視線
洋館はしんと静まり返っていた。
自分たちの、絨毯を踏みしめる足音や呼吸音ですら響いてしまうのではないかと思うほどだった。
「おかしいわね…」
「何がです?」
桜が呟くと、大川が囁くように尋ねた。
「静かすぎるんですよ」
桜は答えた。
これだけの大きさの屋敷であれば、それなりの人数が居住していたはずなのだ。ところが今、周囲に誰の気配も感じない。
桜は最悪の事態を想定した。
桜たちは目の前にある扉を静かに開けて、部屋を一つずつ確認していったが、探せど探せど人がいない。一階をくまなく見て回ったが、何も、誰も、見つけることができなかった。
「秋倉特務課長。もう銃撃犯はこの邸内にはいないのでは?」
八木の言葉に、しばらく考え込んだ後、桜は首を振った。
「その可能性は低いと思います。一階の窓は全て閉まっていました。二階三階から飛び降りるような真似はしないでしょう」
八木は納得がいっていないような面持ちで頷いた。
ですが、と桜は続けた。
「ですがやはり人の気配がしないのはおかしいですね。三手に分かれて各々邸内を見て回りましょう」
桜は四階まで静かに駆けあがた。
一人ずつ二階以上の階を一人ワンフロアずつ調べることになった。八木が二階を、大川が三階を担当している。
桜は慎重に一室ずつ扉を開けていった。一度開けた扉は閉めず、開け放っておく。
三番目の部屋を開けようとした時、桜は奇妙な視線を感じた。即座に振り向いたが、誰もいない。しばらくそのまま動かずに、視線だけあちこちに向けていたが、見える景色に何も変なところはなかった。
「気のせいか…」
向き直り、扉を開ける。部屋は薄暗かった。
「…っ」
悲鳴をあげそうになるのを、桜はすんでのところでこらえた。
「ひどい…?」
ダブルベッドがあるから、この家の持ち主の寝室なのだろうか。
室内はまさに血の海だった。
部屋の隅のクローゼットにもたれかかるように一人、中央に折り重なるように二人、ベランダに面した窓の傍で一人‐計四人の男女の死体があった。
桜は息を止めた。これ以上むせ返るような血の臭いを嗅ぐと、戻してしまいそうになると思った。部屋の明かりをつけ、急いで部屋を出たい気持ちを抑え、桜は手短に死体を調べた。
「まだ冷たくなっていない…」
死体はまだ人のぬくもりが残っており、死後硬直も始まっていなかった。それが逆に生々しさを感じさせた。
死体を調べ、桜は気づいた。
「どれも銃が使われてない……。でかい刃物…?」
死体に銃創は一つもなく、切り傷や刺し傷しか見当たらなかった。
部屋を出ようとしたところで、桜は再び奇妙な気配を感じた。だが、今度は先ほどのような恐怖は感じなかった。
むしろ相手の恐怖が伝わってくるような、そんな‐。
桜は振り返った。死体がその上半身を横たえているベッドに視線を向ける。そのベッドの下から微かに物音が聞こえた気がした。
桜は静かにベッドに歩み寄ると、死体に手を合わせた。そして、冷たくなり始めている死体を、丁寧な動作で脇に動かした。
ずれたシーツをめくり、ベッドの下を覗き込むと、真っ赤な目が二つ、彼女の目を覗き返した。
「私は秋倉桜といいます。本庁の警察官です。助けに来ました」
桜がベッドの下に話しかけると、嗚咽が返ってきた。
ベッドの下に隠れていたのは、七歳ほどの少女だった。少女は真っ赤に腫らした目からボロボロ涙をこぼしていた。それでも泣き叫ぶようなことはせず、嗚咽を噛み殺そうとしていた。
「もう大丈夫だよ。お姉さんが助けに来たから。出てき‐」
最後まで言う前に、少女は激しく首を振った。そして口に人差し指を当てた。
「何をして‐」
そこで桜は口を閉じた。再び嫌な視線を感じたのだ。先ほど感じたあの、刺すような、恐怖に駆られるような、あの視線を。
耳を澄ます。
自分の心臓がドッドッと脈動する音が鼓膜の奥に伝わる。その音に紛れて、自分ではない何者かの「すうぅっ」と息を吸う音が聞こえた気がした。背後から‐。
パァンッと乾いた音がなった。
桜は背後の気配が増した瞬間に、振り向きざまに引き金を引いた。同時に横に跳び退った。
ドカッと音を立て、桜が今までいた場所に何かが刺さった。
桜は自分が撃ったあたりに視線を送った。そこには何もなく、ただ空間があるばかり‐。
‐否。
何もないはずの空間から、赤い液体が一滴二滴‐。
零れ落ちた液体が、ポタタと絨毯にシミを作った。