サロンでの出来事
フォーレの歌曲は実にこのカフェの雰囲気に合っている。深緑にペイントされた木彫りのドアと丸枠の窓は,如何にもおしゃれと形容すべきで,芳醇としたアンティークの香りがその外連味のない禁欲な旋律と絶妙にマッチングしていた。
彼女が披露したのは,歌曲集“ある一日の詩”だった。第一部のプログラムが終わり,暫しの休憩に入ろうとした時だった。彼女は,ゲストの一人がそこを立ち去ろうとしているのを認め,急ぎドレスの裾上げ,その彼を追った。
どうやら蔵前橋通りをJRの高架下へと向かっている様だった。だが,靴のヒールが折れてしまい,彼女はその場で躓いてしまったのだ。「キャッ!」そんな叫び発するも敢え無く歩道によろけてしまった。
恥ずかしさの余り,その場で動けずにいた。ふとドラマでよくあるシチュエーションさながらに,誰かが手を差し伸べてくれたらなあと,おおよそありそうもない期待をするも,それとは裏腹に休日の人通りの多いこの場所でドレスを纏いながら地べたに横座りになっている様は人から滑稽に見られているのだろうと思ったりもした。
だが,そんな期待も外れなかった様で,「さあ」と紳士が手を差し出してくれた。尤も彼こそが彼女が追っていたその人であったが。
「かかとが折れているじゃないか」というと彼女をそのままお姫様抱っこをしたのである。
「恥ずかしい」
彼女のそう言うのも無理はない。多くの人たちが繰り出すこの秋葉原で人目もはばからないこの大胆な行為に,その場に居合わせた通りすがりの者は,冷やかされずにはいられなかった。
「ここでいいか?」と彼はあの深緑のドアまで彼女を降ろすとそのまま立ち去ろうとした。
「待って!」
彼女は,男を引き留めた。
「離婚して何年にもなるのに」男は思わずこの言葉を漏らしてしまった。
「そんなこと言えた義理でもなかったわね。私たちは,もう夫婦じゃないし。今度区民オペラで“カルメン”を演じるの。是非来て下さる。」
彼女はその公演のチケット二枚を男に手渡した。そう彼女は,メゾ・ソプラノの声楽家,憧れのカルメンのタイトルロールを務めることになっていた。
彼は純粋にオペラファンとして彼女を応援していた。そんな縁で結婚したのだが,彼の母親即ち姑との折り合いが悪く,そんな二人の間に挟まれた彼を解放しようとして離婚を選択したのだった。
「どうして二枚も」
「お付き合いしている方の分よ」
実は,彼女は常日頃男やもめになった彼を気遣っていた。男もそれを決して煩わしく思った訳ではないが,あらぬ心配を彼女にさせてはならないと方便を吐いていたのだ。
「少々無粋で,オペラなんて鑑賞しないから,当日は一人で行くよ」と内一枚を返した。
「だったら」とそれを受け取ると女は,その瞳を潤ました。男はその涙に気づくも,その訳を尋ねないのが,この礼節に適っていると思った。
「じゃあ」と男は軽く手を挙げながら,別れを告げた。女もそれに従った。事の真相も知らず、ただ、彼の進行中の恋が成就すれば復縁も望むべくものでなくなると考えるからだ。