語学学校
高校生の頃、学校の留学プログラムを利用してイギリスの語学学校に通ったことがある。
クラスメイトは日本や韓国、それから中国などのアジア系が半分を占め、残りの半分は中東のトルコやアラブ首長国連邦の人達、そしてイタリアやフランス、スペインなどのヨーロッパから来た人々だった。
年齢もまちまちで十代から四十代までと幅広く、それまで同年代のクラスメイトとしか接点の無かった俺にとって、彼らと過ごす時間はとても興味深かった。
遠く離れた国々で生まれ育ち、年代も経歴も様々な人達が一つの教室に集まり、英語という共通語で意思の疎通を図る。
そうするとやはり、人種差別や歴史的背景による敵対意識、文化の違いや言葉の壁などの問題が立ちはだかり、時には生徒同士でぶつかることもあった。
そんな多種多様の生徒達をまとめてくれたのが、リンダという先生だった。
リンダは金髪の白人女性で、大らかな性格をした肝っ玉母ちゃんみたいな人だった。
彼女は、生徒達が遅刻したりサボったり宿題をやらなかったりしても、叱ることはなかった。
その代わり、相手の目を見ながら静かにこう言う。
「授業についてこられなくなって、困るのはあなたよ」
この言葉は実に効果的で、リンダのクラスにいる生徒達は、他のクラスに比べて真面目に勉強する者が多かった。
教室の中では母国語で話すことが許されず、使用出来る辞書も英英辞書のみだったから、初めはとても苦労した。
英英辞書は、英語の意味が英語で説明されている辞書なのだが、本屋に行っても種類がたくさんあり過ぎて、どれを買えばいいのかさっぱり分からない。
クラスメイトのリナも困っていたので、二人でリンダに相談しに行くと
「知らない言葉を一つ選んで、その言葉を何冊もの辞書で調べてみなさい。その中で、自分にとって一番よく理解できる説明が書かれているものが、あなたの買うべき辞書よ」
と教えてくれた。
俺はこのアドバイスにとても感銘を受けた。
他者に頼るのではなく、自分自身で相応しいものを見極めなさい。
そう言われているように感じたからだ。
クラスメイトとのやり取りでも、印象に残っていることが二つある。
一つは、韓国人の生徒達との関わりだ。
その頃の俺は、日本と韓国の歴史的背景などまるで知らなかった。
だから、何のわだかまりもなく言葉を交わし、時には一緒に遊びに出かけて楽しく過ごしていた。
けれどもある日、クラスにいる韓国人のうちの一人から過去の恋愛話を聞かされ、俺は自分の無知を恥じることになる。
二十代の韓国人の青年は
「日本人の女の子に恋をしたんだ。でも、彼女が帰国する時に気持ちを伝えられなかった。心の中では彼女のことが大好きだったけれど、頭の中では日本人を憎んでいたから」
と胸中を吐露した。
「どうして日本人が憎いの?」
何も知らない俺が尋ねると、彼は少し困った顔で答えた。
「僕達はね、日本人が韓国人に対してどんな仕打ちをしてきたかということを、学校の教科書で学んできたんだ。……君は何も知らないの?」
彼の話をきっかけに、俺は日本と韓国との関係について知ることとなった。
日本の教科書には一行しか記されていない出来事が、韓国の教科書では数ページに渡って詳しく描写されている。
そのことを知って、俺は愕然とした。
俺の出会った韓国人のクラスメイトは、みんなとても親切だった。
けれども、明るくてフレンドリーな彼らの心には、日本人である僕に対しての憎しみが潜んでいるのかもしれない。
そう思うと、今までと同じように彼らと接することが出来なくなってしまった。
彼らと距離をとった俺は、アラブ首長国連邦から来た医師の中年男性と仲良くなった。
彼と一緒に語学学校の食堂でランチをしていた時に、軍人の青年が声をかけてきた。
青年は医師と同じアラブ人で、まだ十九歳だと言っていた。
「私達の国では、医師と軍人は国費で留学させてもらえるんだ。もちろん、選ばれた者だけだけれどね」
