変貌する世界
無限の宇宙が広がっている・・・
その深淵の空虚さは魂を吸い寄せるかのようで、かろうじて保っている理性を崩壊させる。
それは人の潜在的な恐怖の根源を知らしめた。
宇宙服だけをその身に纏い、無重力の空間を一人の人間が漂っている。
まるで寄る辺ない幼子の様な、童心に帰ったその人のバイザー越しに見える顔は、まだ若い男性のものだった。
体の芯から震えが走るほどの恐怖と裏腹に、なぜかその無重力の空間が母の胎内を思わせる。
不思議な感覚を味わうその彼の眼前で、また一つ光が発生した。
あの光が起こるたびに何人の人が死ぬのだろうか?・・・・
それは敵なのか・・味方なのか・・・?
おそらく味方の死を意味するものだろう・・・
もう自軍の敗北は決定的だったし・・・敵の戦力は圧倒的だった。
乗っていたBRは破壊され、宇宙空間に放り出された彼はなす術もなく回っている。
彼の視界には見慣れた星座群がまわっていて、消えてはまた現れた。
その一回転の内に一度だけ、彼の味方と思われる艦が断末魔の光をあげている姿が見えた。
壊滅する・・・仲間が死んでいく・・・もうどうしようもない・・・
彼は絶望の淵に立ち、自らの死を覚悟せざるを得なかった。
死にたくない・・・発狂しそうになる。
息苦しい・・・パニックに陥りそうな自分自身を必死になって抑えていた。
この過酷な宇宙空間から己を守る唯一のスーツ・・・
それが供給する酸素量はまだ正常値を示していたが、彼の精神がより多くの空気を必要としていた。
己の呼吸音が嫌と言うほど耳に響いている。
過呼吸・・・
まだそれだと解るぐらいには彼の理性は保たれていた。
しかしそれもいつまでもつか・・・
発狂してヘルメットのバイザーを開きそうになる・・・
彼の所属するイタリア第2宙軍管区艦隊は圧倒的物量差により、AARF艦隊に壊滅させられようとしていた。
彼の帰艦するべき航宙母艦ロンバルディアは、沈められ宇宙の塵となってもう存在しない。
AARF軍は基本的に捕虜を取らない。
戦争目的の一つに民族浄化があるからだ。
自軍が壊滅すれば助けに来てくれる者はいない。
一つ比較的近くで発光する。
僕は死ぬのか?・・・
その時、その彼のすぐそばを高速で何かが飛びぬけ、続いて赤い物が迫撃する!
「中尉のエスポジート!無事だったんだ!」彼は歓喜の声をあげた。
「ドメニコ少尉?無事?」まだ若い女性の声がヘルメット内に響く。
「はい!無事です!」彼、レオナルド・ドメニコは喜んで叫んだ。
「こいつを片付けたら回収する!待て」激しいGと戦っているのだろう、苦しそうに聞こえる。
自由のきかない無重力の空間でなんとか視界の端に赤いBRを捉えようと首を振るが、視界から消え去った。
「中尉・・・」
彼が密かに慕う上官の名は、ソフィア・シジズモンド中尉といった。
モデルの様な姿態に、気の強そうなかわいらしい顔立ちが思い返される。
AARF軍の壊滅作戦の中、地獄の戦場を生き残るほどの、その姿からは想像もできないほどの腕を持っていた。
その彼女は凄まじいGと戦っていた。
霞む視界の先に限界が見える・・・
歯を食いしばりながらGに耐え、AARFのBRとドッグファイトとしてるソフィアは思っていた。
イタリア宙軍で採用されている真っ赤な国産BRはエスポジートという。
" Cavallo di furia rosso " 赤い暴れ馬の異名を持つこの機体は、旋回、加速性能において南アメリカのパニッシャーを超えると言われている。
大気圏内の重力下であれば、航空機が保有する全エネルギーは位置エネルギーと運動エネルギーの総和であり、重要なファクターは高度と機体質量、そして速度である。
しかし大気のない無重力空間では、空力抵抗もなければ高度も存在しない。
機体が持つのは一つのベクトルである運動エネルギーのみである。
戦闘能力は誘導弾が使用できない状態では、メインブースターや高出力スラスター、射撃・格闘能力で決まるのである。
BMIで連結されたパイロットの意志がBRの四肢を動かし、方向転舵や照準を行うのである。
パイロットの腕の優劣が如実にその結果となって現れた。
高出力スラスターを吹かしながら旋回を続けるAARFのBRがそれを止め振り返る!
逃げるのを諦めたそれは、腰だめにためた機銃で反撃を開始する。
それを紙一重で躱したソフィアのエスポジートは、すり抜けざまに機銃を撃ち込んだ!
AARFのBRは機体に跳弾を散らしながら、いくつかの弾丸が機体にめり込む。
爆発した!
ソフィアの機体に別のBRから銃弾が飛来する。
肩の大出力スラスターを吹かし、横に跳ねる様にそれを躱す!
コクピットで巨大なGに振られるソフィアはそれに耐えながら身を屈め照準する。
機銃を掃射する。
その反動がエスポジートを後方にはじかせる。
AARFのBRがハチの巣になった!
