ノート
仕事を終えて家に帰ると、姉の彼氏が来ていた。
どうやら今日は、二人とも休みだったらしい。
彼らは同じ職場で働いており、週末が忙しい業種なので、休みはいつも平日だ。
姉はテレビをつけたままソファでうたた寝をしており、彼氏の方は台所で料理をしている。
彼は頻繁にうちへ遊びに来るので、僕や弟とも親しい。
「お帰り。夕飯もうすぐ出来るよ」
と彼が僕に笑いかける。
「手伝います」
と声をかけ、僕は急いで着替えと手洗いを済ませてから台所に向かった。
ガスコンロの上に、見慣れない鍋が置いてある。
縦に長い寸胴型で、L字を逆さにしたような取っ手が付いている。
「その鍋、どうしたんですか?」
僕が尋ねると
「新しく買った鍋が重くて使いにくいって聞いたから、うちにある鍋を持ってきたんだ」
と言って、彼は下味をつけた鶏肉に片栗粉をまぶす。
鍋の中を覗くと油がたっぷり入っている。どうやら唐揚げを作るようだ。
「あとは揚げるだけだから、冷蔵庫に入っているサラダや取り皿をテーブルに出しておいてくれる?」
彼に言われて、僕は冷蔵庫を開ける。
大皿に盛られたサラダと市販のドレッシングを食卓に運び、食器や箸を並べる。
シンクの中にたまった調理道具を洗いながら、僕は彼に話しかけた。
「その鍋、珍しい形ですね」
「マルチポットっていうんだよ。一人暮らしを始める時に実家から持ってきたんだけど、凄く便利なんだ。これ一つで揚げ物から煮物、炒め物まで何でも出来るし、味噌汁やカレーを作る時にも使える。お湯を沸かすにも丁度良くて、やかん代わりにもなるんだよ」
彼の話を聞いているうちに僕も欲しくなってきて
「どこのメーカーですか?」
と尋ねた。
「フィスラーっていうメーカーだよ。焦げ付きにくいし把手も熱くなりにくいから、使い勝手が良いんだ」
洗い物を終えた僕は、ポケットから携帯を取り出してマルチポットを検索する。
そして、その値段に驚愕した。
「高いんですね……」
僕の呟きを耳にした彼が、携帯の画面を覗き込む。
「本当だ……実家にあったのをもらってきたから、こんなに高いなんて知らなかったよ」
ストウブの鍋も定価だと高いが、僕はセールで購入したので安く手に入れることができた。
だが、フィスラーのマルチポットはセール対象外のようで値引きされていない。
「マルチポットは高いから、セール品の安い鍋を買ってみようかな」
僕が言うと、彼に止められた。
「やめた方が良いよ。実家にはフィスラーの安い鍋もあったけど、焦げ付くし把手も熱くなるしで、母さんがイライラしてた。値段によって品質が違うのかも」
それを聞いて、僕は少し残念な気持ちになる。
しょんぼりしている僕を見て同情したのか
「そんなに欲しいなら、この鍋をあげようか?」
と彼が言い出したので、僕は慌ててその申し出を辞退した。
こんなに良い人が、なぜ姉と付き合っているのか不思議でたまらない。
彼のような好人物なら引くてあまただろうに、どうして姉という傍若無人なモンスターを選んだのだろうか。
僕は無意識に彼を見つめていたようで
「何? やっぱり鍋が欲しい?」
と聞かれて、即座に否定しながら疑問を口にした。
「あの……どうして姉と付き合っているんですか?」
僕の質問に、彼は遠い目をしながら話し始めた。
「俺、前は裏方の部署にいたんだ。でも、人手が足りないからって言われて、いきなり接客の方にまわされた。それまで接客なんてほとんどしたことがなかったから、毎日が地獄だったよ」
「他のスタッフは、俺みたいな接客の素人が配属されて困惑していたし、みんな忙しいから引き継ぎや研修なんかしてもらえなくて、俺は誰にも何も教えてもらえないまま失敗ばかりしていた」
「そんな時、君のお姉さんが俺に声をかけてくれたんだ。『あまりにも酷いから特訓する。休日を教えなさい』ってね」
