十四話
ゲゲェフ!
小邪鬼の鳴き声は、ねったりとした触感を伴う。
チャゴにはそれが不快に感じる。そして恐怖と憎悪が混じったような感情が押し寄せた。
グゲゲェフ!
小邪鬼の声にさらに草のかき分ける音が聞こえてくる。
チャゴはそれが何なのか確認もせずに走り出した。二匹目が現れたことで、恐怖心が大きくなった。
──最悪だサイアクだサイアクダ
小邪鬼たちは、逃げるチャゴに眼を向けることなく仕留めた子鹿を喰らうことを優先した。
──怖い
走りながら、甦る記憶。走っていると思い出される記憶。昨日追いかけられた事を思い出して、チャゴは過剰な拒否反応が連鎖して起こっていく。
どんどんと街道から離れる方向に逃げていってしまう。
チャゴは小邪鬼から出来るだけ離れたかった。
ぢゅ。
懐で森鼠が鳴った。
チャゴは息切れをして疲労困憊だったが、走り狂って鳴き声にまったく気がつかなかった。
ぢゅぢゅ。
懐から森鼠がチャゴの体を登り、器用に頭の上に乗っかる。
尻尾で頭をぺしぺしと叩かれて、チャゴはようやく正気に戻った。
──あ
振り返って後から何も追いかけていないことを確認すると、チャゴは段々と冷静になってゆっくり速度が落ちていく。
歩き止まったとき気が付けば、目印にしていた樹々もなく、ただ森の中にいた。
街道はおそらく遥か彼方だろう。
森の中にいて判らなかったが、太陽はもう顔を出しているようだった。
ゆっくりとまた歩き始める。
木々が少なくなり、背の低い草木が増えてくる。
一瞬、廻り回って街道付近に戻って来たんだと思ってしまう。
草木が完全にとぎれ、岩壁が目の前に現れた。
──何処まで来てしまったんだろう?…戻るか?いや、戻れるのか?
走ってきた方向を向くが、前後不覚でどう走ってきたかすらチャゴ自身判らないのだ。戻れるはずがなかった。
ぢゅぢゅ。
森鼠が頭の上で三度目の鳴き声。まるで「落ち着け」と言わんばかりの様子だった。
チャゴが頭の上から森鼠を両手で持つと、森鼠はつぶらな眼でチャゴをしばらく見つめた。
ぢゅぅぢゅ。
森鼠は自信満々に鳴く。
そして、地面に降りて岩壁を見上げ、鼻をひくつかせた。
まるで何かを探しているようだった。
──何を探しているんだ?
森鼠が鼻から勢いよく空気を出す鳴らして、歩み始めた。
岩壁上の上下方向に走る割れ目の前で止まる。
割れ目は岩壁の中腹まで続き、棚状になってあるのが下から見ても判った。
ぢゅ。
森鼠はひと鳴きして、チャゴの頭の上に戻る。
「さぁ、登るぞ」と言わんばかりの森鼠に、チャゴは顔をしかめる。
「いやいや無理ムリ」
森鼠は「やれやれ」といった様子で、仕方ないなと岩壁に近づいて森鼠自身に丁度いい割れ目を見つけると、体全体を使って登り始めた。
割れ目は森鼠がすっぽりと入る位だったが、前足と後ろ足、それに背中や尻尾、頭を使い割れ目の中、三点で支持し突っ張りながら少しづつ登っていく。
チャゴの頭の位置まで登って来ると、そのまま頭に乗っかって「次はお前の番だ」と言い張るように鼻を鳴らす。
ふんす。
「いや、無理っす」
「ん?どうした?」と森鼠は言葉がまるで分らない様子で、チャゴの頭の上でくつろぎ始めた。
──なんだこの鼠?
ぺしぺしと尻尾が催促をする。「やってみろ」と軽く挑発しているようだ。
──登るよ、登ればいいんだろ
子供が入れそうな割れ目に手をかけ、チャゴが試行錯誤しながら登り始め、なんとかコツをつかみ始める頃になると、下を見て竦む高さになっていた。
──これは落ちたら…死ぬ…かな
ふいに思っていた丁度その時、小邪鬼の遠吠えが聞こえた。
グゲギャアァアァ!
思わず音の方をみて、体勢を崩し落下しかける。
ぢゅ!
森鼠が鳴く。
突っ張っていた両手が緩んだのだ。森鼠は尻尾でチャゴの手首に巻き付き、前足で岩壁にしがみついてた。
──た、助かった
ぢゅう。
苦しげに催促する森鼠に従って、安定する体勢になった。
自分が見つかったのだと下を見るが、そこに小邪鬼はいないし、他の魔獣魔物の類はいない。
どうやら何処かで小邪鬼が叫んだのだろう。
──さっきの叫び声?恐ろしく大きかったけど
動揺したまま、声の正体を探す。
が、いつの間にか頭の上に戻った森鼠が尻尾で頭を叩く。
「さっさと上に登れ」と太々しく鳴いた。
ぢゅうぅ。
──なんだよ、もう
考えをまとめるのを中断され、少しむっとしたが確かに腕や足が疲れてきていた。
登り切ってから考えようと、気持ちを切り替えてチャゴは岩壁に手をかけた。