塾
僕は中学生の頃、寺子屋Qという珍妙な名前の塾に通っていた。
寺子屋Qの「Q」が何のことなのか、訊ねたことはあった気がするけれど、どんな答えだったのかは覚えていない。
その塾は、塚田先生という中年の男性が個人で運営しており、狭くて古い平屋の一室に、長机と座布団を並べて教室として使っていた。
塚田先生は口髭を蓄えたぽっちゃり体型で、癖のある髪はやや後退し始めていたが、ユーモアあふれる気のいいおじさんだった。
僕は姉の幼馴染の大輔君に誘われてその塾へ通うようになったのだが、あまり繁盛している様子はなく、僕達が行く時間には他の生徒がいなかった。
大輔君と僕は小さい頃から仲が良く、姉は成長するにつれて一緒に遊ばなくなったが、僕は彼を兄のように慕い、中学生になっても親しくしていた。
僕は幼い頃から本ばかり読んでいる子どもで、授業中はいつもぼんやりと空想にふけっていたから、成績は大体平均かそれ以下だった。
姉はそこそこ勉強が出来たので、親の期待は姉へと集中しており、僕はあまりうるさく言われることもなく放って置かれた。
その塾へ行く楽しみの一つが、たまに焼き鳥を食べられることだった。
プリント学習を始めてから一時間ほどすると、休憩時間になる。毎回ではなかったが、塚田先生は気が向くと財布から千円札を何枚か取り出し、大輔君に渡す。
「これで、買えるだけ焼き鳥を買っておいで」
その言葉を聞くと、僕達は急いで近くの公園のそばにある焼き鳥屋さんへと向かう。
大輔君は慣れたもので、手際良く数種類の焼き鳥を注文する。お店のおばちゃんは、よく買いに来る僕達を覚えていて、時々おまけをしてくれた。
塾の狭い教室で、身を寄せ合いながら食べる焼き鳥の味は、格別に美味しかった。
塾に通い始めてから半年ほどたった頃、大輔君が塾を休み、僕と塚田先生の二人しかいない日があった。
大輔君がいる時と違って、その日の塚田先生は親父ギャグを言っておどけることもなく、別人のように落ち着いた雰囲気だった。
もしかして、普段は僕達に合わせてキャラを作っているのかなぁと思った僕は、先生に興味が湧いてきて色々と質問してみることにした。
「先生、塾の授業が無い昼間は何してるの?」
僕の質問に、塚田先生は穏やかな声で答えた。
「昼間も授業はあるよ。不登校の子達が通うクラスがあるんだ」
それを聞いた僕は、軽い気持ちで思ったことを口にした。
「不登校かぁ。学校へ行かずに、この先どうするんだろう。取り返しがつかないことになりそう」
僕がこんなことを言ったのは、以前テレビか何かで不登校の話があり、その番組を一緒に観ていた父親が「不登校なんて、お先真っ暗だな」と呟いたのが、強く心に残っていたからだ。
不登校になったら、人生終わる。
他の大人達も、きっとそんな風に考えているんだろうと思っていた。
けれども、塚田先生の反応は想像していたものとは全く違った。
「不登校になったからって、取り返しがつかないなんてことはないよ。少し道を外れたって大丈夫。人生は、いつだって取り戻せる」
塚田先生の言葉を聞いた僕は、初めて本物の大人に出会った気がした。
何の取り柄もない僕を唯一褒めてくれたのも、塚田先生だった。
僕は、学校の通知表のコメントには問題点や今後の課題を書かれることが多く、それを見た母はいつも苦い顔をしていた。
しかし、塾の保護者面談から帰ってきた母は
「塚田先生がね、あんたはやれば出来る子だって言うのよ」と嬉しそうな顔をしていた。
「やれば出来る」ということは、「今は出来ていません」ということなのだが、そう言われた僕は、何だか本当にやれば出来るような気がして、以前よりも身を入れて勉強するようになった。
塚田先生との別れは突然だった。
中学一年生の終わりに、僕達は塚田先生から保護者宛ての封筒を手渡され、中に入っていた手紙を見た母は神妙な顔をしていた。
気になった僕は手紙を見せて欲しいと頼んだが
「塚田先生は病気で入院することになったから、塾も閉鎖するんですって」
と言って、手紙をどこかに隠してしまった。
そこからはあっという間だった。
次に塾へ行った時には、ダンボールが山積みになっていて、ほとんど荷造りは終わっていた。
「先生、また戻ってくる?」
僕の問いかけに
「戻ってくるよ。必ず、戻ってくる」
と、塚田先生は優しい笑みを浮かべて答えた。
あれから長い時が過ぎ、塾のあった場所には今、アパートが建っている。
「戻ってくる」という約束は、この先もきっと果たされることはないだろう。
あれから僕は、たくさんの挫折を味わった。
その度に僕の心を支えてくれたのは、塚田先生の言葉だった。
人生は、いつだって取り戻せる。
「もうだめだ」と思うことがあると、必ずこの言葉が頭に浮かんできて、僕は再び歩き出すことができた。
僕は今、学習塾の講師をしている。
いつか、塚田先生のような塾講師になりたい。
それが僕に出来る、唯一の恩返しなんじゃないかと思っている。