第1話 イレネーの到着
古き良き時代から続く「聖女」制度は、まさしく形骸化しつつあった。
唯一の直系の跡取りであったはずのイレネーを、家督が欲しい叔父夫妻は、亡くなったイレネーの両親の遺志だと言い出して、今年の「聖女」候補として勝手に神殿に申し込んでしまった。
他に申し出がなかったのであろうか、彼女は、全くあずかり知らぬうちに今年の聖女になることが決まり、叔母はにこにこと荷造りをしてくれた。
毎年一人、貴族の十四歳になる子女の中から聖女は決められる。本神殿のある島へお付きの者もなしに送られて、十八歳になって冬を迎えるまでの五年間を、実家にも帰れずにひたすら、神に仕える役割である。
ーー要は、あの二人にしてやられたのだ。
(悔しい。私がちょうど十四になる年だったのも、叔父と叔母が幸せそうに手を振っていた様子も。当たり前のように空っぽにされた私の部屋が、どうやらあの夫婦の子供のものになるらしいことも。)
どうにかなだめすかして、私に気を許してもらおうとしていたから、油断をしていた。
あれで十分に警戒しているつもりだったなんて。
次の誕生日でやっと十四になる私には、権利はあっても、まだ家督を継ぐことができなかった。
聖女制度の仔細をまるで知らなかったせいで、こうしてまんまと、本庁からの豪奢な馬車に乗せられて、まるで子牛みたいに何の意思もないかのように、島へと送られている。
馬車に乗っている間に、ハンカチが三枚びしょびしょになった。出迎えられた時に真っ赤な目元を見られるのは、恥ずかしいし、悔しいのに。
(家をとられた。にこにこニコニコ嬉しそうだったあの面を、そうだ、どうせだから一度くらい、ひっぱたいておけばよかった。
家を盗られた。おとうさんおかあさんごめんなさい、)
「……五年後に従順な小娘になって帰ってくると思うなよ」
依然、家督を継ぐ権利が一番強いのは私である。そこは変わっていない。あくまでもあの人達は、私が聖女を務める五年の間、私から家督を預かっている立場だ。
五年経って私が戻ったら、今度はどう厄介払うつもりなのだろう。
……恐らく、今度は結婚のお膳立てだ。あぁ、死んでも嫌だ。きっとロクな縁じゃない。
未成年の頼みのない貴方を、亡き両親の代わりにちゃんと嫁がせてあげますからね、とか、きっとそんな建前を使って、また、私を、勝手に話を進めて、私の意思をともなわない所へーー。
「絶対に婿をとって、家督奪い返してやるんだから……!」
卑怯に掠め取ったものを、永遠に自分のものにしていられるなどと、ぬか喜びしていられるのも今のうちなんだからな。
イレネーは涙をふいた。さっき、御者が外から二回ノックをしたのが聞こえたのを、思い出したのである。たしか馬車に乗り込むときに、「長時間の移動なのでずっと寝ていても構わない、到着が近くなればノックして知らせる」といったようなことを言われたように思う。
感情の揺れがひどかったために、今やっと、親切な御者さんだなと理解が追いついた。
乗り込んですぐ反射的に下ろした窓の帳を、そろりと少し持ち上げてみると、その隙間から青くてまばゆい、きらきらした光の群れが、座面にことりと落ちてきた。
真っ赤の重厚な座面の上を、光が転がっているのをしばし眺めていた。
それから帳を全部上までたくし上げてフックで留めたら、ちょうど島へ続く道を渡っているところで、明るい海が広がっていた。
窓の端についに島も見え始めている。
五年を、私は得るのであろうか。それともやっぱり失うのかな。
無為に過ごすのだけは御免だった。
これが弱気を出す最後だぞと、自らを叱って、唾をのみながら、弱気を飲み込んでお腹の中に押し込めてしまう、という想像をした。
それと、今朝自分で結った「マガレイト」という古い髪型に、崩さないようそっと手を添えた。なんだか母さんがここにいてくれるような気がしてならなかったから。
「マガレイト」を教えてくれて、今と同じ幅広のリボンを、仕上げにきゅっと結んでくれた記憶を、思い出すなぁ。ーー思い出すな。
もう一度唾を飲み込んだ。
気の緩みから、また何かを失うのが本当に恐ろしかった。