魔法博士ヒオリは夢を見る06
呆然とヒオリは男の端正な顔を見つめている。
対して男は形のいい唇に薄っすらと笑みを浮かべ、己の視線を受け止めている。
鼻孔に届くのは深く落ち着きのあるマリンノートの香水。ヒオリの嗅覚が、それは昨夜夢で嗅いだものと同じだと告げていた。
己の表情が凍ったことに気付かないのかヴェロニカは青年からこちらへ視線を戻し、「紹介しますね」と微笑む。
「こちらは本日から研究所に赴任されたニール様ですわ。魔法美容部門、香水研究室で働いていただきますの」
「こんにちは。まだ不慣れなこともありますが、仲良くしてくださると嬉しいです」
「あ、はいぃ。よろしくお願いいたしますぅ。メルと申しますぅ」
紹介された青年……ニールがすっとヒオリたちへ右手を差し出す。
突然のことに戸惑った様子だったメルが、まず最初に握手に応じて愛想のいい笑みを浮かべた。
同僚と挨拶を終えた男は次いでこちらを見て、手を差し出すが……ヒオリはいまだに硬直して動けなかった。
ただニールと呼ばれた男の顔を見つめて、昨夜の夢を思い返している。
「ヒオリちゃん?」
「あ、いえ……。よろしくお願いします。薬品部門、アロマ研究室のヒオリです」
不思議そうに名を呼ばれて我に返ったヒオリは、慌ててニールの右手を握る。
男の手は大きくごつごつとしていて、やや体温が低く感じた。マリンノートがまた深く香り、抱き留められた場面が色濃く頭に思い浮かぶ。
ニールは何故か握られている自分の手を目を細めて見つめ、「よろしくお願いいたします」と告げて離す。
再びヒオリに向けられた青い瞳は柔らかく優しく、心がざわめいた。
何故だろう。その柔らかな青を見ていると不思議な感覚が胸を突く。
既視感かもしれない。
どこか───夢以外でで会ったことがあっただろうかと考えたとき、ヴェロニカが小さくため息をついた。
「本当はクロード様に紹介をしていただく予定だったのですが。あの調子ですからね。忘れていらっしゃるのでしょう」
「ああ、拝見しておりました。なかなか複雑なことになっているようですね」
ここで穏やかだったニールが少し困ったように眉をたれさげる。
研究所に長く勤めるヒオリでさえ困惑したのだから、来たばかりの彼が見れば混乱するのも当たり前だった。
配属されて一番最初に見たものが痴情のもつれ……と称するにしても情けない場面だと言うのは、なかなか運が無い。
(……あんまり見られていいものじゃないわよね)
彼の口から外部関係者にこの失態を漏らされたら目も当てられないではないか。
もし妙な噂が漏れたらクロード所長はどうするつもりなのだろう、と考えてヒオリは嘆息する。
気を揉みながらも彼らと一言二言会話し、ニールとヴェロニカは去っていった。
研究所の見学と、まだ挨拶をしたい場所があるらしい。
「それではヒオリ殿、メル殿。また」
「はい、また……」
その『また』がどのような形になるか予想も出来ずにヒオリは、形だけの笑顔を青年に返す。
彼らの背中を見送って完全に温室から気配が消えた後、メルがようやく一息つけるとばかりに大仰に肩を竦める。
「緊張したぁ~。ヴェロニカさんって美人だけど迫力あるよねぇ」
「……まあね。たった一人でクロード所長たちを圧倒してたし」
むしろよくあのヴェロニカ女史によく喧嘩を売ろうとしたものだ、とクロードたちを褒めるべきなのか。
先ほどの一方的にやり込められていたやり取りを思い出し、ヒオリは吐息をもらした。
「だけど、なるほど。さっきメルが言ってたのが理解できたわ。あれは確かに騎士気取りね……」
下品だと思ったが小馬鹿にする意味を込めて、ヒオリは皮肉っぽく唇の端を持ち上げる。
白衣姿の男女がリリアンを囲みヴェロニカを責めている場面は、まるで悪い魔女を追い詰める王子とそのお供、そして守護されるお姫様のようだった。
我こそが正義とばかりにクロード達が躍起になっている姿を思い出すと、同じ研究者として少し情けなくなってくる。
メルも同様だったのか、ビン底眼鏡越しの目を細めて低く呟いた。
「私も初めて見たんだけど、あれほどだとは思わなかったなぁ。あの人たちに何があったんだろう?」
「さて……、そこから先は他人事だしね。火の粉がかからない限りあんまり首を突っ込みたくないけれど……」
クロード所長は自らの婚約者が、リリアンを虐げているかのような言葉を口にしていた。
確かに不当な行為はヒオリとて看過できないが、ヴェロニカの立場を思えば真実だとしても同情したくなってくる。
未来の夫にして国立魔法研究所の所長が、婚約者以外の女性に入れ込んでいるというのは気分が良くないだろう。
多少意地悪なことを言われてしまっても、それだけで済むならリリアンはありがたいと思うべきだ。
これから先も何か厄介なことが起こりそうだな、とヒオリは嘆息する。
だが嘆いてばかりもいられず、二人はここに来た本来の目的を果たすために再び歩きはじめた。