15話 家、上がって行きますか。
今回からまたアストリッド視点です。
よろしくお願い申し上げます。
その日の朝、私は約一か月滞在した宿を後にして、薬箱などの荷物ともに、街を歩いていた。
だいぶ見慣れてきた街並みを横目に向かうのは、大通りからは少し離れた場所にある住宅区域だ。
そこからさらに、数本内側に入って、その突き当たり。
そこにある赤い屋根をした小さな家を、私は少しぼうっと見上げる。
「さすがに早いな」
と、そこへ後ろから突然にこう声をかけられて、どきりとした。
妃だった頃の癖、私がはっと後ろを振り返ると同時に距離をとる。
見れば、憮然とした顔のルベルトがそこには立っていたのだ。その迫力は、やはりかなりのものだった。オーラだけで、人を気絶させそうな雰囲気さえある。
実際、心臓のばくばくが止まらなくて、私は胸元に握った拳を当てる。
一方、彼は私の足元を一瞥してから、こちらへと目を向ける。
「そこまで離れるとはな。初対面で怖気づかない人間は久しぶりだと思っていたが、やはりお前も俺が怖いか」
「そりゃあ怖いですよ」
「……それは、俺が人を殺したとか、首を切ったとかいう根も葉もない噂話を聞いたせいか」
こちらの国でもその手の噂は流布しているらしい。
ルベルトの声のトーンは、どんどんと低く落ちていた。どうやら彼は気にしているようだったが、別にそれが理由ではない。
彼が意外と優しいことは分かっているので私は首を横に振る。
「急に後ろに立たれたら誰にやられても、そう思います。気配がなさすぎるんですよ」
「…………なるほど。参考にしよう」
「それで。どうして、あなたほどの方がわざわざ見にきたんですか」
「ここに住むよう頼んだのは俺だからな。一応、確認をしにきた。それで、移る準備はできたか」
「えぇ。私は行商でしたし、荷物はほとんどありませんから」
そう。私は今日からこの家へと移り住む。
ルベルトに持ち掛けられた定住の話に、内見などを踏まえたうえで、乗ることにしたのだ。
その際、少し補修工事が必要になるということで、これまでは宿暮らしをしていた。
ちなみに家具類は、支給品だ。
実際、家具を揃えられるほどのお金は持っていなかったから、とても助かる話だった。
「これが鍵だ。もう中に入っても構わない」
「そうですか。ありがとうございます」
私は彼から鍵を受け取ると、一つ頭を下げる。
そのうえで、玄関口から中へ入ろうとする。
その際、後ろを振り返れば、ルベルトはじっと私のほうを見ていた。
「……あの、なにをしてるんですか」
「いや、なにもない。ただ少しぼうっとしていた。疲れているのかもしれないな」
ルベルトはそう言って眉間に寄っていた皺を引き伸ばす。
「とくに他意はない。鍵も渡せたことだ。もう帰る」
そうして、とぼとぼと表通りのほうへ向けて歩き出す。
すると、すぐ脇に控えていたオレンジ色の髪をした背の低い男(たぶん従者だろう)が一人、出てきて、待たせていた馬車へと誘導した。
きっとこれからまた公務なのだろう。
だが、あの様子で大丈夫なのかどうか。薬師として、いや、一般的な感覚としても、それは気にかかるところだった。
「家、上がって行きますか」
それで私はこう声をかける。
それで、ぴたりと彼の足が止まった。
「大したもてなしはできませんけど、少し休んでいってください。……って、貰ったばかりの家ですけど」
すぐには返事はなかった。少し間を開けてから、
「痛み入る」
こう返事があって、彼はこちらを振り向いた。
それで従者たちはすぐに、後ろへと引き下がっていく。
これだけ行動が読めない主人だと大変だろうな。
そんなふうに彼らの気持ちを慮りつつも、私はルベルトともに家の中へと入った。
引き続きよろしくお願いします。