第五話 偽善者3
今、涼宮の脳内では様々な考えが渦巻いているだろう。
人の善意を信じるという自分の信条。善意を疑う、人の善性を疑うという初めての行為。暖かい食事と風呂、安全な寝床。一週間彷徨っていた魔物の恐怖。
やがて涼宮は揺れる瞳で俺を見据えた。
「っ、花垣君が、私達を脅して襲って来るって事は……」
「はあ。そんなに心配なら……、ほら」
契約書の3項目目に「性暴力も禁ずる」と書き加えた。
契約は絶対であり破った場合はペナルティが下る。
「……分かった。契約、するよ」
涼宮は指を噛み、微かに流れ出た血を使って拇印を契約書に押す。
契約書は隅から少しずつ焦げ出し、一気に燃え尽きた。
「契約は成立した。これで俺達はコミュニティだ」
しんとした空気が流れ出し、部屋が静まり返った。
当たり前か。あんな脅迫をされれば、誰でも怖くなる。
この状況に納得し打破すべく、メニューから傷が一瞬で治るという高価なポーションを買い、九井に渡した。
「これって……」
「薬だ。飲めばその足の捻挫くらいすぐに治る」
「えっ? ……どうして怪我しているって分かったんですか?」
「家に来てからずっと右足を庇いながら歩いていただろ」
「それで……」
ポーションを受け取った九井は、そのフラスコの様な形状の硝子瓶を前にして、少しの間呆然とした。
そして十秒ほどが経った頃、意を決してポーションを飲み干した。
「って、え? 痛みが……」
劇的な何かがあったわけじゃない。
だが九井が席を立ち、少し飛び跳ねた事でポーションの効果が確かとなった。
「それじゃあ今日の内にも、今後の方針について話し合いたいと思う」
俺の言葉に反応して、蒼い顔をして俯いていた涼宮が自らの頬を叩いた。まだ顔色は回復していないが、真っ直ぐに俺の顔を見て、変な方針を出されたら止めないと。と決意した顔をしている。
「当面の目標はコインを集める事だ」
「コイン……、確かこのご飯を買ったのも、そのコインで買ったんだにゃ?」
「そうだ。コインは死活問題だからな。無くなれば死ぬと同義だと思って欲しい」
ごくり、と朝比奈が固唾を呑んだ。
皆の顔付きも一気に様変わりして、真剣になる。
「今やっているのは魔物の討伐だな。罠を張って、簡単に討伐してそれをコインに変換してる。だが他にも手段はあるはずなんだ。例えば――――」
月も頭上を越えた深夜、会議は進んだ。
……。
…………。
…………………。
会議を終え、今日はもう眠る事にした。
しかしそこで一つ、小さな問題が生じる。
「わあ、きつきつだにゃあ……」
寝室が一つしか無かったのだ。
五人が寝られる様にベッドは購入したが、五個を繋げて並べるのでやっとだった。
「俺はソファで寝るから、五人はこっちで寝てくれ。それじゃあおやすみ」
「ま、待ってよ」
「なんだ?」
「家主がソファで寝るなんておかしいよ。一緒に寝よ?」
「……は?」
さっさと部屋から退散しよう、その思いで部屋を出ようとしたが服の裾を掴まれて、足を止めた。振り返ると涼宮がさっきの会話の反省の欠片も無い事を言うもので、ふつふつと怒りが湧いて来た。
「いや、さっきの話聞いて無かったのか?」
「聞いてたよ。花垣君は私達の意志を無視して性的な事を出来ないってことでしょ?」
「いや、それは、そうだが……」
お前達も何とか言ってくれ。そういう願いを込めて朝比奈を見れば、彼女はうん?と首を傾げた。
「なら問題無いにゃあ」
「問題大ありだろ。男と同じ部屋で寝るんだから」
駄目だ、朝比奈は男子との距離がかなり近い。
男と同じ部屋で寝るという行為にも、そこまで危機感を持っていない可能性が高い。
だがまだ俺と同じ思いを秘めている奴がいる。男と一緒に寝るなんて淑女にあるまじき行為、神楽坂なら止めてくれるはずだ。
「……私の隣で寝るなら、良いわよ」
そんな思いは呆気なく砕け散った。
誰に反対意見も無いなら、俺が断る事は出来ない。
最終的な決定権は俺が持っているとは言え、彼女達の意見を尊重すると契約書に書いてしまったのだから。
「分かった、よ……」
ガクッと肩を落とし、素直にその提案を受け入れた。
結局、左から俺、神楽坂、涼宮、神楽坂、九井、柊という順番で並んでベッドに上がる。暖かな布団も久しぶりだろうから彼女達から喜びの声が上がるが、次第に寝息の数が増えて行った。
俺はと言えば激しく鼓動する心臓の音色に目を覚ましてしまった。中々寝る姿勢が定まらず、右側に向けて寝返りをうつ。そしてその事を次の瞬間には後悔した。
「すぅ、すぅ……」
いつも凛とした立ち振る舞いをする、神楽坂の無防備な寝顔がそこにはあった。
規則正しい寝息をたて、男として産まれればさぞかしイケメンになったであろう整った顔立ち。柊とはまた違うタイプの美人だ。
再び脈打つ心臓を鎮めるため寝返りを打ち、壁と向き合いながら煩悩と戦い続けた。結局、その日眠ったのは何時間も後だったと思う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
鬼は昂っていた。
久しぶりに見付けた獲物。
三匹喰らったが、どれも柔らかく上質な雌で、良い悲鳴を上げた。
「ぅ、ぁ……」
その分厚く巨大な手で握っている、生きた人の雌。
すでに散々弄んだ後で息も絶え絶えだが、逃げた獲物を誘き寄せるには使えると鬼は考えていた。
「ゃぁ……」
鬼は手に持っていた雌を口元に運び、まるで道具を愛でる様に舐めた。
ねばりとした気持ちが悪い感触が少女の身体を包み込み、悪臭が漂った。少女の表情が苦悶に歪むが、その嫌がる姿すら鬼にとっては娯楽に等しい。
後を追う事をやめ、鬼は雌を手放し、その上に覆い被さる。
少女は泣き叫ぶ。しかし誰も助けには来てくれない。
永遠にも等しい絶望が少女を襲った。
どれだけの時間が経っただろうか。地鳴りにも似た腹の音が響き渡り、鬼は口端から流れ出る涎を拭う事無く、森を進んだ。
その鋭い嗅覚は一度嗅いだ匂いを忘れる事無く、獲物を探して歩を進める。
手に握る少女は白濁した液体に穢され、生気を感じさせずに脱力し切っていた。
すでに少女の命の灯は、消えかけている―――――。