魔法博士ヒオリは夢を見る02
ヒオリはぼんやりとした頭を振りながら、白衣に袖を通し、首からカード型の認識証を下げた。
背が低い己には支給されている白衣がやや大きく、まるでワンピースを着ているようにも見える。
身分証の提示をしなければ、ぼんやりした学生としか思われないだろう。
……たとえ中身が30間際の女だとしても。
ロッカールームから出て、魔法薬品部門のアロマ研究室に続く認識ゲートに認識証をかざす。
研究員や他職員全員に配られているこの認識証には魔法がかけられており、登録したゲートを開けることが可能だった。
ひゅんと音を立てて開いた扉の向こうは様々な香りに満ちており、それをひと嗅ぎしてようやくヒオリは落ち着く。
今朝の夢に引きずられていた気持ちが晴れていくようだった。
研究室の中では、既に作業を始めていた初老の男がビーカーを振っている。
彼はアロマ研究室の室長、ハオランである。
ヒオリの登場に気付いた室長は、柔和な表情でビーカーからこちらに視線を転じた。
「おはよう、ヒオリくん。なんだ、ずいぶん疲れた顔をしているね」
「おやようございます、室長。昨晩は何だか寝付きが悪くて」
苦笑するヒオリに室長は怪訝そうに眉を持ち上げながら、「へえ」と小さく唸る。
「君のアロマは安眠効果は抜群じゃないか?ん?それとも昨日完成したアロマのせいかね?試したんだろう?」
「ええ、まあ……」
肩を竦めながら、曖昧に笑って答えた。
ヒオリはこのディアトン国立魔法研究所に勤める博士で、特に魔力のこもったアロマを作成することを得意としている。
常に鼻孔の中をいい香りに満たされていたい己にとっては天職であり、様々なアロマを調香するのは楽しかった。
作った魔法アロマは必ず自分を実験台にしており、昨日枕元に置いたのは安眠用ラベンダーだったはずだが……あのような夢を見せる効果など無い。
そもそも現代魔法が夢などの人間の深層心理に入り込む術は、まだ見つかっていないのだ。
「珍しいね。失敗したのかい?」
「失敗、だったんでしょうか?ちょっと夢見が悪くて」
首を傾げるヒオリにハオランは、「夢見ねえ」と眉間にしわを寄せた。
「君が作っていたのはブレンドを変えた安眠アロマだろう?何か特別なことをしたのかい?」
「いいえ。イリスを加えて混ぜる魔力の濃度に変化を与えただけなんですが……そういえばなんだが夢で嗅いだ匂いもラベンダーじゃなかった気が」
昨夜のことを思い出しながら語るヒオリに、室長は頭をかき再び小さく唸る。
「何だろう?ハーブに何か問題があったかね?はて?育て方を変えた覚えは無いんだが」
困った表情のまま彼は、窓へと視線を転じる。太陽の日差しが漏れるそこからは、薬品部門棟の隣に併設されているガラス張りの建物が見えた。
この研究室……否、研究所のどの部門の棟よりも広いスペースを取っている、巨大な温室である。
内部は今日も煌々とした人口の光で照らされており、遠目で見ても酷く眩しい。
ここは薬品の材料となるハーブ、花や樹木などを、一定の魔力の流れを与えて栽培している場所であった。
博士たちが試作品を作るときにはだいたいここの草花を使うこととなっており、薬品部門棟だけでなく各部門からも渡り廊下で繋がっている。
「一度調べてみた方がいいかね?」
「私が行ってきますよ。私の研究ですしね」
苦笑のまま部長に告げて、ヒオリは白衣をひるがえして温室の中に入っていった。
育てている草木が多岐に渡るため、内部は区画ごとに温度は調整されている。
アロマ研究室側から繋がっている廊下から入れるのは、亜熱帯の花を育てている気温湿度ともに高い区画だった。
自然に近い状態の木々の香りもいい。
南国を思わせる草花を見上げながら温室の中を歩いていくと、ガジュマルの木のそばに屈みこむ人影を見つける。
ぼさぼさの長い髪を無造作に結んだその影に、ヒオリは口元に笑みを浮かべながら近づいた。
「おはよう、メル。今日は早いんだね」
「あれぇ、ヒオリちゃん?おはよぉ」
間延びした声で己の名前を呼びながら振り返った彼女は、大きなビン底眼鏡越しの目を細めた。
彼女の名はメル。同研究室の博士で、己と同じくアロマの調香を得意としている。
「そんなに熱心に見て、何か面白いものでもあったの?」
朝が苦手でいつも始業時刻ぎりぎりにならないと研究所に来ないメルが、珍しく己より早い。
気になることがあるのかと問いかければ、彼女は少しだけ難しい顔をしながら小さく唸った。
「うーん、ううん。ちょーっとねぇ。昨日から気になってたんだけど、育ち方が悪いような気がしてねぇ」
「そう?私にはよくわからないけども……」
言われて改めてガジュマルの木を観察するが、特に昨日と変わったところは無い。
だが自分よりメルの観察眼は優れている。彼女が奇妙だと思うのなら、その可能性は高かった。