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連作短編集  作者: パンダカフェ
鍋を買う
6/26

雲の上

 僕に株を勧めてきたのは、弟だった。


 弟は、基本的に物事を深く考えない。少なくとも、僕の目にはそう映る。


 彼を見ていると、夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭を思い出す。


『親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている』


 弟は、まさにそのような人物であった。


「兄ちゃん、株を買いなよ。俺が教えてやるからさ」

 と上から目線で色々とアドバイスをくれるのだが、どうにも信用ならない。


「お前の買った株の銘柄と、どれくらい利益を出しているのかを見せてくれ」

 と頼んだら

「パスワードが分からなくてずっと放置しているから、自分の買った株がどうなっているのか分からない」

 と言い出した。


 そんな状況で僕に株の売買を勧めるなんて、どうかしている。

 僕は嫌な予感がしたので、弟を説得して彼の持ち株の損益を確認することにした。


 弟のアパートへ出向き、散らかった部屋の引き出しや棚の奥などを二人で隅々まで探したところ、ようやくパスワードが記された手帳を見つけ出すことが出来た。


 弟はさっそく証券会社のマイページにログインして、損益を確認する。

 その途端、彼は眉をひそめて

「おかしいなぁ。これ、計算が間違っているんじゃないかなぁ」

 と首をひねる。


「ちょっと見てみてよ」

 と促され、僕も画面を覗き込む。


 そこには、目を疑うような損害額が表示されていた。


 正確には「含み損」というもので、株を売却しない限り損害は確定しないのだが、現時点では大幅にマイナスとなっている。


「信用取引」という借金のような取り引きをしたのではないかと青ざめたが、「現物取引」という自己資金のみの取り引きだったので、胸を撫で下ろした。


 しかし、弟が自力でこんな大金を用意できるわけがない。


「お前まさか……受け取った遺産を株につぎ込んだのか?」

 僕が尋ねると

「そうだよ。資産運用ってやつ?」

 弟は得意げに答えた。


 信じられない。

 これでは両親も浮かばれない。


 弟が購入した銘柄の取得単価と現在の株価を確認した後、各銘柄のチャートを見ながら株価の推移を調べた。


 彼の購入した銘柄は三つあり、そのうちの二つが大きなマイナスになっている。

 株価が暴落した時期のニュースを検索して、原因を探る。


 すると、不祥事が発覚したり、経営不振に陥っていることが明らかになったりした直後に、その企業の株を購入していることが分かった。


 ……何故こんな危ない橋を渡るような真似をしたのだろう。


「あのさ、どうしてこの銘柄を買ったのか教えて欲しいんだけど」


 僕が尋ねると、弟はあっけらかんとした様子で答えた。


「ええっと、確か……株価が下がっていたから、安く買えるチャンスだと思ったんだよね」


「……株価が下がった原因を調べてから買ったのか?」


「そんな面倒臭いことするわけないだろ」


「お前が買った後にも株価は下がり続けたんだぞ? おかしいと思わなかったのか?」


「だから、パスワードが分からなくなったから株価なんて見てないって言っただろ。何だよもう、うるさいなぁ。説教するなら帰ってくれよ」


 弟は怒り出し、僕は彼の部屋から追い出されてしまった。



 姉と暮らすマンションに戻り、夕飯の支度に取り掛かる。何だか疲れてしまったので、簡単なものにした。


 輪切りにしたズッキーニとカットベーコンを鍋に放り込み、オリーブオイルと塩を適当に入れて蓋をする。

 弱火にかけておけば、野菜から出た水分で程よく蒸され、手軽な副菜が出来上がる。


 主菜はどうしようと考えながら台所を漁り、サバの味噌煮の缶詰とホールトマトの缶詰を見つける。

 二つとも小鍋にぶち込み、煮立ったら火を弱め、冷蔵庫にあった細切りチーズをたっぷりと入れる。


 そうこうしているうちに姉が帰宅したので、料理を盛り付けて食卓に並べた。ご飯茶碗を片手に炊飯器を開けたところで、米を炊いていないことに気付く。


 また姉と喧嘩になる……と頭を抱えそうになったが、この前余ったご飯を冷凍庫にストックしていたことを思い出し、事なきを得た。


 夕食の席で、僕が弟のことを相談すると

「借金しているわけじゃないんでしょう? だったら放っておきなさいよ」

 と姉はため息をつきながら答えた。


「借金はしてないけど、親の遺産を株につぎ込んでる」


「別にいいじゃない。今はもう、あの子のお金なんだから。お互い大人なんだから、余計な口出しをするのはやめなさいよ」


「でも……」


「ごちゃごちゃうるさい! 大きなお世話だって言ってんの!」


 いつものように言い争う気力が湧かなかったので、僕は大人しく口を閉ざした。



 後片付けをして自分の部屋へ行き、本棚から夏目漱石の『坊ちゃん』を抜き取る。


 ベッドに寝っ転がりながら、僕は解説のページを開いた。


 夏目漱石の著作は『坊ちゃん』と『こころ』しか読んだことがない。


 学生の頃に二つの作品を続けて読んだ時は、ずいぶん違った作風のものを書く人なんだなぁと驚いた。


 だが大人になってから『坊ちゃん』を買い直し、解説のページを読んで妙に納得した。


 解説には、自分とは異なる視点で作品を捉えた考察が書き記されていたからだ。


 僕は『坊ちゃん』という作品を、ユーモアにあふれた痛快な物語として楽しんでいた。

 もちろん、このような受け止め方も間違いではないと思う。


 けれども「新潮文庫」の江藤淳の解説には

『一見勝者と見える坊ちゃんと山嵐が、実は敗者にほかならないという一点において、一見ユーモアにみち溢れているように見える『坊ちゃん』全編の行間には、実は限りない寂しさがただよっている』

 と書かれていた。


 作品の中で、主人公ともう一人の人物は理不尽な出来事に暴力で立ち向かい、相手を懲らしめることに成功する。だが職場から去ることになったのは、相手ではなく主人公達の方だった。


 世の中は、ままならない。


 解説に目を通した後に読み直すと、『坊ちゃん』という作品には、これまでとはまた違った味わいがあるように思えた。



 作品だけでなく、解説も魅力的だと感じた本がもう一冊ある。


 リチャード・バックという作家の『イリュージョン』という作品で、村上龍が翻訳したものだ。


 村上龍の解説が付いた集英社文庫のものは絶版になってしまったのか、買い直そうとしても書店では見つけられなかったが、僕は運良く古本屋で手に入れることが出来た。


 十ページほどの解説にはリチャード・バックの言葉が散りばめられており、これまで何度も読み返した。


 とりわけ

『雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で雲の上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ』

 という部分が心に残っている。


 自分の目に映るものだけが全てではない。


 ということは、僕が正解だと信じていることが、他の人々にとってもそうであるとは限らないわけだ。


 だから姉の言う通り、弟のことは放っておけばいいのかもしれない。


 このまま株を売却せず塩漬けにしておけば、遠い未来のどこかで株価が爆上げし、弟の子孫に莫大な利益をもたらすことだってあるかもしれない。


 そう思うと、僕はちょっとだけ気が楽になり、弟から助けを求められるまでは何もしないことに決めた。


 窓を開けて外の空気を吸い込むと、夏の匂いがした。

 空は雲に覆われて真っ暗だ。

 けれどもリチャード・バックの言葉を借りるならば、あの雲の上には、無数の星が光り輝いているはずなのだ。

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