沈黙の魔女
ごちゃごちゃしてます。思いつきで書いたので、暇つぶしにだめ出しなどして、呼んでください。
目が覚めると見知らぬ人が私を覗き込んでいた。
その人は私にひどく混乱した眼差しを向けた。それから、ゆっくり、地面に崩れ落ちた。
顔を覆って呻く彼は、泣いているようだった。
何も言えないでいた私に、彼は、懺悔した。
私は、私のいた世界からこの世界に、落ちてきたこと。
もう二度と元の世界には戻れないこと。
ここにいる時点で私の時間は止まって死ぬことがないこと。
彼は、全てをひどく辛そうに、なのに丁寧に説明してくれた。
私は、自分でも驚くほどすんなりそれを受け入れて、この世界に適応した。
文字を覚え、常識を教えてもらう。
不思議と言葉だけは通じた。
私がこの世界に慣れていくその間も、彼は辛そうに私を見ていた。
私は、その憐れむような眼差しに居心地の悪さを感じ、彼の家を飛び出した。
逃げようーーーどこへ?
戻ろうーーーどこへ?
勢いで入った森の中を、狂ったように駆けずり回った。
長く、途方もなく長い時間が経ったように思った。
地上を照らす日は、飛び出したときと変わらない位置にある。
でも、私はそれだけの短い時間で思い知った。
私は、彼がいないと一人なのだと。
私を探してくれる人も、待っていてくれる人も、この世界にはいないのだ、と。
苦労して家にたどり着いた私を、彼は穏やかな笑みで迎えてくれた。
その笑顔には、今までの後ろめたさや罪悪感で押し潰されそうな危うい様子はなく、ただ、嬉しそうなものだった。
ーーまるで、今までを忘れてしまったかのように。
初めて彼女に出会ったのは、俺が成人を迎えた、21の年の、日差しが眩しい夏の日だった。
彼女は大木に体をあずけ、どこかぼんやりとした顔で頭上を眺めていた。
年は成人したての同年代ほどで、黒い髪と、それと同色の瞳が印象的な娘だった。
ふと、彼女がこちらに視線を向ける。
そして、小さく笑った。柔らかそうな唇が綻んで細い声を紡いだ。
「」
小さすぎるその声は、風にさらわれ、こちらに届く前に書き消えた。
何を言ったのか、気になるところではあったが、今はそれどころではない。若干びびっていた。
彼女の黒目がちの瞳が遠目に見ても潤んでいたのだ。
女の涙は強いというが、その通りだと思う。
そのまま、放っていくわけにもいかずとりあえず声をかけた。
「……誰だ?」
言ってから、失敗した、と思った。いくらなんでも、「誰だ」はない。
彼女に対して失礼にも程があるし、何より泣いている人にかける言葉ではない。初対面だし。
「……あー……。えっと、……迷子?」
いくら見かけない少女だからといって、それはないだろう。
言った後で気が付いた。
何故だろうか、口を開くたびに失言している。
もういっそのこと、喋らない方がいいのではなかろうか。
「イチ」
悶々としていると、軽やかなソプラノの声がした。
「え?」
「私は、イチ。」
それが、最初の問いに対する答えなのだと気がつくのに少しの時間を要した。
聞き慣れない響きの名だった。
黒髪といい、黒目といい、この国の人間ではないのかもしれない。
「・・・・どこに戻ればいいか、分からないの。」
眉を下げて、彼女はへにゃりと笑った。その顔は、泣いているようにも見えた。
「・・・・行く場所がないなら・・・・、俺のところにこないか?」
彼女が瞬きをする。
「俺、一人だから家事に手が回らないんだ。・・・・戻る場所を見つけるまででいい。雇われてくれないか?」
とっさに口走ったのは初対面の人に言うようなことではなかった。
ただ、今ここで、彼女を視界から外せば、消えてしまう気がしていた。その、正体不明の焦りが、口を滑らせた。
警戒されても仕方がない、怪しすぎる依頼。
それでも彼女は、小さく笑って頷いてくれた。
それから一月が経った。
イチは万能なハウスキーパーだった。
騎士団に所属している俺は、苦手な書類作業で普通に定時で帰れない。
帰る時刻はまちまちだし、朝に一応告げる帰宅予定時刻は守られないほうが多い。
にも関わらず、帰ると決まって「お帰りなさい」と笑い、出来立てのように温かな夕食を出してくれた。
でも、何より不思議だったのは、彼女が何もかもを知っているような気になるからだった。
「イチ。」
「あれ、クラウスさん。お早いお帰りですね。」
台所に立っていたイチが顔だけ振り返って言った。表はまだ日が高く、空は青い。
その日は珍しく早く帰れた日だった。
