二十九話
白一色の世界だった。
チャゴは寝ぼけた頭で目を擦ろうとして、身体を覆っていた薄い布団が足の部分から外れたのを体感的に感じる。
上半身を起こしてベッドの上に座り込んだ。
愛想笑いのあの字もない。ただの無表情なチャゴ。
組合で教えてもらった石造りの宿、“花の小路”という名の宿の一番安い部屋。安いといってもチャゴにとっては、十分な広さと質の良い空間だ。
チャゴは周囲を見渡して、お目当てのものを見つけてベッドから出た。
ベッド横の用箪笥にのった水差しと器で喉を潤して、頭を目覚めさせていく。
まだ無表情に、部屋の中央にある机まで歩いた。
部屋で一番大きな机の上に広がった紙と証文、手帳というには大きい物を開くと、四つ書かれた名前と金額を横線を入れて、消した。
森で生きるか死ぬかで朦朧としていたのが、遠い過去のように感じながら、今日の予定をぼんやり考え字始めると、窓から小さく叩く音が聞こえる。
ぢゅ。
チャゴが上げ下げ窓を軽く持ち上げてやるとアングイスが鳴きながら、入ってくる。チャゴの頭の上に陣取って、ベッドの上に誘導した。
街に戻ってから朝の日課、「呼吸法」を行うのだ。
──そうだ。ペポパさんとダスさんに血石のことを訊こう
呼吸法を始める前に、チャゴはぼんやりと思いたった。
昨晩、とある商談を終え宿近くの酒場で夕餉をとっていたところ、「討伐隊帰還」と飛び込んできた男がいた。それを聞き酒場にいた女はほとんど飛び出し、男たちも数人飛び出していく。
それを見ながら「あぁ終わったんだな」と、チャゴは酒になりかけの果実汁を嘗める。
酔っていたにも関わらず、自身も驚くほどに冷めていた。
森からこの街まで馬で一日と少し、歩きならば五日なので、少なくとも五日前に終わったのだろう。
机上には食べかけの“野鳥のもも肉と根菜煮込み”と食べ終わった“青果の盛り合わせ”、それにアングイス。鼠は皿の中身を眺めては、チャゴを見、のぞき込んではチャゴを見るを繰り返している。
酒精で軽く痺れている頭で、ぼんやりと「これで森に向かえる」と思った。
机の上の鼠が、小さく皮肉まじりに鳴く。
「金が足りない」と思い知らされて、自棄気味にもも肉を齧った。
少しふらつく足で宿に戻り、煙草と汗と酒のにおいを纏ったまま、ベッドに潜り込んだ。
宿の仲働きに井戸でくんでもらい、部屋の前まで持ってきてもらう。卑銭を三枚渡し、昨日着ていた服を手渡すと、無言のまま礼をし去っていく仲働き。
チャゴと同じ年頃の仲働きは、ほとんど無表情で淡々と仕事をこなしていく。
手渡された桶二つ。片方は空でもう片方には、香草と薬草が漬かっている。仲働き曰く、殺菌効果があるのだそうだ。
顔を洗うと衣服と髪から、酒場でついた煙草と酒の匂いが香ってくる。この街のほとんどの酒場で喫煙されているせいで、毎回これを落とさないと、どうにも落ち着かないのだ。
チャゴは煙草を忌み嫌っているわけではないが、衣服や体につくこの匂いだけは苦手だった。
──まぁ、お前も苦手だものな?
ベッドで丸くなるアングイスを見た。
ぢゅ。
太々しく鳴く声がかえってくる。
鼻の効き過ぎるアングイスには死活問題だ。チャゴの体に煙草の匂いが過ぎると、察知探索の手段の一つがつぶされてしまうのだから。
別の桶に水を半分移し、布を浸して体を拭いていく。拭き終わった布を洗う桶と布を浸す桶の中の水は、薄く濁った。
「商売は清潔感が必要」、と一鳴きする鼠も三日に一度、チャゴの使い終わった綺麗な水の方に漬かる。
ぢゅ。
目が覚めると同時に“呼吸法”をしろ、体を拭けと五月蠅いアングイスは、今日の仕事は終わったとばかりにベッドで丸くなっている。
──そのやりきった感は見習いたいよ、まったく
全身を拭き終わり下衣を穿いてから、仲働きを呼ぶため扉を少し開けて、隙間から鈴を鳴らす。
毎朝、清拭するチャゴは奇妙に写っていることだろう。なにせ金持ちの習慣を中流の宿で毎朝するのだ。
などと、チャゴが妄想していると仲働きがやってきて、やはり無言のまま水が入った桶を回収していく。
そう、いつも、ならば。
「チャゴ様」
どうやら今日は違ったようである。
仲働きは、桶を持ち立ち止まる。
「チャゴ様に、ご伝言です。“鼠人の濁酒”のエルザ様とお連れの方が昼にお会いしたいとのことです。店まで来てほしい、と」
仲働きは無表情にチャゴに言を伝え、一礼すると去っていく。
その背中に「ありがとうございます」とチャゴは呟いた。と、腕を組む。
融資の返済日を二日後に控えて、この時機で会いたいと?とチャゴの頭の中が疑問符で満ちていく。心に不安がよぎり始めたところで、従魔が鳴いた。
ぢゅ。
「とりあえず、何か着ろ」とアングイスの思念に諭されて、貫頭衣に袖を通した。




