魔法博士ヒオリは夢を見る07
先ほどのこともあってかしばらくぎこちない空気が続いていたが、次の区画に移る時、ヒオリはぽつりと呟く。
「香水研究室、か。似たような研究をしてるのね……」
「え?」と首を傾げてこちらを見たメルだったが、己の言いたいことを理解したらしく頷いた。
「もしかしてヒオリちゃん、ニールさんのこと気になってたりする?」
「ああうん、そうね。この時期に入って来るなんて妙だし」
晴れて博士号を取得した新人が入所してくる時期はまだ遠く先である。
そもそもニールは新人らしい初々しさはなく、ヴェロニカも「赴任」してきたと言っていた。
恐らくどこかの研究所に勤めていたのだろう。
ならどうして以前の職場を辞めてここに来たのか?
確かにディアトン国立魔法研究所はこの国で一番大きく設備の整った研究所であるが、それゆえ簡単に入所出来るものでもない。
それを可能に出来るほど、ニールは優秀なのだろうか?
少し気になったが美容関係は専門外だし、もとより他人の功績など気にしていない。
何か理由があるのだろうか、と考えたところで、ヒオリたちは目的のラベンダーが植えられている区画へと到着した。
ディアトン国立魔法研究所の温室は植物に合わせて徹底的に管理されており、一年中ありとあらゆる植物を採取することが出来る。
それだけの財力があるのだ。
国が魔法研究に力を入れていることの証拠であり、研究所の職員がその期待に応えられているという証明であった。
ラベンダー特有の華やかで深い香りに包まれた紫色の花壇の前でメルが立ち止まり、屈みこむ。
その眉間には深いしわが刻まれており、「むむむ」と小さな唸り声が漏れていた。
「やっぱりラベンダーも少し元気がないねぇ。何か葉っぱの色が悪いよぉ」
「……私には全然わからないんだけど。昨日からそうだったのかしら?」
問いかけると同僚は腕を組み、しばし考え込む。
「昨日まではそれほど気になることは無かったような気もするけどぉ。もちろん私が気付かなかった可能性もあるしぃ……」
ぶつぶつ唸って、しかし答えは見つからなかったのだろう。
深く刻まれてしまった眉間のしわを伸ばすように指で押さえたメルは、研究者の顔で立ち上がる。
「気になるし、私は原因を調べてみるよぉ。もし植物を使った製品で違和感があったら連絡するよう皆に伝えて」
「了解。しばらくここの植物は使わないほうがいいかしら?」
「そうだねぇ。全部の調子が悪いかどうかもわからないし、調査も時間がかかるだろうし。そこのところも伝えておいてくれるかなぁ」
再び了解、と頷き、ヒオリはメルと別れて薬品研究室へと戻っていった。
しかし、困ったことになったものだと吐息をもらす。
不調の原因などそう簡単にわかるはずは無いだろうから、もしかしたらしばらくはアロマの研究が出来なくなるかもしれない。
アロマの香りに囲まれていれば幸せな……むしろ香り中毒者とでも言うべきヒオリにとっては、あまりにも非情な現実である。
(やれやれ、以前に作ったブレンドの見直しでもしようかな。今あるアロマをブレンドして新しい香りを作るのもいいかもね)
退屈な日々を送ることになりそうだ、とヒオリは日々を悲観していた。
───が、その予想は幸運なことに……むしろ不幸なことに外れることとなる。
◆
メルの調査は本格的なものとなっているらしく、他部署の植物に詳しい研究員たちも温室に入っている。
すでにクロード所長や他役員にも現状は告げられ、数日後には調査委員会が組織されることとなるだろう。
忙しそうに歩き回るメルに休憩だけはしっかり取れと告げ、ヒオリは所内のカフェテリアで早めの昼食を取ることにした。
カフェテリアのメニューは、研究所で開発された魔法食品で作られている。
魔法食品とは、疲労回復が早くなったり、血行が促進されたりなど、人体に有益な効果が認められた食品であった。
お気に入りのサンドイッチを食みながらも、ヒオリの頭の中は様々な考えが渦巻いている。
昨晩の夢のこと、そしてクロードとリリアン、ヴェロニカ。突然現れたニールと言う男について色んな予想が浮かんで消えた。
(昨日の夢とリリアン女史は、貴方に関係あるんですか?……とは流石に聞きづらいわね。だけど無関係とも思えないし)
一人で考えていても、はっきりした答えが頭の中に浮かび上がってくるわけでもない。
もう少し判断材料が必要だな……と結論付けてサンドイッチを咀嚼したとき、ふと己が座っている席に影が差した。
傍らに何者かが立ったのだ。
誰だろう?とヒオリがそちらを向く前に、柔らかい声が耳たぶをくすぐる。
「ヒオリ殿、ご一緒してもいいでしょうか?」
にわかに鼻孔に香った、深く落ち着いたマリンノートの香り。
それだけでそこに立った人物を予想出来てしまったヒオリは、内心困惑しながら努めて冷静に影を見上げる。
「ニールさん……」
「はい、先ほどぶりです」
想像していた通りの人物が、そこに立っていた。