漂流民族 参 流浪の中で
暗くじめっとしたコンクリートの壁は、冬の訪れと共に冷たくカサついたやすりの様に変わり、何人もの人が押し込まれている牢獄は、震える汚れた男達の体臭が、かび臭い匂いと共に空気へ溶け込んでいた。
薄汚れた薄い一枚の布を与えられた彼らは、それを身に巻きつけ横になっている。
布を肩に引き上げている男達の指は、土で汚れひどい皸により血が付着していた。
一人の男が目を閉じたまま声を出した。
「高中さん、起きてるか?」短いいらえがあった。
「あぁ・・・」
「あんたここに来てどれくらいになる?」
「三か月ってところだ・・・」
「俺はもう半年だ・・・もう限界だ・・・」
「あきらめるな、まだやれる」
「気休めを言うな、世界は狂信者やろうどもに負けたんだ!」
「外の様子は我々の耳には入ってこない・・まだわからないさ」
「いや、もう負けたんだ。その証拠に我々を助けに来てくれる者がいないじゃないか」
そんな二人の会話を聞いていた別の男が割って入った。
「国をなくすまでは文句しか言ってこなかったが、いざなくしてみるとその寄る辺なさに身悶えする・・・こんなにも・・身のはかなさを感じるものなのかと・・・」
高中は暗く汚い天井を見ながら、三か月前の事を思い出していた。
あの時・・・
晩秋の山々は黄金の夕日の中で紅葉を引き立たせ、時が止まったかの様な幻想的な美しさの中にあった・・・
とぼとぼと森の中を歩く人々は木々の間から覗き見られるそれらを、立ち止まり暫しの間ほうけた様に見ていた。
薄汚れ疲れた果てた彼らは、自身のその様な恰好に思い至る事も出来ず、ただただ美しい景観を眺めた。
142号線をショートカット出来る、人一人の幅しかない旧街道を一列になりながら森の中を進んでいた彼らは、人目につく見晴らしのいい県道に出る直前で夜を待つ為休憩を取った。
美しい夕焼けは徐々に暮れていき、夜の静寂が森を漆黒の闇へと沈めさせていく。
「さぁ、皆さん出発しましょう!足元に気をつけて!」高中が声を上げた。
疲れ果てた人々が三々五々腰を上げる。
高中が立ち上がれない人達の元へ行き声をかけ励ます。
木の根に頭を預けて立ち上がれない、まだ若そうな女性を見つけた高中は、そばまで行きしゃがみ込み声をかけた。
「大丈夫?」
けだるそうに地面へ手を付き、体を起こした女性の腰の括れに色っぽさを感じながらも
「立ち上がれる?」と聞いた。
「はい・・ありがとうございます」と振り向いた女性の歳の頃は二十台前半で、化粧っけもない細面の顔は整っていて、高中はあらためて見たその女性の素顔を見るのは初めてだった。
それは高中の家のはす向かいの家の一人娘で、苗字だけは知っていた。
藤川さんのところの娘さんか・・社会人になって6年になるとどっかで聞いた事があるので、歳は28ぐらいか・・・
起き上がりつつある彼女の化粧のしない顔は、20台前半の若く魅力的な顔立ちに見えた。
39歳の彼は歳の離れた年長者としてのつもりで
「体調が悪かったら言ってね・・」と言った。
起き上がる途中で藤川がよろめき、高中は咄嗟に二の腕を掴んだが、華奢な女性の腕を感じてすぐ手を放した。
一瞬だけ見つめあった二人は、会釈しあい離れた。
列の先頭に戻った高中は、月明りのなか見晴らしのいい県道の上り坂を歩きながら、電気の落ちた街並みを見下ろした。
AARF軍だろうか・・駐屯地と定めたであろう場所に光が集中している。
街がある筈の場所は暗闇に包まれていた。
この様な地方の街までAARFの手が伸びつつある・・・
どれほどの戦力がこの日本に投入されたのだろうか?・・・
疲れ果てた誰かが咳き込んだ。
それで物思いから覚めた高中は、老人も子供もいるこの一行のペースが、務めて速くならない様に気を付け、ともすれば先行しがちな体力のある独りよがりの男性に注意を与えたり、全体のバランスを見ながら皆を導いていった。
わずかばかりの月明りを頼りに歩を進めていた一行は、徐々に白々と明けていく山並みをを見ていた。
季節外れの朝霧が深い森に立ち込め、その霧が物音を吸収するかの様な静寂が明けていく世界を包んでいる。
乳白色の霧に薄く木々のシルエットが浮かんで見えた。
彼らが当初目的地としていた山荘はもう目と鼻の先まで来ていた。
ひと休憩はさんでもいいところだったが、気がせく様に疲れ果てた足を運んで一行は先を急いだ。
あの左カーブの先にある筈だ・・・
一人の体力のある男性が駆け出した。
ぐんぐん離れていく男の姿を皆が呆れた様に笑顔で見ている。
