特赦中の死刑囚
桜が特殊管理室の事務室の扉を開けると、そこには誰もいなかった。
私しかいないんだろうか。
そもそも自分の机すらわからずキョロキョロしていると、後ろからふーっと耳に息を吹きかけられた。
「ひゃいっ?!」
跳び退りながら振り返ると、見知らぬ女性が満面の笑みで立っていた。
桜より少し高い身長、髪は明るい茶色のセミロング。チューブトップにホットパンツという出で立ちだった。両手首には変わった腕輪のようなものをしていた。首には赤いチョーカーをつけている。
あれ? と桜は首を傾げた。
会ったことは無いはずだが、どこかで彼女を見たことがあるような気がしたからだ。
とにもかくにも、息を吹きかけるまで全く気配を悟らせなかった女性に、桜は警戒心を強めた。対照的に、女性はにこにことした笑みを崩さなかった。
「嫌だなあ、そんなに警戒しないでよ、桜ちゃん♪」
「え?」
名前を言われ、桜は戸惑った。
「あれ? 君が新人の秋倉捜査官かと思ったんだけど、違った?」
「合ってるけど…」
「やっぱりそうだよね! 知らない人がいてびっくりしちゃった! あ、私、栗巻環って言うの! よろしくね」
「よろしくお願いします。栗巻さん」
環の名前を言い、桜は再び既視感に襲われた。彼女の名前を、どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。新聞? テレビ? 思い出せない。
「硬いなあ♪」
砕けた口調で環は続ける。
「環でいいよ。年も同じくらいでしょ? 敬語とかもなしでいいから、ね?」
環が差し出した右手を、桜は握ろうとした。
「じゃあよろしくね、たま‐」
「離れろ!」
突如室内に響いた声に、桜は思わず身をすくめた。差し出した右手は空を切った。
見ると、圭一が環の右肩を掴んで組み伏せようとしていた。
「天川さん…?」
声をかけると、圭一は苦々しい表情を桜に向けた。
「桜くん、おはよう。こいつに何かされなかったか?」
「えと、それってどういう…」
圭一ははあと深く息を吐いた。
「こいつは栗巻環。特赦中の死刑囚だ」
「ああ!」
どこかで見たことがあると思っていたが‐。
桜は1年前のニュース報道を思い出していた。
「同門の仲間を数十名以上殺害して死刑判決が下された…」
「そうだ。危険人物だから、桜くんとの接触はもう少し後にさせようと思っていたんだが…」
「圭一くんったらひどいなー。せっかく桜と仲良くお話ししてたのになー」
「馴れ馴れしく呼ぶなっ」
痛い痛いと、大して痛くもなさそうに呟く環を、圭一は怒鳴り飛ばす。
「なんでそんな人がここに…?」
「…こいつも管理室のメンバーだよ。…全く、上の連中も何を考えているんだか…」
圭一は眉間にしわを寄せてうなだれた。
「強引な男はモテないぞ?」
「あっ。いつの間に?」
環は圭一の眉間に指をあて、しわを伸ばしてみせた。
驚く圭一を尻目にくるりと振り向くと、桜に右手を差し出した。
「改めてよろしくね! 桜!」
「よろし‐」
桜は差し出しかけた手を慌てて引っ込めた。
環の両手首の腕輪がピピっと光ったと思うと、バチンと音を立ててくっついた。
「む」
環が頬を膨らませた。
「電子手錠?」
「やーん圭一くん、これ外してよ」
「栗巻は一応特赦扱いだからな。死刑囚という肩書が消えたわけじゃない。こいつの抑制装置の一つだ。俺の端末でのみ操作可能のな」
圭一は手に持っていた端末を胸ポケットにしまった。
「しばらくそのままでいてろ」
「よろしくね」
環は両手をつながれたまま三度手を差し出した。握りにくいことこの上なかったが、桜は彼女の右手をしっかりと握った。
「うわー桜優しいねー」
感極まったように環はその手をブンブンと振った。
「うるさいなあ。人が気持ちよく寝てるんだから静かにしてよ」
一番奥のデスクの裏から、もぞもぞと人影が現れた。
「…いたのか」
圭一が「またか」と言わんばかりの渋面を作った。
一人の女性がぼさぼさの頭をかきながら、ふわぁとあくびをした。
「あの人…」
今度の女性には見覚えがあった。一昨日、圭一と共に救援に来た女性だった。
「丁度いい。桜くん」
圭一に呼ばれ、桜は「はい?」と返事した。
「彼女は朝日奈陽菜くん。この管理室の室長をしている」
「え? こんな人が?」
「…こんな人だが室長なんだ」
「聞こえてるよ?」
陽菜は手櫛で寝癖を梳きながら三人の下へ歩み寄ってきた。
「初めまして…じゃないね。よろしく、桜。朝日奈、陽菜、で…」
握手をするのかと思いきや、語尾が消えて陽菜はその場に立ち尽くした。
「…? あのー…」
桜が恐る恐る声をかけると、スースーと気持ちよさそうな音が聞こえてきた。
「ああ」
圭一がうなだれた。
「また立ち寝した」