ける。
「この屋敷の、私以外の使用人も共犯です。私も誘われたのですが、断ったうえで止めに入ったら、いつのまにか眠らされていました。どうやら、薬を盛られたみたいで……」
それを聞いて、はっとした。
私も、ジール同様に、夜会終わりから急激な眠気に襲われ、夜会の会場から辛うじて屋敷に帰り着いた。
そして、その前にはワインを飲んでいた。
それも珍しいことに、ローレンから注いでもらったものを。
そこに、睡眠薬のようなものが盛られていたとしたら、この割れるような頭痛も説明がつく。
あのパーティーで、ハンナが『ご愁傷様』と口にしたのは、これを示唆していたのかもれない。
大方、私を失火を理由に亡き者にして、ハンナと籍を入れるために、こんなことをしたのだろう。
馬鹿げたことだ。
が、それをやりかねないのが彼らだし、こんな大火事でも誰も助けに来ていないあたり、ジールの証言は事実なのだろう。
私は悔しさを力に変えて、どうにか大きい衣装棚を動かそうとする。
それでもまったく動かないのを見て、
「私はもうだめです」
ジールが顔を歪めながら言う。
「そんなこと言わないで」
「だって、もう下半身の感覚がありません。助かっても、このままじゃ生きていない。ですから、アスタ様だけでも、どうかお逃げください。なにか、ローブなどを被っていけば、気づかれずに出ることもできるはずです」
「……ジール」
「早く! 急がないと、すぐにここまで火が回ります。それに、煙も――」
ジールはそこで、大きくせき込み、苦悶の表情を浮かべる。
彼女の額には、玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。
どうにか助けたい。
でも、自分にはどうしようもできない。
あまりにも無力だ。なんとか衣装棚を動かそうとしながらにして、ぶわっと涙が溢れてくる。
なにか特別な魔法でも使えたら、話が別だったのかもしれない。
が、私にはそんなものはない。
本来、貴族であるなら、多かれ少なかれ使うことはできるはずで、私も水の加護を得ている。
なのだけれど、王族に入る者は原則、魔法の使用が禁止とされているのだ。
王家に逆らうような力を身に着けさせないためとかで、そのように定められている。
だから、王家へ嫁ぐことを幼少期から期待されていた私は、ほとんど魔法を使うことができない。
それでも縋るしかなくて、どうにか魔力を練ろうとするのだけれど、そもそもそれができなかった。
「行ってください、アスタ様」
「でも……」
「でも、ではありません。これは、私からのお願いでもあるのです。私のためにも、あなたは生きてください。生きて、自由になってください」
掠れた声で、ジールは振り絞るように言う。
そのときには、もう目がうつろになっていた。
「ジール、もうやめて。灰が入る。喋らなくていいから」
私は止めに入ろうとする。
が、ジールは言葉を止めようとはしない。
「あなたは、私の希望でした。子供のいない私にとっては娘のようで、本当に可愛かったし、大きくなられてからは尊敬できる主人でした」
「もういいから」
「あなたにお仕えできて、本当に良かった。だから、復讐なんて考えなくてもいいんですよ、アスタ様。我慢しすぎることがあなたの悪い癖です。幸せになってください。あなたのしたいように生きてください。それが私の、唯一の願いで…………」
ジールがこちらへ伸ばそうとしていた腕が、声が途切れるとともに、力なくだらんと床に落ちる。
瞼がゆっくりと下がって、最後には完全に閉じてしまった。
「ジール、ジール!!! 嘘でしょ、ねぇ、返事をして!!」
私は必死に彼女の身体を揺さぶる。
けれど、ジールの閉じた目は、開いてはくれない。呼吸を確認すれば、息も止まってしまっている。
ジールが死んでしまった。
信じがたい、信じたくないし、あってはいけない。
が、首を振って否定してみても、事実は目の前から消えてはくれない。
胸の鼓動がどくどくと速まる。絶望が喉に詰まって息がうまくできなくなり、呼吸が荒くなる。
気づけば、涙が頬を伝い、ぼたぼたと床にしみを作っていた。
私は彼女のばさりと広がった髪に顔を埋めて、大声で泣きじゃくる。
「なんで、なんで、あなたが死ななきゃいけないの!! なんで……! 死ぬなら、あいつらでしょうに!! なんで」
私はそれを必死に拭い、嗚咽しながらに、こう叫びあげる。
が、それはもう彼女の耳には届いていない。
いつも叩いてきた軽口だってもう、彼女と交わすことはできないのだ。
幼い頃から、今の今まで。彼女と過ごした長い時間が一気にフラッシュバックして、涙が止まらなくなる。
そのうちに気づけば、火の手は私の足もとまで迫ってきていた。
このまま死んでしまってもいいかもしれない。
いっそそのほうが楽かもしれない。どうせこれ以上、生きていても苦しいだけだ。
そんな考えが頭を掠める。
が、私は歯を食いしばり、涙でぐしゃぐしゃの顔を拭いながらも、膝を立てた。
ジールが首につけていた、いつか彼女にプレゼントしたパールのネックレスを外す。
それは少し煤けてヒビが入ってしまっていた。
が、私は気にせず強く握りこんで、勢い立ち上がる。そして、よろめきながらも外を目指す。
そうさせたのは、ひとえに彼女の遺志だ。
生きてほしい。幸せになってほしい。
ジールが最期にそう望んだのなら、私がここで折れるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。
この先、なにが待ち受けているかなんて、まったく分からない。
まず間違いなく、昨日までとは一変した生活が待っているだろう。そして、それは茨の道になるかもしれない。
だが、それでも私は前に進むしかなかった。
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