また別のBRが襲い掛かる。
ソフィアは瞬時に振り返り飛来する銃弾を体を開き躱す!
背のメインブースターを吹かし、BRに迫撃する。
急速に前面のBRとの距離が縮まる。
足裏のブースターと脹脛のスラスターを吹かし、エスポジートの右膝を大地があるかのように蹴りあげる。
BRに右膝を撃ち込んだ!
” フライングニー ” 敵パイロット達にそう呼ばれ恐れられていたのは、エスポジートの両膝に装備されているハーケンスピアで、厚い装甲を撃ち抜く必殺の一撃だ。
エスポジートの全体重を乗せたフライングニーは、BRの左わき腹に撃ち込まれ機体ごとそのパイロットを貫いた!
引き抜かれたスピアには、べっとりと血が付着している。
そんなものには一瞬でも躊躇しないソフィアは、すり抜けざまそのBRを蹴って加速する。
彼女の視界の端にイタリア艦艇からの脱出艇が、無残にも撃墜された姿が目に入った。
「くっ!」そこに隙が生じた。
彼女のエスポジートに四方八方から銃弾の雨が降り注ぐ。
BMIの影響で、どこかエスポジートは女性的な仕草となって盾を構える。
その盾を持った左腕が吹き飛ばされた。
背と足裏のメインブースターを吹かし急加速して銃弾を躱す彼女をGが襲う。
エスポジートの加速にAARFのBR達はついていけない。
生き残りのイタリアBRを掃討しようと集まっていたBR群を引き離した。
その僅かな静寂だけが、つかの間の休息だった。
銃弾は残り僅かで体力も限界に近い。
彼女は敵BR撃墜を諦めて、ドメニコ少尉を探した。
彼女ほどの空間把握能力であれば、およそどの位置か見当がつく。
時間の猶予はない。焦りながら部下を探す。
発光信号が目に入った。
「ドメニコか?」彼女はそれにむかってスラスターを吹かす。
いた・・
無重力空間で回転しながら、なんとか首だけでもエスポジートに向けようと頑張っている姿が見える。
くるりと足裏のブースターで逆噴射し急制動をかけ、緩やかに漂うドメニコとの相対速度を合わせると、残った右腕で彼を拾った。
彼はまるで溺れる者が藁をも掴むかの様に、エスポジートの上腕にしがみついた。
「ドメニコ少尉、おっつけ敵が私を撃墜しに来る。ここに残る?」ソフィアは凄惨な笑みを浮かべて聞いた。
こんなところで漂いながらじわじわと死ぬのなんて御免だ。
死ぬならあなたと一緒に!と言わんばかりに
「いえ!中尉と共に行きます。連れてってください!」と懇願した。
ソフィアはエスポジートの首を振り、帰艦できる生き残りの艦艇を探すが、視認できるのは破壊されつくした自軍艦隊と、その脱出艇を破壊してまわるAARF艦艇だけだった。
とそこに、生き残りのエスポジートが近づいてきた。
「中尉、ご無事で」と太い男の声で聞いてきた。
「ロッシ曹長か?」
35歳の物静かな眼光鋭い顔が思い浮かぶ。
25歳とまだ若い彼女は部下とはいえ十も年上で、たたき上げの軍人の彼には一目も二目も置いていた。
「我軍の生き残りは?」
「壊滅です。我々意外は全て撃墜されました」それは絶望的な言葉だったが、彼は淡々と状況報告する。
全方位から敵ブースターの光跡が近づいてくる。
彼らに止めを刺そうと一隻の戦艦も近づいてきた。
そこには情けも容赦も道義も憐憫の情も、まるで感じられなかった。
絶望がソフィアとレオナルドを襲うが、ロッシ曹長だけは活路を見出さんと周囲を見渡す。
その姿には長年戦場を駆け抜けた男のタフさが滲み出ていた。
そのロッシ曹長のエスポジートの背を見ながら、彼女は不仲だった母を思い出していた。
最後にもう一度会って、仲の良かった頃の昔の様に話し合いたかった・・・
「ここまでか・・・」とソフィアが声を絞り出した時。
”パッ”と周囲が一瞬明るくなった。
その直後、近づいてきた戦艦のどてっ腹に突如として大穴が空き、戦艦が大爆発を起こす!
なにかに気が付いたAARFのBR群が回避運動にはいり、彼等から離れ遠ざかって行く。
ロッシ曹長ですら呆然とその光景に見入っている。
花火の光の様に、深淵の宇宙を照らす一瞬の燐光が再び発生し、別のAARF艦艇が轟沈する。
慌てふためく様にAARF艦隊が撤退していく。
なにが起こっているのか?・・・
宇宙の深淵から巨大な・・なにかが近づいてくる。
その巨大な影を、三人は固唾を呑んで見守っていた。
私事で恐縮なんですが、”火星の雪2”では一話一イラストを目標に書き進めたいと思っています。
その為、連載の頻度を想定できず次回は何か月後になるのかお約束できません。
申し訳ありません。
季節の折々に、”そういえばあの作品はどうなったかな?”と思い返していただければ、本当に嬉しいです。