というか、彼女と同居(と言って語弊が生じないか心配なのだが)もとい、一緒に住んでいることが同僚にバレて、帰されたのだ。
恋人を放っておくとは何事だ、と。
恋人ではないといくら言っても聞いてもらえず、最終的には上司に命令されてしまった。3日の休暇をおまけでつけられて。
抵抗むなしく帰ることになった俺は、どさくさ紛れて殴りかかってくる(年齢=恋人いない歴の)輩を粛正して回る羽目になった。
さんざん怒鳴ったり、暴れたりしたので、へとへとだ。
皆が皆体力が有り余っているせいか、大乱闘にまで発展したのだ。
「お疲れですね。右の掌と、背中、痕になりますから早く手当しましょう。」
俺は、まな板に視線を戻し玉ねぎを切り終えてしまおうと作業を進めるイチに、驚愕した。
彼女は、俺が負傷した場所をろくに見ずに言い当てたのだ。
言わずとも彼女は俺の好物を知っていたし、好みの味付けも把握していた。時々、未来が見えているのではないかと思うほどに鋭かった。
「市、市歌。」
彼女と出会い、五年が経った。
月日が経つのは早く、最初はいろいろと遠慮があったが、彼女がいる生活にだいぶ慣れた。
異国の響きを持つ彼女の名が舌に馴染んだ頃、彼女から衝撃の事実をあかされた。
彼女の名は本当は市歌と言うのだそうだ。
この地方の人が発音しづらい音であったため、略し、こちらの言いやすい発音で伝えるのが習慣付いていたようだ。
「はい、何ですか?」
市歌は、時間を重ねるとともに随分打ち解けてくれるようになった。
穏やかな笑みばかりではなく、見た目の年齢相応の明るい笑顔がよく見られるようになった。
「今更、なんだか。」
「はい。」
昼食のスープを火にかけながら、市歌は狭い台所を器用にやりくりする。
「誕生日、いつ?」
「はい?」
市歌は思わず、といったように振り返ってきょとんとした後、噴き出した。
しばらく笑い続け、笑いが収まる頃には火にかけたスープは煮立っていた。
「た、誕生日ですか?・・・そうですね、憂月の八日目、ですかね。」
笑いすぎたせいか、目尻に浮かんだ涙を拭って市歌は微笑んだ。
それは、ここ最近見ることが少なくなった、穏やかで、儚げな笑みだった。
ーーー消えてしまう。
彼女は、市歌は確かにここにいるのに、その笑顔を見ると、どうしてもそう思ってしまう。
出会ったときと同じように、何の前触れもなく、彼女との別れが訪れてしまう。
そんな予感めいた考えが、脳裏をちらついた。
月日が経った。俺の年は今年で四十を超える。
彼女と出会ってから二十年が経っていた。
それなのに市歌はいつまでも変わらないまま。見た目はもう親子ほどの差がある。
市歌にわけを聞いても笑ってはぐらかされるだけだ。
そして、今年に入ってから市歌の態度が急によそよそしくなった。何が決定的に変わったとか、そういう感じではなく、ただ、市歌との間に壁を感じることが多くなったのだ。
ある日、市歌が珍しく声をかけてきた。
「クラウスさん。聞きたいことがあるんです。」
二十年前と何一つ変わらない、透明な瞳で。
「この先私が変わらなくても、一緒にいてくれますか?」
その問いに、否と答える気などなかった。
この二十年の間、少しずつ降り積もった想いは、彼女の不変ごときでは揺らぎはしない。
「市歌は、市歌だ。老いても、若くても、変わらなくても。」
「そう。」
市歌は、そっと視線を伏せた。
近頃めっきり口数が減り、憂うような浮かない表情が増えた彼女は、ふっと微笑んだ。
「私、年を取れないんです。」
体が年を重ねることを忘れてしまう。
そんな病におかされているのだと彼女は語った。
「ずっとは黙っていられない。あなたの優しさに甘えることも、つけ込むことも、許してください。一緒にいさせてください。」
そのとき、きちんとその意味を理解していれば。知ろうとしていれば。
彼女の抱える問題はもっと根深く、深刻な物だったのだと知ることができたかもしれないのに。
「五年後、月が闇に呑まれるときに、私の病は終わります。どうか、貴方の手で、終わらせて。」
彼女のいつもの微笑みに安堵して、それきりにしてしまったのだ、俺は。
そしてその日は訪れる。
彼女が病を患っていることを告げてから五年。
満月を闇が呑み込む、市歌の病が終わる夜。
「市歌。」
ぽつんと、その名を呟いた。
何の気なしに、いつものように。
カッと、眩い閃光があたりを照らした。空気が一瞬で張りつめ、神々しさまで感じた。