そう医師に教えてもらった俺は、初めて見る本物の軍人に興味津々で、今思えばとても失礼な質問をしてしまった。
「軍人ということは、戦争に行ったことがあるの?」
俺の質問に、精悍な顔つきをした青年は
「まだない」
と短く答えた。
「そうなんだ。どうして軍人になったの?」
重ねて質問する俺に
「生きるためだよ」
と彼が答える。
「でも……、戦争に行ったら命を落とす確率が高まるんじゃない?」
「軍人になっていなければ、今日まで生きられたかどうかも分からない」
彼の返事に、俺は言葉を失った。
そんな俺を見て、彼は少し微笑んだ。
そして
「今度はこっちが質問する番だ。日本のことを色々と教えてくれよ」
と言って話題を変えた。
その日から、俺達は顔を合わせれば言葉を交わすようになり、少しずつ親しくなっていった。
軍人の彼の帰国が近付いたある日、印象に残るもう一つの出来事が起きた。
その日はとても天気が良くて、軍人の彼と俺は外のベンチで昼食をとることにした。
食堂で買ったサンドイッチを頬張りながら、彼がポツリと呟く。
「もうすぐ君ともお別れだな」
俺は何だか急に寂しくなり、ずっと心にしまっておいた言葉を口にしてしまった。
「帰国したら軍隊に戻るんでしょ? ……俺、君には戦争に行って欲しくないな。……だって戦争に行ったら、君が人殺しになってしまうかもしれないから」
すると彼は指で銃の形を作り、俺の額に突きつけながら言った。
「ここがもし戦場で、君の額に突き付けられているのが本物の銃だったとしたら……そして、君の手にも銃が握られているとしたら、それでも君は引き鉄を引かないって言える?」
彼の問いに、俺は答えることができなかった。
その代わりに
「俺は、君に死んで欲しくないし、人殺しにもなって欲しくない」
と、絞り出すような声で言った。
彼は
「じゃあ、この先ずっと戦争が起こらないように、祈っていてくれよ」
と言って、穏やかな笑みを浮かべた。
軍人の彼が帰国してしばらく経った頃、俺も日本に帰ることになった。
同じ時期に帰国する生徒が何人かいたので、リンダはクラスの皆に声をかけ、ランチタイムに送別会のようなものを開催してくれた。
俺は皆に別れを告げながら、勇気を出して韓国人のクラスメイトが集まっているテーブルにも挨拶をしに行った。
「今までありがとう」
俺は握手するために片手を差し出したが、日本人の俺と握手なんてしたくないかもしれないなと思い、手を引っ込めようとした。
その時、俺に過去の恋愛話を聞かせてくれた韓国人の青年が、俺の手を強く握り返してくれた。
それから
「過去に起きた出来事は変えられないし、多くの人から憎しみの気持ちが消えることはないかもしれない。でも僕は……少なくとも僕だけは、その憎しみを相手に返そうとは思わないよ。君に会えて良かった。友達になってくれてありがとう」
と言って、白い歯を見せた。
この時の彼の言葉と表情は、今も俺の心に深く刻まれている。
語学学校で受ける最後の授業が終わり、俺はリンダのところへお礼を言いに行った。
「あなたがここで学んだのは、語学としての英語だけじゃない。英語という手段で、世界を知ることが出来るということも学んだのよ。ここで得たことを忘れないでね」
リンダはそう言って微笑んだ。
歳を重ねるたびに、世界は美しいものではないということを思い知らされる。
悪意にさらされ、敵意を向けられ、心に湧き上がる負の感情を抑えきれないこともある。
そんな時、俺はまるで汚い泥濘の中に足を取られて、身動きが出来なくなったような気持ちになる。
だが、目を閉じて胸に手を当てると、瞼の裏には懐かしい人々の表情が浮かび、耳元には温かな言葉が蘇る。
俺は、宝石のように光り輝くそれらを泥濘の中から拾い上げ、丁寧に磨いてポケットの中へとしまう。
いつか俺と同じように泥濘から抜け出せずにいる人に出会った時
「こんな綺麗なものを見つけたよ」
と言って、手渡すことが出来るように。