「休みが重なった日に呼び出されて、一日中拘束された。彼女は『今日中に最低限のことを身につけろ』と俺を叱った後、長い時間をかけて業務内容を叩き込んでくれたんだ」
そこまで聞いて、これは完全なパワハラではないかと思った僕は
「その節は、姉が大変なご迷惑を……」
と謝罪しかけたが、彼は笑いながら否定した。
「全然、迷惑なんかじゃなかったよ。むしろ凄く嬉しかった。君のお姉さんは厳しいことも言うけれど、意地悪な人じゃない。だって貴重な休みの日を使って、わざわざ俺を指導してくれたんだから」
「帰り際に聞いたんだ。『どうして俺のために時間を割いてくれたんですか?』って。そうしたら、君のお姉さんは『あんたの為にやったんじゃない。私が誇りを持ってやっている仕事を、適当な気持ちでやっている奴が許せないだけだ』って言ったんだ」
姉らしい言い方だけれど、無礼にも程がある。と僕は思ったのだが、彼は照れくさそうな顔で
「不器用で誤解されやすいけど、優しい人なんだなって思った。それがきっかけかな」
と話を締めくくり
「冷めないうちに食べようか」
と言って、姉を起こしに行った。
三人で食卓を囲んだ後、翌日の早朝からシフトが入っているという彼を玄関で見送り、僕は後片付けをしてから自分の部屋へと戻った。
本棚から、サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』という童話を手に取り、ベッドに腰掛けながらページをめくる。
王子さまは、一本のバラをとても大切にしていた。
けれども、女王様のように振る舞うバラと喧嘩になった王子さまは、バラの花から逃げ出すようにして故郷の星を旅立つ。
子供の頃は、バラの花と王子さまの関係が歪なものに感じられて、王子さまがバラの花にこだわる理由がよく分からなかった。
けれども大人になるにつれて、少しずつ理解できるようになってきた。
学生時代、とても評判の悪い人物がいて、僕の友人はその人物に恋をしていた。
周りの人達は「絶対にやめておいた方がいい」と言うのだが、友人は聞く耳を持たない。
そんな友人に対して、印象的な助言をした人がいる。
「他の人達からは見えている悪いところが、君には見えていないのかもしれないし、他の人達からは見えてない良いところが、君には見えているのかもしれない。いくら周りの人達に『やめとけ』って言われたって諦められないだろうから、自分の好きなようにすればいいよ」
助言をした人の声音には、とても温かな響きがあった。
たとえ上手くいかなかったとしても、悔やむ必要も恥じる必要もない。
その人の言葉には、そんな思いが込められているような気がした。
手にしたノートに書かれた文章は、そこで終わっていた。
このノートは、入院中の親戚から私宛てに届いた、大きな封筒の中に入っていたものだ。
親戚というのは母の従兄弟にあたる人物で、私が小学生の頃は毎月のように顔を合わせていた。
あまり会話をした記憶は無いけれど、よく図書館に連れて行ってくれて、日が暮れるまで一緒に本を読んだ。
それにしても、どうしてこのノートを私に送ってきたんだろう。
しばらく考えてから、私は一つの仮説にたどり着いた。
もしかしたら、このノートは処分するつもりだったのかもしれない。
だけどきっと、ゴミ箱に捨てることが出来なかったのだ。
誰にも見せるつもりのなかった心の内を、誰か一人くらいには知っておいてもらいたいと願ったのではないだろうか。
この考えは、まるっきり見当違いかもしれない。
かと言って本人に尋ねても答えは返ってこないだろうし、私も聞くつもりはなかった。
台所の方から、母の声が聞こえてくる。
「ご飯できたわよ、早く食べちゃいなさい」
私はノートを閉じて本棚にしまう。
食卓へ向かいながら、明日は久しぶりに図書館へ行ってみよう、と心に決めた。