1話 王妃・アストリッドの日常は、追い立てられる。
「アストリッド王妃殿下、こちらの書類に目を通していただけますか。三の刻から、会議がございます」
「大変申し訳ありませんが、こちらの書類もお願い申し上げます。地方領主からの嘆願書でして……それから――」
「こちらもお聞きいただきたいです。また、例の新聞屋がろくでもない噓情報を街で撒き散らしておりまして――」
などと。
山のような仕事を置いて、臣下らが出て行ったのち、私は執務室の机で一人、ため息をついた。
肩口までかかる朱色の髪をかき上げるようにして、頭を抱える。
そのわけは単純で、あまりにも仕事が多いせいだ。
文字通り、忙殺されかかっていた。
本当なら、屋敷の庭に作った薬草園にあるカフェスペースでゆっくりお茶でもしたい。
育てている珍しい薬草類を愛でながら、趣味の一つである薬学の研究書でも読んで、優雅な時間を過ごしたい。できれば、普段から色々と教えてくれる薬師の元へ行って、お話も聞きたい。
が、残念ながら、それはここ数ヶ月叶っていなかった。
王妃というのは、なかなかに忙しいのだ。
外交から内政まで、あらゆる事項の決定に関わる必要があるし、その一つ一つが重要事項だから手を抜くこともできない。
それでも本来なら、休む暇くらいはあるものだけれど……。
単純な仕事量とは別の要因で、それは叶っていなかった。
私がその元凶に思いをやり、再度ため息をついていると、部屋の戸がノックされる。
それで「どうぞ」と答えれば、中に入ってきたのは、よく知った顔だった。
「王妃殿下、お疲れですね」
侍女のジールである。
彼女は、赤子の頃から私についてくれていて、今もなお、自屋敷や王城での身の回りの世話をしてくれている。
年齢はきちんと聞いたことはないが、赤子だった私が今や、二十三歳だ。
働きだした年齢などを考えれば、四十代頃だろう。
年齢は大きく離れている。
が、腹の中の読めない役人が多くいる王城においては、ほとんど唯一といってもいいくらい、気の置けない存在だ。
誕生日などにはプレゼントを贈り合うこともあって、彼女がいつも身に着けているパールのネックレスは私がプレゼントしたものである。
「王妃殿下なんてやめて。アスタでいいわ。昔からそうだったでしょう」
「ふふ、でしたね。では、アスタ様。この間、お申し付けいただいた国王陛下の動向調査が終わりましたので、ご報告に上がりました」
「あら、その件ね。で、どうだった?」
「申し上げにくいのですが、やはり陛下はアスタ様の妹君・ハンナ様、との密会を重ねているようでございます。あの、あることないこと書いている『王都新聞』の情報は、今回ばかりは正しかったようですね」
「……そう。まぁ予想通りね」
今更がっかりもしない。
新聞記事には関係なく、その可能性が高いと思っていたからこそ、裏どりをお願いしていたのだ。
オルセン国王である、私の夫・ローレンは、奔放な人間である。
先代王が体調を崩されたことにより、若くして王位を譲り受けたのだが、責任感などはあまり感じていないらしい。
常に女遊びにうつつを抜かし、家庭や仕事を一切顧みない。
そして挙句、私の妹と不倫に走っているときた。
別に、ローレンが誰に色目を使ってようが、そんなものはどうでもいい。
もともと恋愛結婚したわけじゃなく、実家であるカポリス公爵家と、オルセン王家との関係を良好に保つため、政略結婚させられたにすぎないのだ。
結婚したのは二十の時で、ローレンとは別に、私には思い人がいた。将来を誓い合って、真剣に交際もしていた。
でも、公爵家において、親の命令は絶対だ。
抵抗はしたのだけど、「従わなければ、お前の恋人がどうなるか分かるか」と脅されて、仕方なく、王妃となった。
ただ、それだけの話だ。
今や、その時の恋人に未練があるわけじゃない。
が、ローレンが仕事をしないことに対しては、かなりの不満があった。
そもそもは今やっている仕事だって、本来は、国家のトップである彼がやるべき仕事だ。
だが、その彼がほとんど働いてくれないから、私はその代わりを務める形で仕事漬けになっている。
今や、決裁のため彼のサインを真似ることさえも、うまくなってしまった。
「しかし、陛下はどういうおつもりなのでしょう。側室にしようにも、ハンナ様にその権利はないというのに」
「さぁ、あの人の考えることはよく分からないけど……」
そう、一つの家から迎えられる妃は一人。
それは、貴族間の権力バランスを維持するために、国家法で定められている。
つまり、妹・ハンナは私がいる以上、どうやっても側室になることさえできない。
普通なら、そんな恋愛はしないだろうが……
「認められないからこそ燃え上がる、って奴かしらね。小説でなら、そういう関係性の男女の恋愛ものを読んだことがあるわ」
「実際にやられると、こうも寒いのですね」
「ふふ、ジール。随分はっきり言うわね。聞かれていたら処刑されているところよ」
「そ、それはアスタ様の前でしたから、つい……!」
「とにかく報告ありがとう。この件は、両親に伝えて、ハンナの方を引かせるわ。外に漏れたら、カポリス公爵家の恥になるもの」
「それがよろしいかと。その方が、すっきりしますし」
ジールと束の間の談笑を交わす。
一日の中で、そうはない憩いのひと時だ。
会議の時間はやたら長いくせに、こういうとき時間だけはあっという間に過ぎていく。
まだまだ話したりなかったが、私はその後きちんと、仕事へ戻った。
書類チェック、会議、地方領主との面会などハードにスケジュールをこなしていく。
そして、八の刻。
春になりだいぶ日が長くなったとはいえ、もうすっかり空が暗くなった頃。
私はその日最後の仕事のため、ドレスに着替えて、夜会へと出向いていた。
同盟国から要人が来ており、その歓迎会が催されるのだ。
そしてこういう場には、普段はまったく仕事をしていないローレン王も参加する。
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