月は隠れたまま。
光源は何一つない。
眩しさをこらえて薄目を開ける。
そして、はっとした。地面に浮かぶ、複雑で繊細な光の紋様。
いつか、市歌と出かけた図書館で見た、おとぎ話の魔法陣。
組み立てることができない、架空の陣のはずだ。しかし、目の前で輝くそれは、夢でも、幻でもない。
「異世界につながる、魔法陣・・・。」
市歌はこのことを知っていたのだろうか。
今日この日に、この魔法陣が現れることを。
あり得る話だった。未来すらも見透かしているような彼女ならーーーー
そして、この陣こそが、彼女の病を癒やす術なのかもしれない。
思考はそこで停止した。
光る陣の中心に娘が横たわっていた。消えていく光の粒子に飾られた娘の髪は漆黒。ほんのりと赤みの差した柔らかな頬。眠っているかのように安らかなその顔は
「いち・・・か・・・・・・。」
何故、どうして。そんな言葉ばかりが空回りして、現実をうまく理解できない。
目の前にいるのは誰だ。
見慣れない服を着て、異世界とこの世界を隔てる魔法陣から現れたのは、誰だ。
《異界の者よ、よく聞きなさい。
貴方の時はこれから動くことはないでしょう。
大切な者の死を、もしくはこの世界の滅亡を目にするかもしれません。
元の世界には戻れません。
貴方がどこの世界の者であれ、異世界渡りは一度きり。》
童話の一説が浮かんだ。
市歌がなぜか興味を示した、「異世界の旅人」という物語。
ゆっくり、横たわる娘の瞳が開く。
黒の瞳に映っているのは、戸惑いと、見知らぬ者へ向ける、警戒心だった。
日々が、遡っていく。
私、市歌は、この世界にきて二年目にしてそれを知った。
遡るのは一日ごと。私の時は止まったまま。
未来の私が書いた日記は、全ての疑問の答えを記していた。
どれだけ虚しくても、怒りがわいても、ぶつけるべき誰かは存在しない。
誰も悪くない。偶然が、重なってしまったのだ。
ーー本当に?
異世界人が喚ばれるのは、私の生まれた世界と、この世界の月食が重なる日。
その場所で、喚ぶ者の名を呼ぶ。場所はどこでもいいわけではない。
限定された状況。
この世界には馴染みのない名。
彼は私が異世界人だと知らなかった様子であったし、あの日よりも二歳若い彼はやはり知らない。
日記によれば、異世界召喚の魔法陣が描かれた童話を一緒に読んだようだが、そうして知った異世界召喚の条件すら、彼は覚えていない。
それほどまでに興味がないことだったのだ、彼にとっては。
異世界召喚を真に受け、私が異世界人であることを知り、その条件も理解している。そんな人物は、私以外にはいなかった。
私が、私を喚んだのだ。
実際に喚んだのは、彼だったかもしれない。それでも、私は、私を、この世界に喚んだ。
膝から崩れ落ちそうになった。自分に裏切られたような心地だった。
私は、この世界が嫌いではない。穏やかで優しいこの町も、静かなこの家も。
でも、元の世界に対する執着はそれ以上にある。
私は、どうすればいいのだろう。
もし、私が彼に召喚の方法を教えなければ、私はどうなるのだろう。
何もかも忘れて、元の世界で生きていくのだろうか。
ふと、彼の顔が浮かんだ。
時を遡り、自分の時すら止めたままの私を、気味悪がらず、笑いかけてくれる人。
出会いが二十年前なのだとしたら、変わらない私の容姿は不気味なはずなのに。
彼の笑みのぬくもりを思い出す。
ーー忘れたく、ないなぁ。
それは、この世界で初めて芽生えた執着だった。
その想いは年を追うほど、時が経つほど、強く、切実なものになった。
この世界に来てから五年目、私は彼に、召喚の条件を伝えた。
「ずっとは黙っていられない。あなたの優しさに甘えることも、つけ込むことも、許してください。一緒にいさせてください。」
いつまでも若いままの私。
彼の時間ではもう五年しか共にいられない。
私の病の治癒という名目で私はあなたを騙す。
私を召喚してしまったあなたの、嘆きも自責の念も、ずっと側で見てきたから知っている。
あなたは、すべてを語れば喚んではくれない。
あのときの私の悲しみも、絶望も、優しすぎるあなたはすぐに悟ってしまうから。
だから私は、あなたの優しさに甘えて、つけ込む。
あなたにあったはずの、普通の女性と結ばれ、幸せな家庭を築く未来は、私が潰してしまう。
あなたの隣に私以外の女の影がないのが、確かな証。
それを嬉しく感じてしまう私は、たぶんとっくに狂っている。
それからの日々は、疾く、走るように過ぎた。
