待合室
雨音を聞きながら、ふと記憶が蘇る。
鍋を買おうと思い立ったのも、こんな雨の日だった。
梅雨時のある日、健康診断に引っかかった僕は、精密検査を受けるために大学病院へと赴いた。
大きな病院は、恐ろしく待ち時間が長い。
僕はお気に入りの文庫本を鞄の中から取り出し、ページをめくる。
半分ほど読み進めたあたりで、隣に座っていた人から声をかけられた。
「何を読んでいるの?」
声の主は見知らぬ女性で、にこにこしながら僕の返事を待っている。
全く見覚えのない顔だったので反応するべきかどうか迷ったが、人の良さそうな彼女の笑顔につられて、思わず返事をしていた。
「……短編集です」
「誰の?」
「O・ヘンリーっていう外国の作家です」
「どんな話を書いている人なの?」
初対面なのに随分グイグイくるなぁ。
待ち時間が退屈で、話し相手が欲しいんだろうか。
そんなことを考えつつ、誰でも耳にしたことがありそうな代表作を二つ挙げた。
「有名なのは『最後の一葉』とか『賢者の贈り物』ですかね」
「二つとも読んだことある。他にも知ってるのがあるかもしれないから、目次を見せてくれない?」
彼女に頼まれて、僕は本を手渡した。
「……残念。他に知ってるのは無いみたい。ねぇ、あなたはどの話が一番好きなの?」
彼女は僕に本を返しながら尋ねる。
この会話、いつまで続くんだろう。
僕は戸惑いながらも
「これです」
と言って、目次に書かれた『感謝祭の二人の紳士』という題名を指差した。
「どんな話?」
あまりにも食い下がってくるので、僕はちょっと面倒くさくなってしまったのだが、彼女はひまわりみたいな明るい笑顔で質問を重ねてくる。
「どうして、この話が好きなの?」
「……簡単に言うと、相手のために良かれと思ってしたことが、全部無駄に終わるっていう話なんですけど、それを肯定的に捉える作者の感性が、何か良いなって思って……」
話しながら、自分でも何を言っているんだろうと思った。
意味不明にも程がある。こんな説明じゃ何も伝わる気がしない。
だが彼女は、信じられないくらい的確に僕の意図を汲み取ってくれた。
「なるほどね。『賢者の贈り物』も、そんな感じの話だもんね」
そうなのだ。O・ヘンリーは『賢者の贈り物』の中で、お互いのために宝物を台無しにした愚かな夫婦のことを「最高の賢者」と書き記した。
そして『感謝祭の二人の紳士』でも、相手のために無理をして病院に運ばれた愚かな二人のことを「紳士」と表現した。
巻末に記された略歴によると、O・ヘンリーの生涯は決して順風満帆なものではなかったようだ。
けれども、彼の作品からは不思議と世の中や人々に対する温かな眼差しが感じられた。
初めて彼の小説を読んだ時の心境を、今でもよく覚えている。
世界は、自分の捉え方一つでその姿を自在に変える。
彼の作品を読み返すたびに、そのことを思い出す。
しばらく黙っていた隣の女性が、再び口を開いた。
「鍋を買うといいわよ」
あまりにも唐突な提案だったので、聞き間違いかと思った僕は
「鍋?」
と聞き返した。
「病気や怪我をすると、家の中で過ごす時間が長くなるでしょう? 本を読むのに飽きたら、外国製のずっしりとした重たい鍋を買うといいわよ。好きな材料を入れたら、蓋をして弱火にかけておくだけで美味しいご馳走が出来るから。お勧めの鍋はーー」
彼女の話を遮るように看護師が僕の名前を呼び、隣の女性は
「また後で」
と言って微笑んだ。
僕は立ち上がり、彼女に会釈をしてから診察室へと向かう。
医師の診察を受け、検査の手順を説明してもらった後で待合室に戻ると、先程の女性の姿はどこにも無かった。
全ての検査が終わり、会計を済ませる頃には夕方になっていた。
空腹を覚えた僕は、さっきの女性が言っていた話を思い出す。
もし検査の結果があまり良くなかったら、外国製のずっしりとした重たい鍋を買おう。
そんな風に思いながら、僕は駅へと向かうバスに乗り込んだ。