そして角をまがった山荘の見える位置で男は立ち止まった・・そして固まっている・・・
「どうした?なにが見えた?」気が気でならない他の者が聞いた。
山荘の方を見ていた男性が膝をついた。
そのただならぬ様子を見た後続の者達は、落胆するのは目に見えていたが速足で駆け上がる。
膝をつき項垂れている男性の横に並んだ人達は、山荘があるであろう方向を見た。
彼らの目に入ったものは・・・
焼け落ち、建物の形状を留めず黒々と焼けた柱だけが無残にも残された山荘の残骸だった・・・
雨風を防ぐ屋根のみならず、壁すら残っていない。
多くの者がしゃがみ込み頭を抱えた。
もうここから動く気力すら湧かない。
誰が指示するでもなく人々は絶望のなか休憩を取り始めた。
高中もかける言葉が見つけられず、皆を見回しながら途方に暮れていた。
それでもいつのまにか先ほどの藤川の姿を探していた。
いた・・・湿った地面で服をぬらさない様、松の根に腰かけ幹に頭を預ける様に目をつむっている。
高中はそこまで歩いて行くと声をかけた。
「大丈夫?」
「えぇ・・はい・・」薄く目を開けた藤川が応えた。
「君は確か藤川さんのところの・・」
「はい、娘の由香里です」
「ここに君のご両親は見当たらない様だけど・・」
「ブラックアウトで川崎の祖父母が心配だと、留守番を任されたんですが・・連絡が取り合えなくなっちゃって・・・両親が戻るまで家で待とうかとも思ったんですけど、事情が許さなくなってきて・・・高中さんの呼びかけに応じたんです」
「そう・・心配だね・・」と言ってから総会で何度かあった彼女の母親を思い出していた。
たしかに目元と鼻立ちがよく似ている・・・
「俺も横須賀出身でね、会社の転勤で今の場所に移ったんだ・・親父が一人まだそこにいるはずなんだけど・・」
「心配ですね・・」
「まぁ、もういい歳だからね、何事もなければいいんだけど・・」
「はい・・・」二人とも気休めを言う気分にもなれなかった。
それは自分達が置かれている状況からでもわかるように、どこも絶望的である事に違いはないだろうからだ。
いつの間にか黙り込んだ二人は、お互いの目を見つめあっていた。
何とか言葉を絞り出した高中が
「とりあえずここでしばらく休もう・・難しいかもしれないけど、出来るだけ疲れを取ってね」
「はい・・・」由香里は伏せる様に目をつむった。
立ち上がった高中が全員に向かって
「1時間程休みましょう!」と言った。
とそこに本庄がきて
「どうします?これから・・・」
「ちょっとこれからこの山荘の裏から谷に降りられるはずなんで、行ってみてみます。ここは人目に立ちますからどこかゆっくり休めるとこを見つけなければ・・・それに谷に降りて水を調達しなければね」
「そうですね・・・僕も行きましょうか?」
「いや、ゆっくり休んでて下さい。時と場合によってはすぐに動かなければならなくなりますから・・」
「すいません・・そうさせてもらいます・・さすがに疲れました」
「そうして下さい」と高中は谷に向けており始めた。
ブナの木に掴まりながら獣道の様な細い道を降りていく。
思いのほか山荘から谷底の川までは離れている。
今疲れ果てた彼らにこの道を歩かせては、滑落する者も出かねない。
少々危険だったがあそこで皆を休ませておいて正解だった・・
と思った時、後ろからついてくる物音に気が付いた。
振り返ると由香里が危なっかしい足取りで降りてくる。
ちょっと驚いたものの、降りてくる由香里を待った。
そして近づいた由香里へ
「どうしたの?ゆっくり休んでて」と見上げながら声をかけた。
「高中さんこそ・・まいっちゃいますよ」
「悪い時に区長なんて引き受けた、運が悪かったとあきらめてるよ」
と由香里に手を貸しながら高中は言った。
「責任感が強すぎます・・・」と言って由香里は初めてニコッと笑った。
はからずも手をつなぎながら見つめあう形となった。
表情が消え視線と視線が絡み合う。
由香里が体を預けてきた。
高中はいつのまにか由香里に覆いかぶさり、その口を・・体をむさぼる様にはげしくもとめた・・
そんな高中を由香里は受け入れる。
二人は夢中になってお互いの服を脱がせ始め、慌ただしく生まれたての愛を確かめあった。
早朝の日差しが木漏れ日となって二人の裸体に落ちる中、木に体を預ける様に事をなした。
野鳥が鳴いている谷はいつもと変わらない朝を迎えている。
二人はお互いの体を離そうとはせず、木の根に座りいつまでもその指を絡めあっていた。