二十年もの歳月は、年老いることのない私にとって、瞬きの間のことのように思えた。
一日ごとに若返る彼に、薄くなっていく私の日記。
いつの間にか、出会った日が近付いていた。
晴れやかな、眩しい夏の日だった。葉陰で柔らかな風を受けながら、私は今までを思い出していた。
彼と生きてきた。いや、生きていく。
その軌跡が、この先に残ることがなくても、彼との思い出までもがなくなることはない。
足音がした。
何度も出迎えた。
お帰りなさいと笑いかけた。
暖かく返される笑顔が、どれだけ愛しかったことか。
顔を上げると、彼が、まっすぐにこちらを見つめていた。
「愛してる」
口をついてこぼれた言葉はあなたに届く前に風にさらわれて消えていった。
私と過ごした記憶のないあなたが、困ったように、私に問う。
名を、出自を。
はじめましては絶対に言わない。
雇われて欲しいと伸ばされた、優しさでできたその手に、手を重ねた。
今日が終わってしまったら、私と彼は、全くの他人だ。
騎士団の激務に疲れて寝てしまった彼の寝顔を見つめる。
まん丸に満ちた月はもうじき天頂へと至るだろう。
いつか、彼がこの日記を見つけ、開いてくれることを祈りながら、最後の文字を綴る。
すべて日本語で書かれた私の日記で唯一のこの世界の文字。
最初のページの隅に、申し訳なさそうに鎮座していた言葉。
声に出しても風にさらわれ、伝えることができなかった。
この世界で初めて覚え、その意味を図りかねた、昔の私と、あなたに当てたメッセージ。
この言葉が、私が存在しないずっと昔でも、彼を縛ることを願って。
私は、誰よりも、きっと何よりも残酷だ。
安らかに眠る彼の頬を一撫でして、彼と過ごした家を出る。
満月が私を照らす。
今日が終わる。
まっさらになったあなたと私の関係は、もう戻らない。
始まりは月の光のない、真っ暗な世界だった。
でも今はあなたとの思い出がある。
だから、大丈夫。
[昔々、あるところに、大きな森がありました。
その森には、長いこと一人の魔女が住んでおりました。
年老いることのない、若く、美しい魔女でした。
魔女は、不思議な力こそ使えませんでしたが、薬術に長け、人々に慕われていました。
魔女にはたくさんの求婚者がいましたが、彼女はどのような貴公子の求婚も受けたことはありませんでした。
あるとき、一国の王子様が、魔女に尋ねました。
『あなたは何故、私の愛を受け取ってはくれないのですか?』
魔女は答えました。
『私の愛は全て、ずっと未来へ置いてきてしまいました。』
『それは、どのような未来でしょうか。』
王子様が聞きました。
『来るべき未来であり、私の過去です。私に真っ暗な世界と、光をくれた人との、長くて短い日々でした。』
魔女はそう言って、綺麗な目で、優しく笑いました。
『私の愛はその優しい人に一生の愛を伝えました。ですから、私はあなたの愛に応えないし、愛を囁いたりはしないのです。』]
「あなたは、このお話好きよね。どうしてなのかしら。」
少年が母にせがんだのは、いにしえの魔女の物語だ。
女の子が読むような恋愛話は嫌うくせに、この魔女の求婚問答だけは好きだった。
将来騎士になると言い出したのも、この物語が原因だった。
少年は利発そうな瞳をくるくる回して、屈託なく笑った。
「魔女様はずっと結婚しなかったんだよね?」
「そうね。」
少年の柔らかい髪を撫でて母が答える。
「だから、おおきくなったら、僕が、魔女様の騎士になるんだ。」
母は、くすくすと笑った。
「そうねぇ、魔女様は今までどんな素敵な男の人が、結婚してくださいって頼んでもだめだったのだから、あなたは魔女様に求婚してきた誰よりも素敵で優しい人にならなくちゃね。」
「うん。」
「じゃあ、まずはちゃんとお母さんのお手伝いをしましょう!」
「ええぇぇ?!」
「魔女様の騎士になるなら優しくて強くて、かっこよくなくちゃだめよ。今からお手伝いすればきっとかっこよくなれるよー。」
「わかったよ~、しょうがないな。」
少年が文句を言いながら母の後に続く。
「ちゃんと手を洗ってから手伝うのよ、クラウス。」
「はーい。」
親子が去った後、ソファーには一冊の本が残されていた。
柔らかな西日に照らされた本の表紙には、『沈黙の魔女』と記されている。
これは、愛した人の名も告げず、愛の言葉を口にせず、ただ沈黙を守り続けた、美しい魔女の、物語だ。
最後まで読んでくれてありがとうございました!